5 眩暈


 「……気持ち悪い」


 ぐっと込み上げてくる吐き気を、わたしは奥歯を噛みしめてこらえた。


 「だから言ったでしょう。貴女にはまだ早いのです」


 イルマが肩をすくめる。


 いつものアパートの、いつもの窓辺で、いつもの黒猫を撫でながら、イルマはテーブルに陣取り“トレース”用のノートを囲むタマサカさんとわたしを遠巻きに見ていた。

 常に飄然ひょうぜんとしているイルマだから、彼の真意をはかるのは難しい。そもそもそんなものはないのかもしれない。

 それでもイルマが今回の“トレース”に反対なのは確かだった。

 

 猫でもトレースできる?


 わたしが最初に問いかけた時、タマサカさんは難しい表情を浮かべ、イルマに目配せした。

 “タンデムパートナー”であるイルマは、わたし以上にわたしの体調や状態を把握している。“トレース”のペース管理は、イルマが手綱たづなを握っているのだ。


 イルマは首を傾げるように考えて、まだ早い、と言った。

 

 人と猫では身体機能も感覚器官もまったく違う。

 未熟なわたしでは、異なった知覚に脳が混乱してしまい、かなりの負担がかかるだろう、とイルマは説明した。


 渋い見解ではあったけれど、前向きにとらえれば「まだ早いけど出来なくはない」という意味にもとれる。

 出来なくもないのなら試してみる価値はある。

 反対するイルマを押し切って、わたしは“トレース”を強行したのだ。


 が――


 「……吐き気がするなんて聞いてない。頭ガンガンするし」

 「脳が混乱するとは、そういうことです」


 人の話をちゃんと聞かないからだ、とイルマは珍しく小言をもらした。

 言わんこっちゃないというイルマのしたり顔が、なんだかしゃくに障る。

 とはいえ何も言い返せなかった。

 反対を押して強行した手前、愚痴も言えない。

 わたしは込み上げてくる吐き気と弱音をぐっと呑み込んだ。

 やせ我慢なりに平静を装ってノートを読み返す。

 ノートには猫の記憶の断片が、つたない詩のように書き殴られていた。

 手掛かりを探して、わたしは文字を目でたどる。

 

 椿つばき

 ストーブ。

 アームチェアに揺れる膝。

 白い人の笑顔。


 単語を拾って情報を繋ぎ合わせていく。


 季節は冬。

 ストーブを焚いた暖かい部屋。

 白い人――年配の女性の膝の上で、うつらうつらと微睡まどろんでいる。

 

 今わかる情報はその程度しかない。

 場所を特定する手掛かりも無さそうだ。


 わたしは暗澹あんたんたる気分で、溜息をついた。

 真っ白なノートに向かうたび、わたしはいつも途方にくれてしまう。

 何を探してるのか分からない。

 何処に向かっているのも分からない。

 辿りつける気もしない。 

 誰かの記憶という広漠こうばくとした原野を前に、自分はあまりにもちっぽけだ。


 それでも。


 わたしは屈みこんで、足元の猫の背をそっと撫でた。

 少しだけ意識が浮上したのだろう。

 猫は返事をするように、ゆるりと尻尾を動かした。


 まだ生きている。


 そう主張しているように見えた。

 わたしはペンを握って、真っ白なノートと向き合った。

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