第2話
雑談には応じるものの、結局、山本は勧められたお茶を一口すすっただけで「どうもおじゃましました」と言って、帰ろうとした。
「それじゃ、仏様とおんなじになってしまいますわ。大切なお役目をなさっておられるんだし」
春子が彼をひきとめ、二杯目をつぎたした。
「いや、それはそれは、ありがとうございます」
茶湯を残らず飲みほしてから、「いやどうも、おいしいお茶でした。ごちそうさまでした」と礼を言い、腰を浮かした。
「大した用もないのに、おじゃましてしまいまして。これじゃ上司に叱られてしまいそうです」
と言いつつ、玄関に向かって歩いて行く。
芳村の家は、町屋造りになっている。
玄関から裏の勝手口まで、土足で歩けた。
山本は、官憲である。
みだりに庶民の家に立ちいることはできないはずで、今回の訪問には何か意図があると思わざるをえない。
これで帰られたんじゃ、今晩、熟睡できないと思った春子は、山本が戸を開け、敷居をまたいでから、路地の方を向いたまま、後ろ手で閉じめようとした際、彼に声をかけた。
「あのう、何か、宅にご用でもおありになったんでしょうか」
迫力のある彼女の言葉に山本はふり返り、
「いや、ほんとに失礼しました。特別な意味は何にもありません。立ち寄りたいからそうしたとしか言いようがないんです。若気の至りというか、お嬢さんのピアノに魅かれてといったほうがいいでしょうか。わたし、ちょっとムードに弱いんです。今は、公園の樹木だって秋の色をきれいに演出しているでしょ。久しぶりにこちらに赴任しましたから、あちこちに思い出がありますしね。うまくなられましたね、お嬢さん、大きくなられて。前にお見かけした時は、小学生でしたかね」
と、体裁のいいことを、声高にしゃべった。
この時も、きちんと春子の目を見ない。
彼女が失意の色を顔にあらわすと、
「ああ、そうだ。お宅のご家族はお三人でしたね」
と、訊くべきことを思い出したように言いそえた。
上がり口にそろえた靴が気になるのか、ちらりと視線を走らせる。
「ええ、そうですわ。わたしと、それから、今ピアノを弾いていた娘の宏子、それに息子がひとりいます。俊雄です。それが何か?」
「いえ、なんでもありません。ご家族のことくらいしか、訊くべきことがないんですよ。ほんとにそうなんですから。息子さんは、今、お留守ですね。N銀行にお勤めとかの?」
「ええ、ちょっと。買いたい物があるとかで、三条通りの方に出かけています」
「そうですか。買い物ですか。それはいいですね。もうおいくつになられましたか」
「二十歳をちょっと過ぎました」
「そうですか、立派な社会人におなりになって。それじゃこれで」
山本は、戸を閉める際、軽く会釈をした。
どこかが故障しているのか、キイキイと音を立てて、走り去って行く。
居間と玄関の三和土をへだてる障子をあけ、宏子が顔をのぞかせた。
不安げな表情をしている春子に向かって、彼女はほほ笑んでみせた。
「おかしな駐在さんやね、お母さん」
「お前もそう思う?あの人、おまわりさんやで。今春赴任したとかで春先に一度来やはったよね。今頃、いったい、何のご用やったのかしら。気味がわるいわ。俊雄のこと、気にしていらっしゃる様子やったし」
そう言って、春子はいぶかしげな表情になった。
相手が娘であり、緊張から解放されたせいか、訛りで話す。
最初、山本がこちらに来たのは、警官になりたてだったから、今では三十歳くらいになっているはずである。
その時は生駒の生まれだと言い、流ちょうな関西弁で話した。
だが、今回は、どういうわけか標準語でしゃべった。そのことが春子を不安にさせる。
「だいじょうぶよ、お母さん。お兄さん、べつに何もしてへんし。今までに交通違反を二度ばかりやったくらいかな。スピードを一回と、あとは一時停止違反だったやろか。ちゃんと反則金は収めたし。何も心配することあらへんと思う。巡回に来やはったから、ちょっと立ち寄っただけやと違うやろか。あんまりいろいろ心配せえへんほうがええのんとちゃう」
「そうやろか。おまわりさんて、そんなに暇なんやろか。えらい丁寧に話さはったし」
春子は、この頃、何かにつけて心配が先に立つ。
女手ひとつで育てていることが、彼女の心の重しになっているらしい。
「お母さん、きれいやから緊張しはったんかも」
「あほ言うたら、あかんで。親のこと、からかうのも、ええかげんにしとき」
「そんならひょっとして、あたしのピアノに魅かれはったんかもしれへん」
「そんな冗談言ってはったけどな。教わったばっかりやろ、あんたのモーツアルト。それより、気をつけたほうがいいかも、あんたも。なんぼおかめやいうたかて、もうすぐ番茶もでばなや。人生でいちばんきれいな時や。そんなあんたのことを見染めはったんやったんかもな。あの駐在さんも、まだ若いし、ひとり身みたいやで。今に、何人も男の人があんたのあとをつけて来るから」
「ああ、気持ちわる。それじゃ金魚のふんみたいやないの。わたし、おまわりさんってあんまり好きやないし」
「なんでや。いいお仕事やろ。人のためになることをしてはる」
「ああいえば、こういう」式の、いつもの母と娘の会話がもどってきた。
春子が力んで話しはじめると、彼女の顔が赤らんでくる。
「ああ、良かった。お母さんが元気になってくれて。さてと、もっとモーツアルト、練習、練習」
こうして、この日は暮れた。
俊雄が帰宅したのは、ずいぶん遅かった。
友だちと酒を飲んだらしく、そばに寄ると、ぷんぷん匂った。
春子が、何気なく、会社で何かなかったかと問いただしても、
「何もあるわけないやろ。仕事を覚えるだけで、精一杯や」
と、笑い飛ばすだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます