1 退院の朝



 退院の日はあいにくの雨で、霧雨きりさめに覆われた街は灰色に沈んで見えた。

 湿気寒しけざむというのだろうか。

 七月だというのに半袖だと肌寒い。

 わたしはイルマが差し入れてくれたカーディガンを肩に引っかけた。袖に手を通したいところだけど、左腕のギプスが邪魔で、それもままならない。

 寒さに泡立つ腕を擦りながら、受付で会計を済ませた。

 飛んで行くお札の数に、寒さとは違う意味で青くなりながら入院セットの入ったボストンバッグを片手に、病院の正面玄関に立つ。

 時刻は午前九時五十分。


 ちょっと早かったかな?


 わたしは首を傾がせロータリーを眺める。なんとなく手持無沙汰ぶさたで、もたもたとポケットからスマホを引っ張り出して画面を確かめた。


 車出す 午前十時 正面ロータリー


 Town──メッセージアプリに残ったタマサカさんからのログは、まるで記号化された暗号のようにシンプルだった。

 地下鉄の階段で転倒し、左肘骨折と全身打撲により入院となったわたしは、その旨をTownのメッセージでタマサカさんに伝えた。

 入院といっても検査入院のようなものなので、二日後の金曜には退院できるだろう、と送ったメッセージの後に続く、タマサカさんからの返信がこれだ。


 労うでも具合を訊くでもない要件のみの返信は、いかにもタマサカさんらしくて、なんだか可笑しかった。

 その必要があればアテナイのソフィストが如き、のべつ幕なしの弁舌家になるタマサカさんだけれど、存外、日常会話では無口な部類に入る。

 ともかく要件しか喋らない。

 最初の頃は機嫌が悪いのかと、無駄にびくびくもした。

 どうやらリラックスするほど口数が減るタイプらしいことに気付いてからは、彼の端的な物言いも、あまり気にならなくなった。

 それにしてもちょっと冷たい、と思わないわけでもないけれど。


 ふわふわとした小雨を裂くように、銀色の車がロータリーに滑り込んでくる。 ゴールドのランボルギーニだとか、小山のように真っ黒なハマーだとか噂されるタマサカさんの車はシルバーのシンプルな車で、噂なんて当てにならないものだとつくづく思う。


 フロントガラスごしにタマサカさんと目が合った。

 乗れ、と合図されたのが分かる。


 途端、棒を呑んだように背筋がピンとした。

 知り合って一年も経つのに、わたしは未だにタマサカさんの前では、カチコチに緊張してしまう。

 急に潤滑油が切れたように全身がギクシャクとして、スマホをポケットに突っ込むという単純な動作でさえ、何度も失敗した。

 なんとかスマホをねじ込んで、ボストンバッグを抱えて車に乗り込んだ時には、寒さも忘れて額に汗を滲ませていた。


 病院から自宅アパートまでの距離はそう遠くない。乗車時間はせいぜい数十分といったところだろう。

 その『せいぜい数十分』を思うと、目の前が真っ暗になる。


 怒られる気がした。こっぴどく。


 “トレース”に難航して、情報を突き止めるのがギリギリになってしまった挙句、焦って転んで骨折するという不手際の連続は、お世辞にもスマートな対応とは言い難い。

 幸い少女たちは無事だったものの、本当に危機一髪だったのだ。

 タマサカさんから容赦ない小言が飛んできても不思議はない。


 動き出した車の助手席で、叱責しっせきを覚悟して身構えるわたしを余所に、タマサカさんはちらりとギプスを一瞥いちべつしたきり何も言わなかった。

 しばらく車内に沈黙が続いた。

 車のエンジン音と、タイヤが水を弾く音と、ウィンカーのカチカチという響きが、ずいぶん大きく耳についた。

 どうやら怒られるわけではなさそうだ。

 ほっとしたところで、タマサカさんが口を開いた。


 「悪かったな」


 意外な人物から、意外な言葉を聴かされて、わたしは仰天ぎょうてんしてしまう。

 まず自分の耳を疑い、言葉の意味について考え、ワルカッタナという言葉に叱責や批難の含意がんいがなかったかを、頭の中の国語辞書で確かめる。

 なかったはずだ。たぶん。

 ぽかんとするわたしに、タマサカさんは前を見たまま続ける。


 「イルマには気を付けろ。アレはお前の安否に興味がない」

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