4 迷い猫

 

   ◆◆◆


 「……眩しい」


 握っていたペンが手から零れ落ちた。

 ペンはころころと転がって、テーブルの縁から落ちそうになる。

 

 拾わなきゃ、とは思うものの、眩しさと眩暈で動けなかった。

 

 「猫の明暗を認識する杆状体かんじょうたいの数は人間の三倍だ。そのうえタペタム層の反射もある。昼の光は猫には眩しすぎるんだろう」


 淡々とした声と一緒に伸びた手が、落ちそうになったペンを拾い上げる。

 拾ったペンをわたしに差し出して、タマサカさんは続けた。


 「色彩を識別する錘状体すいじょうたい数は人間の六分の一。赤、青、緑の三原色の人間とは異なり、猫は二原色だ。大きくカーブした水晶体の影響で近視傾向でもある。猫の視覚世界は、色彩に乏しく、ぼんやりとしているはずだ」


 「……どうりで」


 よく見えなかったわけだ、とわたしは納得した。


 窓明かりが膨らんで見えたのも、視界がぼんやりしていたのも、音や匂いの印象ばかりが強かったのも、そのせいなのだろう。


 わたしは足元のダンボールを見やった。

 タオルを敷いたダンボールの中で、灰色の猫が静かな寝息を立てている。

 寝息――と言っていいのか、少し迷う。

 猫は眠っているというより昏倒しているのにちかかった。


 わたしは駐車場の植え込みに蹲っていた猫を保護した。

 タマサカさんは猫を見て、助からないだろう、と首を振った。

 それでも放っておくのは忍びなくて、タマサカさんに頼み込んで、街中の動物病院まで車を出してもらった。

 診てもらったのは新しく出来た医院の若い獣医師だった。

 一連の診察と検査を済ませると、若い獣医は渋い表情で、猫の推定年齢が十歳前後であることと、いくつかの感染症を患っていて衰弱が激しいことから、かなり厳しい状態であることを告げた。


 助からないだろう、というタマサカさんと同じ診断結果を言外に感じながら、わたしは猫をアパートに連れて帰った。


 ばたばたと慌ただしい人間たちを余所に、猫は眠り続けていた。

 ゆるゆるとした薄暗い覚醒と、絶望的な暗転の間を、浮き沈みするような危うい眠りだ。

 眠りから覚めるたび、猫はしきりに帰りたがった。

 

 かえりたい

 かえりたい


 言語にも満たない、安息を求める本能に近い感覚は、常に何処かへ帰ろうとしていた。


 かえりたい

 かえりたい


 何処へ? と問いかけても、灰色の猫は答えない。


 カレらは人間の言語を最低限しか解さなかった。

 カレらは音を差別しない。

 冷蔵庫のブーンという低音も、窓の外で木の葉が擦れる音も、窓辺を伝って水滴が落ちていく音も、文字を記すペンの音も、そっと囁きかける人間の声も、みんな等しくただの音だった。


 ただ、かえりたい、と灰色の猫は繰り返す。


 もちろんわたしはその声を言葉として猫から聴いたわけではない。

 自分と他人の境界を見失ってしまう知覚――“混線”によって感じ取ったのだ。


 わたしは“混線”によって他者と記憶や感覚を“共有”できる。


 駐車場で猫を見つけた時から、わたしはずっとカレ――オス猫だった――の断片的な思念を拾い続けていた。

 人間ではない生物に、こんなにクリアに“混線”するなんて初めてだった。

 それだけカレの思念が強いからなのか、それとも死期が迫った脳に最後に残された思念が、それだけだったからなのか、わたしには分からない。


 それでも、その願いの切実さには胸に迫るものがあって、わたしは猫を放っておけなかった。


 もしかすると迷い猫で、心配する家族と、帰る家があるのかもしれない。

 助からないにしても、間に合うなら、帰してあげたい。


 わたしはその何処かを探すために、“混線”を文字へと引き下ろす、“トレース”に取り掛かった。

 体験や記憶の漠然とした印象でしかない“混線”は、“トレース”によって物語化される。物語になることで、読み込める情報は格段に増えるのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る