第18話 一度死んだ男
おぼろげな意識。今まさにゆっくりと開いた瞼を今すぐ閉じれば私はすぐにでもあの無意識の世界に戻れるだろう。
だが、そんなおぼろげな意識の中、私の視界には何者かの影が落ちる。それを目の端に捉えた私は、今日ののバイトで溜まった疲れを解消することよりも、ただ何となくその影を呆然と見る。
『あんたぁ……なんでこんなに金持ってんのよぉ……ヒック』
影の主はそんな聞き覚えのある声と酒臭い臭気を放ちながら、布団に横になっている私の上へとまたがる。
『いつっ』
『あんたぁ……聞いてんのぉ? 起きなさいよぉ』
足を乗せられたことによる腹部に痛みを感じながら、覚醒に向かった私の意識は月明かりに照らされた影の主を認識する。
影の主である私の母親は右手に持つやめる気のない酒をぐびりと一口飲むと、乱れた髪を更に振り乱しながら私にあるものを突き付ける。
『なーんでこんなもの隠してたのよぉ』
『あ……』
私は母親が手にもつくしゃくしゃの紙束に絶句する。その紙束は私がこれまで自身のつまらない人生を更に削り潰して貯めた僅かな、しかし大切な金の入った通帳だった。
『か……返して!』
『返してぇ……?』
私は掠れた声で叫ぶ。母親はそんな怯える私を見ると、先ほどまでの激昂していた表情を一瞬にして沈める。
『返してって……返してって……!! くくっ……ぷくくっ……』
冷徹な表情から一変、母親は顔を俯かせながら笑いをこらえる。そして――
『あがっ!?』
『あに言ってんのよぉ!? あんたを育てたのはあたしでしょうがぁ!!』
罵声と共に振り下ろされた酒瓶が私の頭を強打する。
『痛い……』
『あんた!? だーれのおかげで今まで生活できてんと思ってんのよ!!』
私は涙をこらえながら、頭から流れ出る温かい何かを押さえつけるようにして頭を抱える。しかし、そんな私を見ても、いや、視界に入っていても行っている事を認識できていないのだろう。母親は頭から血を流し続ける私の目の前にくしゃくしゃの通帳を出す。
『ほら、分かったらさっさと暗証ばんごー教えなさいよぉ』
『……ぃったぃ』
『誰の金だと思ってんのよぉ!!』
『あぐっ……』
喉元への圧力と共に急に息が苦しくなる。痛みを堪えながらうっすらと目を開けると、視界には母親から伸びる二本の腕が映る。
『あがっ……かふっ……ふっ……』
『はやく……答えなさい……よぉ……!!』
母親の声は鼓膜を通過するが、どんどんと酸素が無くなっていく脳にその言葉を認識する余裕は無い。視界に移る母親の腕にはいつの間にか自身の爪が突き立てられていた。
『答えな……さい!!』
『あ゛っ……がっ……』
皮膚を削る爪の感覚、早くなる自身の鼓動、圧迫感のある喉元、頭を流れる温かい血、視界に映る醜く虚ろな目をした母親……。
――あんたなんて……産まなきゃよかった
遠のく意識の中、私が最後まで認識していたのは、次第に弱まる自身の心音と、そんな冷徹な母親の声だった。
・・・
つまらない人生だった。
そんなことには当の昔にはっきりとした自覚をもっており、私自身いつこの人生が途絶えたとして、その先さへ考えなければ、途絶えた人生に対して悲しみを感じるとは考えられなかった。
だが、そんな人生に絶望した私でさえ、誰かに殺されるという事実は、それほどまでにぶつけられる恨みの感情は酷く私自身を傷つけ、その記憶に蓋をしたということだろう。
「あの世界での私は……なんだったんだ」
今更悔いても仕方がない。そんなことは分かっている。だが、それでも何故か心の奥底では後悔の念が渦巻き、それ以上に今自らの身を置いているこの状況に、前の世界と何一つ変わっていない、いや、むしろ前よりもひどいこの現状に困惑し始める。
「いや、違う……」
私怨、苦痛、恨み、孤独……様々な負の感情に突き動かされ、そしていままで仲間や自信を傷つけ、殺してきた人間を滅ぼすという大義名分をもって動いていた。
だが、それに一体何の意味がある?
「意味は……ある」
私は何がしたいんだ?
己が為でも無く、ましてや魔物たちの為でも無く、ただ復讐に身を任せ「人間を滅ぼす」という大義名分のみを胸に、自らの感情を殺し、ただ恨むままに動き、そして多くを私の指示で殺し、ここまで来た。
そこまでして、何が得られる?
「損得では無い。ただしたいからするだけだ」
本当にそうなのか……?
「私は……俺は……俺がしたかったことは……」
「……う、王!!」
自問自答を繰り返し、周囲の言葉が耳に入らなくなっていた私は、ストリゴの声にハッと我に返る。
周囲は思いを巡らす前と変わらない風景。しかし、その周囲の生物のどれもが私に対して困惑した視線を向けている。
「いや……なんでもない」
――振り返るな。
――もう後戻りはできない。
――今はただ目前にいる人間どもを滅ぼすんだ。。
私は喉元まで出かかった何かを抑え込み、そして感情を可能な限り押し殺す。
「王。今日は休まれてはいかがですか?」
「いや、いい。とにかく今は為すべきことをするのが先だ」
「……承知しました」
ストリゴはいつも通り冷静な声で返事を返す。だが、その視線の中にはどこか疑念のようなものが見て伺える。
「……」
「あの……」
先ほどまでの会話を思い返していると、横から私に声がかかる。その方向へ振り向くと、よそよそしい仕草でバーバーが私へと言葉をかける。
「ん?」
「治療……終わりました」
バーバーは鞭を打たれていた女の背中に手を当てている。恐らくバーバーの魔法によるものだろう。べたべたに濡れていたマントは乾いており、女から滴り落ちていた血は治療のおかげか無くなっていた。
「そうか、ご苦労だった。なら……」
私は女から視線を外し、バーバーへと視線を戻した私は続けるはずだった言葉を失う。
慣れない地上での移動、自身の手の中で死んでいくサテュロス、濡れたままの身体。たった一日だが、彼女にとって身体だけでなく心にもストレスとなったのだろう。
その白い肌は僅かに赤みを帯びており、動作もどこか気だるげだ。
「休んでいろ」
「……ありがとうございます」
「ストリゴ、適当な空き部屋にバーバーを寝かせてやれ」
「しかし……」
ストリゴは言い淀みながら刃を突き立てているカストロへと視線を落とす。
「お前も疲れはあるだろう。ここは私一人でも十分だ。それと、悪いが人間の女どもも連れていってくれ」
「……ありがとうございます」
「警戒は怠るなよ」
「承知しております」
カストロは刃をマントの内側へと収めると、バーバーと共に部屋を後にした。
「……酷くならなければいいんだが」
たったの3人で動いているこの現状、各員に役割が振られている為、一人でも欠ければ負担は残りに分散される。連絡役を担っているストリゴでは無く緊急時の伝達係であるバーバーが居なくとも何とかなるのは幸いといえよう。
「さて、それでだ」
「はい!?」
私は眼前で動きずらそうにもぞもぞと動いているカストロへと視線を突き立てる。カストロは一瞬身体をビクつかせると、視線を私へと戻す。
「さて、お前にはやってもらわねばならないことがある」
・・・
屋敷の窓からは薄暗い街並みを照らす太陽の光が射しこみ始めた頃、私は屋敷の一室の扉をノックする。
「はい」
私の思いとは裏腹に、部屋の内部からは男の丁寧な返事が返ってくる。
「寝ては……いないようだな」
私は扉を開け、返事の主であるストリゴに声を掛ける。ストリゴは背筋を張った凛とした姿で私を迎える。その風貌は疲れなど微塵も感じさせていないものだが、それが逆に私を不安にさせる。
恐らく、敵地へといる状態で常に警戒を張り巡らしている彼に気が休まる時はないのだろう。
「王も同じように見えますが」
「私は寝なくても大丈夫な体質でな」
「左様ですか」
ストリゴは変わらぬ冷静な声で私に短くそう告げる。私はストリゴの後ろのベッドで眠るバーバーへと視線を移す。バーバーは私に気付くことなく、少し苦しげな寝顔を浮かべている。その足元辺りには奴隷の女たちがお互いに寄り添いあいながら地面に座って眠っている。
「それで、何か分かったことは?」
「ああ、そうだな」
私はストリゴにこれまでカストロから聞きだしたことを説明する。
カストロは最近まで
「予測通りであれば援軍の為ですかね」
「そうだろうな。とはいっても、確実性が無い。侵入はガル達の情報を聞いてからでも遅くは無いだろう。それで――」
私は再びバーバーへと視線を移す。
「あいつは大丈夫なのか?」
「ええ、見たところ軽い風邪のようなので今日一日寝ていれば治るでしょう」
「そうか。とにかくお前ももう寝ろ。私が見ているし、倒れられても困る」
「……承知しました」
ストリゴはあまり納得していないようだったが、それでもさすがに疲れが溜まっていたためか、私が座る椅子を私の側に置いたのち、固い椅子の上で瞼を閉じる。
「……私は死んでいたのか」
差し込む日差しに目を向けながら、私はそんなことをポツリとつぶやいた。
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