8 その灰色の猫は


   ◆◆◆


 その灰色の猫には、たくさんの名前と、たくさんの寝床ねどこと、たくさんの古い傷があった。そして今、その灰色の猫には、ひとつも名前が無くて、ひとつも寝床がなくて、たくさんの古い傷だけが残った。

 

 古い傷のひとつひとつに物語があった。

 傷はまるで記憶という絵葉書にされた消印のように、その灰色の猫が歩んできた道を示していた。


 その灰色の猫は大半の時を灰色の猫として過ごした。


 灰色の猫として餌を食べ、灰色の猫として縁の下で眠り、灰色の猫としてブロック塀の上でひなたぼっこをした。

 けれど残された記憶の絵葉書のいくつかには、まるで何枚か差し替えたように、白猫が姿を現した。その灰色の猫は大半の時を灰色の猫として過ごしたけれど、時々は白猫だった。


 その灰色の猫は白猫として生を受けたのだ。


 生まれたのは物置小屋の古着の詰まったダンボールの中で、そこで真っ白な母猫と白黒の兄弟たちと団子になって、にゃーにゃーと鳴いて過ごした。

 いくつかの満腹といくつかの微睡みの後、突然、伸びてきた手が首根っこを掴んだかと思うと、放り捨てられた。

 どさりと落ちた先は草叢くさむらだった。落ちた時に尖った枝で足裏を切った。

 それがひとつめの傷だった。


 真っ白な子猫は草叢にうずくまり、ぶるぶると震えながらにゃーにゃーと鳴いた。

 いくつかの昼といくつかの夜の後、突然、伸びてきた手が首根っこを掴んだかと思うと、抱え上げられた。

 学校帰りの子供たちが、かわるがわる真っ白な子猫を抱いては、やかましく騒ぎ立て、パンとハムを置いて帰っていった。

 いくつかの昼といくつかの夜と、いくつかのパンといくつかのハムは、子供たちと一緒にかわるがわるやってきては、子猫の周りをにぎやかした。

 子供たちは子猫をシロと呼んだ。

 いくどめかの昼と夜が入れ替わり、白い毛並が薄灰色に汚れた頃、子供の一人がシロの前脚を踏んだ。

 シロはぎゃっと鳴いて逃げた。

 臆病なシロは二度と草叢には戻らなかった。シロは名無しの子猫に戻った。子猫の前脚の指は少し歪んだ。

 それがふたつめの傷だった。

 

 薄灰色の子猫はマンションの植え込みに蹲り、ぶるぶると震えながらにゃーにゃーと鳴いていた。

 いくつかの太陽といくつかの月が天頂をゆき過ぎた後、突然、伸びてきた手が首根っこを掴んだかと思うと、運び去られた。

 バイト帰りの青年が、子猫を抱えてアパートへ帰った。

 青年の部屋は半分がベッドで半分がゴミで埋まっていた。

 青年はそこで子猫を自由にさせた。

 子猫は四角い部屋の中でだけ自由だったが、青年はめったに帰らなかった。

 たまにパチンと電気がついて青年が戻ると、弁当の残りを子猫に食べさせた。

 青年は子猫をリンクスと呼んだ。

 リンクスは半分がベッドで半分がゴミで埋まった四角い部屋で、たまに電気が灯る時だけ弁当の残りを食べた。

 いくつかの電気が灯り、いくつかの弁当が空になって、リンクスが大人になったころ、酔っぱらった青年はリンクスの尻尾をライターで焼いた。

 リンクスはぎゃっと鳴いて窓から逃げた。

 臆病なリンクスは二度と部屋には戻らなかった。リンクスは名無しの白猫に戻った。白猫の尻尾の先は少し禿た。

 それがみっつめの傷だった。


 いくつかの街といくつかの路といくつかの橋を越えて、白猫はいつしか灰色の猫になっていた。

 いくつめかの街で石を投げられ、いくつめかの路で野良猫に追われ、いくつめかの橋で欄干らんかんから跳び降りた。

 鼻にひとつ背中にふたつ傷が増えて右耳の端も欠けた。

 臆病な灰色の猫はますます臆病になった。

 灰色の猫は、ハムもパンも弁当の残りもない日々の生き方を知らなかった。

 雪片がちらちらと舞い落ちる頃。灰色の猫は道端に蹲ったまま、空腹と寒さでぴくりとも動けなくなった。

 いくつもの雪片が灰色の猫を白く埋めたころ、突然、伸びてきた手が包むように灰色の猫を抱き上げた。

 臆病な灰色の猫は最後の力を振り絞って、じたばたともがいた。

 もがきながら顔が見えた。

 白い人だった。

 白い人は微笑んで、灰色の猫に話し掛けた。


 だいじょうぶ

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