16 帰る夏


   ◆◆◆


 ぽたりと涙が零れて手の甲を濡らした。


 濡れた手をそのままに、わたしはフクを撫で続けた。

 だいじょうぶ、の声は震えながら掠れて消えた。

 エンジンを吹かしながら原付がアパートの前を引き返していく。


 もうフクの耳はぴくりと動かなかった。

 膝上の身体はしっとりと温かだったけれど、ひとつ大きく息をついたきり、呼吸は戻らなかった。


 眠っているみたいだった。


 猫の寝顔はいつだって笑っているように見える。

 なのに口からちょこんとのぞいた桜色の舌は、真っ青に鬱血うっけつしたかと思うと、急速に色を失って紙のように白くなっていった。

 命の気配が遠のいていくのを感じながら、どうすることも出来ずに、わたしはただじっと見ていた。


 ずいぶん長く夢を見ていたような気がする。


 "混線"の中で何度も繰り返し帰っては、空っぽのアームチェアで待ち続けていたのに、現実で過ぎた時間はほんの一瞬だった。

 

 目を閉じると、あの時間がくっきりとまぶたに浮かんだ。


 椿つばきこずえが揺れて、ストーブがしゅんしゅんと鳴って、時計がカチカチと時を刻んで、アームチェアが揺れて、膝の上で眠る自分がいて、おばあさんがいる。


 ゆらゆらと揺られながら眠るフクは幸せそうだった。


 最期の瞬間。


 欠けたピースガぴったりとはまるように、記憶は軽々と時間を越えた。


 フクは探し続けたあの時間に帰っていったのだ。




 前日の雨が嘘のように空は晴れわたった。

 大人しかったセミの声が戻って季節は夏に立ち返った。

 わたしは椿の木の下に出来たばかりの小さなお墓に野花を添えた。


 ブロック塀に囲まれた小さな箱庭と、ちんまりとした佇まいの平屋は、夏の陽光の下、青緑瓦せいろくがわらをきらきらと輝かせていた。

 フクがおばあさんと暮らした家だ。

 “トレース”で繰り返し辿ったから、フクの家を探し出すのは、そう難しくもなかった。

 アパートから林道を下った先にある、古い住宅が建ちならぶ一画に、ひっそりと平屋は残されていた。

 見つけた家の庭――椿の木の下にフクのお墓をたてた。

 わたしはお墓に手を合わせて、フクの冥福を祈った。

 

 行くぞ、とうしろで声がする。

 車のトランクにスコップを片付けて、タマサカさんがわたしを呼んだのだ。

 

 なにかと忙しい人なのに、昨日から付きあわせっぱなしで、なんだか申し訳なくなる。おまけに穴まで掘ってもらったのだ。

 これ以上、タマサカさんに時間を割いてもらうわけにもいかない。

 わたしは立ち上がって振り返る。

 思いのほかすぐうしろにタマサカさんがいて、少し驚いた。

 タマサカさんは口を一文字に引き結んで、じっとお墓を見下ろしていた。

 端正な横顔からは、なんの感情も読み取れない。

 色々なものに“混線”しているわたしにも、相性のようなものがあるらしく、断絶されているものがある。

 断絶されたもののリストの中には、タマサカさんやイルマの名前もあった。

 イルマに紙人形のような印象しか持てないように、タマサカさんにははがねのような印象しか持てない。

 冷たくて硬質な雰囲気は、いつもわたしを落ち着かなくさせる。

 

 「――イルマ」


 ぽつんと呟いた。

 深い意味はなかったけれど、なんとなく気詰りで喋らずにはいられなかった。


 「やっぱりイルマにも優しいところはあるんです」


 タマサカさんが視線だけで問い返す。わたしは続けた。


 「最期にフクを帰りたがっていた記憶に誘導してくれたのはイルマなんです」


 もしタマサカさんが言うように、イルマに善意が存在しないのなら、わざわざフクに幸福な記憶をささげたりはしなかっただろう。


 わたしがそう言うと、タマサカさんは口を開きかけて、また閉じた。

 硬質な横顔は虚空の一点を見つめたまま何も語らない。

 不意にきびすが返される。


 「かもな」


 背中ごしに呟いてタマサカさんは車へ歩いていった。


 わたしはあわててタマサカさんの後を追った。




   GIFT 3  (了)

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