第3話

 それから十日たった。

 高校からの帰り道、宏子は駐在の山本に行きあった。

 非番なのか、私服で、ズボンも服もどういうわけかまっさらだ。

 場所は、芳村家に近いバスの停留所である。

 「あ、あれ?ひょっとして、芳村さん宅のお嬢さん?ですよね。奇遇ですね、学校帰りですか」

 と、何度も質問をくり返す。

 その声はわずかに震えている。

 根が正直な性質(たち)らしい。

 宏子をわざわざ待ち伏せしていたことが明らかだ。

 彼女は気味わるくなり、じりじりとあとずさった。

 「そうですけど、何かご用でもあるんでしょうか。わたし、忙しいんです。ピアノを教わりに行かなくちゃなりませんし。御用があるんでしたら、家に行ってください。母がいますから。兄は、五時過ぎには帰ってます」

 と、きっぱりと言った。

 私服であるけれど、彼は警官。

 ストーカーもどきで不愉快でたまらないけれど、あまりじゃけんにするわけにもいかない。

 「モーツアルト、とても上手に弾きますね。聞き惚れてしまいます」

 と、口説いてきた。

 この人、やっぱり、狙いはわたしだったのかしら、おまわりさんのくせにナンパするなんてと思い、彼女はぞっとした。

 自分の気持ちに素直になろうと、逃げだそうとした時、

 「ひょっとして、芳村さんとちがうの?きみの家って、このあたりなんだ」

 若い男が、山本の肩越しに声をかけてきた。

 彼も、両手で自転車のハンドルをつかんでいる。

 なんでまた、自転車男ばっかりやの?いったい誰。もうこりごりやと思い、彼女はいらいらしはじめた。

 こういうときの癖だろう。

 彼女の右手が、自分の髪の毛をいじっては、指でまるめる。

 それから彼女は目をほそめ、新しく出現した男を凝視した。

 どうやら、彼女は目が悪いらしい。

 「誰だったかしら、よく見えなくて。声に覚えがありますけど。学校に眼鏡を忘れましてね。わたし、N高校の生徒ですよ、ほら」

 彼女は身体をひねり、紺の制服が相手に良く見えるようにした。

 「なにもそんなことしなくたって。ほら、田中ですよ。田中さとし。東京から引っ越して来たばかりだって話したでしょ。学校の食堂でよく会うんだけどな」

 「そうでしたかしらね」

 宏子はどこまでも他人行儀にふるまう。

 腕を組んで、小首をかしげた。

 ふたりの様子をじっと見ていた山本は、

 「それじゃ、気をつけて」

 と言い、自転車にまたがるとペダルをこぎはじめた。

 宏子はふうっと大きなため息をついた。

 「ありがとう、田中くん、わかってたんだけど、言えなくて」

 ひどい緊張からまぬがれ、ほっとしたのか、宏子は目に涙をためた。

 「どうしたの、何かあったんだ、あの人と。そんなに感激してもらうと、ぼく、照れてしまうな」

 「あほ言わんといて。あんたのせいと違う。まちがわんといてね。いい所に来てくれたの、あなたが。たったそれだけのこと。でも、せっかくやから公園でも散歩しましょうか」

 「今度はなまってるね。その方がずっときみはかわいいけどね。いいのかい、ふたりで行っても?」

 「今日は特別よ。いつも、わたしに声かけてくれるから」

 宏子は、両手でかばんを抱え、彼の自転車の荷台に、自分の尻をのせようとすると、あやうく自転車が倒れそうになった。

 「重いんだな、見かけによらず。きみって」

 自転車の体勢を立て直しながら、彼は言った。

 「よけいなお世話よ。女の子に対して失礼だと思わへんの。冗談が通じへんのやから、ほんまに」

 歩きはじめると、田中は彼女から離れて歩こうとした。

 「今日は特別だって言ったでしょ」

 彼女は、自ら、彼に近づいていった。

 ふいに横なぐりの強い北風が吹きすぎ、宏子の長い髪の毛を乱した。

 田中は首に巻いていたマフラーをはずすと、

 「さあ、良かったら」

 と、彼女に手渡そうとした。

 だが、彼女はすぐに応じない。

 しばらくして、まっすぐ前を向いたまま、

 「まだ付き合ってるわけじゃないんだからね。わかるでしょ」

 と、声をひそめた。

 さとしの心は穏やかではない。

 これから曲がりなりにも宏子と付き合って行けそうな予感はある。

 彼は淡い期待と、今日ここにやってきたことに対する少々の後悔の念を抱きながら、興福寺の境内を猿沢の池方面に向かって歩いて行く。

 父の転勤で、やむなく奈良に来た。

 幼いころからかぞえると、幾度引っ越したことだろう。

 そのたびに、友だちを見つけるのに苦労した。

 男の友だちは、同性だから、だいたい何を考えているか、察しがついた。

 どこに行っても、自分が声をかけて、口をきいてくれた女の子はほとんどいなかった。

 もっとも、彼女たちはいずれも高嶺の花だった。

 こちらに来て、一番に気になった女性が宏子である。

 美人とはいえないが、なぜかほうっておけない気がした。

 古都でそういう女性にめぐり合えたのは、奇跡と言えるかもしれない。

 「田中くん、いったい何考えてんのやろな。どうせろくなことやないんやろ」

 彼女はほほ笑みながら地元の言葉でいうと、境内の小石をひろった。

 「ほら、あなたがぼんやりかどうかためしてあげるから」

 と、さとしに向かって投げつけた。

 小石は彼の右太ももにあたった。

 彼がきつい視線を彼女に向けると、彼女は、きゃっ、と叫んで走りだした。

 さとしは宏子を追いかけはじめた。

 せっかくの縁である。

 さとしは、この恋を大切にして行きたいと思った。

 (了)

 


 

 


 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

  

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菜美史郎 @kmxyzco

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