10 家路
◆◆◆
一歩を踏み出すと、ぴちゃりと水溜りを踏んだ。
不思議と冷たくはなかった。
ふかふかと柔らかな足裏は、あまり温度を感じない。
随分と目線が低いのは、とても小さく四つん這いになっているからだ。
注意深く首を廻らせ、空を振り仰ぐ。
しとしとと降りしきる
辺りはすっかり暗くなっていた。
もう眩しくない。
昼の光にぼやけていた視界は、ようやくすっきりと白黒の像を結んだ。
“ワタシ”がどうしたのかは覚えている。
寒さと空腹で脚が萎えて、植え込みで休んでいたのだ。
そして“ワタシ”がどうしたいのかも分かっている。
かえりたい
かえりたい
家はそう遠くない。
かえろう
かえろう
何処へ向かうべきかは迷うまでもなかった。
糸を手繰っていけば、おのずと家に帰り着くのだ。
かえろう
音もたてずにするりと植え込みから抜け出した。
灰色の毛はしっぽりと濡れていたけれど、もう寒くない。
大丈夫だ。
帰れる。
身体が何もない広い空間を
駐車場を駆け抜け、林道の側溝伝いに坂道を下る。
ときどき車が行き過ぎて、ライトの光が夕闇を裂いた。
ライトが見えるたび、物陰に身を潜ませて、車をやり過ごす。
“ワタシ”はとても臆病だった。
胸の中にいつも恐怖の気配があって、それは絶えず注意深く
ひとたび何かが起これば――たとえばお皿を落としたり、知らない人がくしゃみをしたりしようものなら、胸の中の恐怖は針に突かれた風船のように
路地を歩いているだけでも、恐怖はたびたび暴発しそうになった。
とても気難しい馬の手綱を引くような細心さで、なんども自身の恐怖をなだめなくては、前にも進めなかった。
薄暗い裏路地を行き過ぎ、サザンカの生垣を潜り抜け、民家と民家の隙間を滑り出る。ぐにゃぐにゃとよく曲がる身体は、流動体のような滑らかさで、どんな隙間でも、するりするりと通り抜けたし、よくしなる四肢は“自分”の何倍もある高さを、軽々と飛び越えてみせた。
やがて移動という水のような流れは、ある一軒の民家の前で止まった。
とても古い平屋が、ブロック塀に囲まれて、ちんまりと佇んでいた。
帰ろうとする本能の糸は、この家にきつく
夕飯を支度する美味しそうな匂いが、あちこちから漂ってくる時間だというのに、家には電気ひとつ灯っていない。
郵便受けの開閉口は、ガムテープでぐるぐる巻きに閉ざされていた。
遠慮がちに、でもよく手入れされていたはずの庭の椿がずいぶん大きい。枝は好き勝手なほうを向いて、伸びきったままだ。
枯れた花壇。
横倒しになった植木鉢。
腐葉土になりかかった枯葉。
石のようにカチカチな散水ホース。
明らかに人の気配が途絶えて久しい民家の様子に、胸がひやりと冷たくなる。
この感覚に言葉を当てはまるなら、失望、だろうか。
そしてこの失望を、“ワタシ”はよく知っていた。
もう何度も確かめたのだから。
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