2 取扱い注意


 「安否に、興味?」


 リスニングの授業のように、わたしは単語を復唱した。

 そうだ、とタマサカさんが肯く。

 その横顔はいつにも増して真剣だった。


 「アレの目的は――性質と言うべきだが――記憶の回収だ。それ以上でもそれ以下でもない。回収のために存在し、回収のため以外には存在しない。たとえ人間のように振る舞い、時には親切でさえあったとしても、人間を模倣もほうした擬態ぎたいに過ぎない。悪意は無いが善意もない。そういう“機能”だ」


 だから、とタマサカさんはわたしのギプスに視線を滑らせる。


 「お前の腕が折れようが、誰かの脚がげようが、必要な記憶――データさえ回収されれば、エラーとして認識しない」

 「でも――」


 咄嗟に反駁はんばくしかけて、わたしは言葉に詰まる。


 ──骨折して良かったですね。


 病室で聞いたイルマの台詞が、タマサカさんの発言を裏付けていた。

 イルマ特有の出来の悪いブラックジョークは、いつだって笑えない。

 ジョークではないからだ。

 ジョークだと思いたがっているのはわたしの方で、イルマには笑わせるつもりなんて微塵もないのだろう。

 突然の遁走とんそうも、周到な準備も、わたしが負傷するであろう未来を知った上での放置だった。遅刻しようと、骨折しようと、わたしの身になにがあっても、イルマは干渉しない。

 人間ではない彼には、良心の呵責かしゃくもないのだ。


 「イルマの性質について、もっと警告しておくべきだったが、変に怖がらせたくもなかった」


 悪かったな、とタマサカさんが繰り返す。いいえ、とわたしは首を振った。

 

 「それに――」


 わたしは口を開きかけて、そのまま少し考える。

 上手く言葉にできそうになかったけれど、口の中でもごもごと続けた。


 「イルマにも優しいところはあるんです」

 

 なんだかダメ亭主を擁護する女房みたいだな、と自分で自分の発言に渋面してしまう。タマサカさんは呆れたように苦笑して、「錯覚だ」と言い捨てた。




 狭い林道を抜けて、車はアパートの駐車場に停車した。

 先が真っ暗になるくらい長くなりそうな予感がしたドライブは、会話の内容が濃密だったせいか終わってみれば一瞬だった。

 タマサカさんがわたしのボストンバッグを持って先に降りる。

 遅ればせながら、わたしも後に続いた。

 降っているのか降っていないのか、判然としない霧雨が、冷気のように肌をひやりとさせる。

 今年の夏は冷夏なのかもしれない。


 ――さむい。


 わたしは水溜りにもかまわず、真っ直ぐにエントランスへ急いだ。


 ――さむい。


 本当に寒い。寒いというより冷たい。

 あまりの冷たさに手足が強張って震えが止まらない。

 膝が戦慄いわなないて足が止まる。


 「……え?」


 気が付くと、わたしは水溜りの真ん中で、立ち尽くしていた。

 

 ここに至って、ようやく自分の寒気が、尋常ではないと覚った。

 覚ると同時に、寒さと震えと空腹と眠気が、濁流だくりゅうのようにわたしの感覚に流れ込んでくる。

 これらがわたしの体感ではないことを、わたしは経験的に知っていた。


 “混線”しているのだ。

 誰かに。あるいは、何かに。


 わたしは慌てて首を廻らせた。

 なんとなく――そうとしか言いようのない、おぼろげな勘を頼りに、駐車場の植え込みまで引き返す。

 萌黄もえぎ色をしたツツジの葉が、雨粒を滴らせて、ひっそりと茂っていた。

 寒さと空腹と眠気が、繁みの中で渦をまいている。

 とてもシンプルで原始的な感覚は、それだけに切実だった。

 わたしは屈みこんでガサガサと下草を掻き分ける。雨に濡れるのも、泥に汚れるのも、気にする余裕はなかった。

 指先が何かに触れて、ひやりとする。

 反射的に手を引っ込め、おそるおそる下葉の影を覗きこんだ。

 植え込みの下に、なにかが蹲っている。


 「セマ」


 すぐ後ろで声がした。

 様子を見に、タマサカさんが戻ってきたのだ。


 「どうした?」


 わたしは繁みの中に手を伸ばし、それを自分の方へ引き寄せる。


 冷たい。


 まだ生きているとは思えないくらい、その身体は冷え切っていた。掌に伝わる小刻みな震えと弱々しい呼吸から、辛うじて生きているのだと知れる。


 「――猫。だいぶ弱ってるみたい」


 わたしは濡れそぼった灰色の猫を膝に抱きあげた。

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