11 家
玄関のガラス戸に一枚だけガラスを抜いて
ドアには消えかけたマジックで、『フク』と書いてある。
――フク。
おばあさんはいつもフクと呼んだ。
みっつ目の名前。
もっとも長く使われた名前。
そして、もう使われなくなった名前。
――フク。
呼ばれた気がした。
それとも呼んでほしいという願望からの、空耳だろうか。
植木鉢の裏を器用にすり抜けて、ペッドドアから屋内に入る。
むっとした埃っぽさが鼻を突いた。
古民家特有のすえた匂いと、防虫剤の匂い。良い香だとは言い難いけれど、嫌いではなかった。むしろほっとした。
下駄箱の脇に箒とちりとりを突っ込んだバケツが無造作に置かれていた。
上り
頭上にぶらさがった
短い廊下の突き当たりに居間があった。
ストーブもアームチェアもローテーブルも、なにもかもがしっくりと定位置に納まっている。
やってきたたくさんの人たちは、何も運び出さなかった。
イラナイ、と言っていた。
コマル、とも。
だからなにもかも残された。
けれど、おばあさんの居るべきアームチェアだけは、空っぽだった。
また胸がひんやりと冷たくなる。
ひたひたと空っぽのアームチェアまで歩く。
尻尾をぴんと立てて、アームチェアに頭を擦りつけた。
自然と喉が鳴る。
ひょいとチェアに飛び乗ると、革ごしにスプリングが軋んだ。
そのまま四肢を折りたたむように蹲る。
目を閉じた。
静かだ。
しゅんしゅんと鳴るやかんはもうない。
カチカチと煩かった時計は止まったままだ。
屋根裏をカサコソと駆けていくものもいない。
バリバリバリバリ
爆音のような音に、びくりと目が覚めた。
音への驚きで恐怖が弾けそうになる。
本能的にぎゅっと身を縮める。
すぐにでも逃げ出せるように後脚を待機させた。
耳をそばだて、音を追う。
前の路を原付バイクが通り過ぎたのだ。
耳慣れた、だいじょうぶ、の声は聞こえてこない。
アームチェアは空っぽだ。
落ちつかない視線の端が、時計のわきにある
20××年1月30日
カレンダーの日付は四年前で止まっていた。
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