12 最後の夜
◆◆◆
「“トレース”を続けてください」
止まりかけたわたしの手に、そっと右手を添えてイルマが言った。
声の近さに、ぎょっとした。
背後に回ったイルマが、後から右手を伸ばして、わたしの手の甲を包むように覆っている。
“トレース”に集中するあまりいつの間にイルマが移動したのか分からなかった。
背中にイルマの体温を感じた。
予想外の近さに、どぎまぎしてしまう。
それにこれ以上の“トレース”を続ける意味があるとも思えなかった。
「でも……」
「チャンスは一度しかありません。続けてください」
イルマの声は囁きにちかかった。切迫感はない。
それでも抗い難い何かを感じた。
わたしは黙って、意識を猫――“ワタシ”に同調させた。
◆◆◆
少し具合が悪いだけ
すぐ帰ってくるからね
そう言って笑うと、おばあさんはがさがさした掌で、“ワタシ”の頭を撫でた。
だいじょうぶ
だいじょうぶ
それが口癖なのは人一倍臆病な“ワタシ”を安心させるためだ。
長い孤独の経験は、“ワタシ”をひどく臆病で気難しい性質にした。
些細なことで恐怖に跳び上がり爪をたてる気性は、お世辞にも可愛いものではなかっただろう。それでもおばあさんは、だいじょうぶ、と繰り返しては、優しく“ワタシ”を撫でた。
おばあさんに拾われた年――最初の冬が終わり、春が来て夏が過ぎて秋になり、また冬がきた。季節はゆるやかに廻っていった。
いつまでも可愛げなく臆病なままの猫を膝に抱いて、おばあさんは、だいじょうぶ、と繰り返し続けた。
ひとことひとことが温かな体温と一緒に白い毛並を撫でるごとに、胸にこびりついた恐怖はゆるやかに溶けていった。
三回目の冬が訪れる頃には、臆病で気難しかった気性もすっかり落ち着きをみせるようになった。
アームチェアに揺れる膝上で、静かに眠る穏やかな日々だった。
いつまでも続くように思われた時間は、ある日、ふつりと途切れた。
少し具合が悪いだけ
すぐに帰ってくるからね
噛んで含めるように語りかけると、おばあさんはいつもより念入りに準備をして出掛けていった。
それがおばあさんの笑顔を見た、最後になった。
おばあさんが家を空けてしばらくたった。
おばあさんが頼んでおいてくれたのだろう。近所の人が代わる代わる面倒をみてくれた。空腹に悩まされることはなかったけれど、空っぽのアームチェアとがらんどうの家が怖くて、夜中に何度も鳴いた。
鳴き疲れて声が枯れた頃。
夕闇が差し迫る時刻に、どやどやと黒服姿の人間たちが押し寄せてきて、がらんどうの家をいっぱいに満たした。
潮が引くように人が履けた後、奥の和室に敷かれた布団に、おばあさんが横たえられていた。
眠っているように見えた。
それでいて鋭い耳と鼻は、止まった呼吸と微かな腐臭を、敏感に察知した。
おそるおそる布団に近づいたところで、罵声がとんだ。
ダメダメ
エンギワルイ
オイダシテ
“ワタシ”は屋外に追いはらわれた。
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