7 記憶の残骸



 朝から降り続いた雨は、いつまでも止みそうになかった。

 窓外の灰色の景色が室内に暗い影を落とす。

 ガラスを伝う雨粒の淡い反射に、天井はゆらゆらと揺れて見えた。

 湖底に沈んだようなモノトーンの世界。

 電気をつけようかつけまいか迷っているうちに、とうとう自分の肌色も分からなくなってしまった。

 

 「休憩してください」


 声と同時にパチンと電気がついた。

 電気をつけたイルマは、そのままキッチンスペースに引っ込む。しばらくして冷蔵庫からミネラルウォーターを持ってくると、わたしに手渡した。

 飲め、ということらしい。

 確かに喉はカラカラだった。


 わたしは「ありがとう」と呟いて、ペットボトルに口をつける。

 五臓六腑ごぞうろっぷにしみわたる音が聞こえそうなくらい、黙々と水を飲んだ。

 喋る元気はとっくに尽きていた。

 眩しさと頭痛と吐き気で、頭がくらくらする。

 左腕の骨折も、じくじくと疼いて熱っぽい。

 身体が重かった。

 単純に言えば、それは疲労と呼ばれるものだったけれど、「疲れている」という表現は、ぴんとこない。


 でがらしみたいだな、と自分では思う。


 全てを絞り尽くした後の倦怠けんたい感。

 抜け殻のような虚脱。

 身体から失われたのは体力なのか気力なのか、それとも命そのものなのか。

 いずれにしろ、あまり身体に良さそうな状態だとは思えなかった。


 「諦めませんか?」


 繰り返されるイルマからの提言ていげんも、これで何度目になるのだろう。

 時刻は午後五時を過ぎていた。

 昼からずっと“トレース”していたのだ。


 テーブルには、ノート二冊と、大小さまざまなスケッチ用紙が、乱雑に散らばっていた。泥酔したランボーが書き散らしたような散文も、発狂したゴッホが徹夜して描いたようなスケッチも、全部、“トレース”による記憶の収穫物だった。


 残骸、と呼んだほうが正しいかもしれないけれど。


 「諦めるしかないのかな……」

 

 我慢していた弱音が、わたしの口から零れる。

 足元のダンボールの中で、灰色の猫がごろごろと喉を鳴らしていた。

 少し前から猫は眠ったまま喉を鳴らし始めた。

 わたしはそれを回復の兆しだと喜んだ。

 けれどタマサカさんは、「最期の喉鳴らしだろう」と言った。


 猫が喉を鳴らすのは、何も機嫌がいい時とは限らない。

 負傷したり死期が迫ったような時にも、苦痛を和らげる脳内物質エンドルフィンの分泌によるとおぼしき、「喉鳴らし」がみられるのだそうだ。


 「長くない」と、タマサカさんは無表情に告げた。


 ナガクナイという言葉は、ずいぶん余所余所しくわたしの耳に届いた。

 足元で眠っている猫と、言葉の意味が結びつかない。

 実感がわかなかった。 

 猫は微かに意識が浮上するたび、薄暗い眠りを裂く閃きのように、かえりたい、と願い続けているのだ。

 カレの切実な願いと、長くないという宣告に、胸が苦しくなる。

 何もできない自分が腹立たしかった。

 

 「こんな“トレース”じゃ、場所が何処か分からないよ」


 わたしはスケッチの一枚を、投げやりに指で弾いた。

 紙はヒラリと一回転して床に落ちる。


 「そうでもない」


 タマサカさんは落ちた一枚を拾い上げ、じっと眺めて検分すると、何を基準になのか紙の束の後ろに挟み込んだ。


 「だいたい時系列順になっているはずだ。順を追って読み直してみろ」


 タマサカさんはたっぷりとたわんだ紙の束をわたしに差し出した。

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