6 漱石の猫


   ◆◆◆


 暗くじめじめした場所で、にゃーにゃーと鳴いていた。


 もつれ合う兄弟たちの温もりをよすがに、乳を飲んでは眠る。

 いくつかの満腹といくつかの眠りが、駆け足で通り過ぎていった。

 暗闇の中で、ただ生きようとだけする塊は、唐突に恐怖をしる。


 ふわりとしてぐらぐらとしてどさりとした。

 

 浮遊感と振動と衝突。

 一連の変動の後、世界は一変していた。

 

 お互いの区別もなく温かだった大きな塊はもうない。


 ぽつんとしていた。


 とても寒い。


 ひどく怖い。


 ぶるぶると震えながら、にゃーにゃーと鳴いた。


   ◆◆◆


 「夏目漱石すきですよ。『吾輩は猫である』とか」


 茶々が入ってペンが止まる。

 むっと顔を上げると、イルマがノートを覗き込んでいた。

 どうやら窓辺の定位置からテーブルに移動してきたらしい。

 イルマは慎重な猫みたいな静かさで、向いの席に腰かけると、退屈そうに頬杖をついた。

 すべてを見透かす彼の目は、ノートの文字を追っている。


 「茶化さないでよ」というわたしの苦情と、「茶化すな」というタマサカさんの警告はほぼ同時。

 打てば響くはやさで、「茶化してません」とイルマが答えた。

 

 「事実です」


 イルマはきっぱり断言した。

 そうかも、とあっさり認めて、わたしはノートの文字に視線を落とす。

 イルマの指摘は事実だった。

 わたしが今し方したためた“トレース”の内容は、『暗くじめじめした場所で……』のくだりからして、『吾輩は猫である』の冒頭と類似している。

 “トレース”は自動筆記のようなものだから、なぜ書くのか、何を書くのかは、書いているわたしにも分からない。

 猫の記憶を“トレース”しているつもりなのに、何故、百年も昔の小説が出てくるのだろう。

 わたしは首を捻って頭を悩ませた。

 

 「もしかして――混ざってる?」

 「混ざってます」


 ただの思いつきにもかかわらず、意外にもイルマは肯いた。

 

 「猫の記憶はほとんど断片的にしか拾えていません。足りない情報を補足してストーリー仕立てにするために、貴女は無意識化で自分の記憶ライブラリーから、『吾輩は猫である』を引っ張り出しているのです」


 「まったくデタラメの自作小説ってこと?」


 「ちょこちょこはあってます。砂モグラの昼寝程度には」


 「……よく分からないんだけど、その例えじゃないとダメ?」


 「ならクラゲのラジオ体操と言い直しましょう」


 「余計、分かりにくくしてどうするの?」


 「全力のカタツムリ、でお分かり頂けますか?」


 「……ぜんぜん無理」


 「では安息するマリモ――」


 「例えはいいから、話を進めろ」


 適切な例えが見つからず、脱線しかかった会話を、タマサカさんが修正した。

 「そこ大事なところなんですがね」と不満をもらしながらも、イルマは説明を再開する。相変わらずイルマのこだわりどころはよく分からない。


 イルマ曰く、“トレース”とは異なった知覚の翻訳機能なのだそうだ。

 翻訳される情報――原文が断片的であったり異質過ぎる場合、足りない情報を補う為、自らの記憶から類似した情報を無意識に引っ張り出してしまうらしい。


 そういう意味で、今、わたしがしている“トレース”は、翻訳ではなく意訳といったほうが正しいのだろう。

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