菜美史郎

第1話

 晩秋のある日曜の午後。

 芳村宏子は居間の隅においてあるピアノに向かい、モーツアルトを弾いていた。

 格子窓のすき間から、時折、風が吹きこんで来て、彼女に肌寒い想いをさせるが、彼女は窓を閉めようとはしない。

 ときどき、カラカラと乾いた音を立て、枯れ葉が路地の上を飛んで行く。

 近くの公園にジョギングにでかけ、帰ったばかりの彼女である。

 ひたいや首筋に汗をかいている。

 すき間風は、熱くほてった身体をさますのにちょうどいいらしい。

 時折、路地の上で誰かが足をとめるが、彼女は気味わるく思わない。

 むしろ自分の演奏が人をひきつけるんだと、いい気分になった。

 ひとつの高まりが終わり、静かな旋律を弾きはじめた時、窓際を誰かが自転車に乗って通りすぎるのが見えた。

 玄関先で、ガチャリとスタンドを立てる音がした。

 呼び鈴が押されると、家の奥にいた宏子の母、春子が小走りでかけて来て、

 「はあい、どなたさまでしょうか」

 と言ってから、引き戸をあけた。

 「どうも。駐在の山本です」

 男の低い声がつづいた。

 玄関と居間は、東障子一枚、へだてているだけである。

 声音に、感情をおしころしたような想いがこもっているのを感じた宏子は、ピアノを弾くのをやめ、耳を澄ました。

 「あら、駐在さんじゃありませんか。毎日見まわりご苦労様です。そんな門口でたたずんでいらっしゃらないで。お茶でもさしあげますから、どうぞお入りください」

 「それが、そのう」

 「元気がおありじゃないんですね。風邪でもひかれましたか」

 「いや、そんなことはないんですが」

 終始、何かが奥歯にものがはさまったものの言い方をする彼の態度に、宏子は、芳村家にとって不都合なものが迫りつつあるように感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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