第12話 戦うのは怖い。でも……
三階廊下に設置されたカメラが、立歯に憑依された横須賀先輩の姿を捕らえている。相変わらず動く様子はない。どうやら僕たちが来るのを待っているようだ。
「じゃあ、そういうわけやから。行くで」
陳さんが先頭を切って二階の廊下に出る。
僕たちも後に続いた。
僕たちが立てた作戦は、非常にシンプルなものだった。
瑠璃ちゃんが横須賀先輩ごと立歯をボコる。
気絶した立歯が姿を現す。
僕がそれを写真に収める。
以上。ミッションコンプリート。
「どう考えてもシンプルすぎるでしょ、これ。もっと細かい打ち合わせとか必要じゃないですか?」
三階への階段を上りながら、僕は陳さんにもう少し考えるべきなのじゃないかと何度も主張した。実際それは必要だと思う。が、それ以上に、今はまだ僕自身の心の準備が出来ていないのだ。瑠璃ちゃんの手前、なんとか強がっているけれど、このままでは失敗の危険性もある。
失敗したら今後一生、ここから出られないわけで。いや、それどころか下手をすれば瑠璃ちゃんをあの立歯とかいう出歯亀野朗に……。
そう考えると、いてもたってもいられない。やはりここは僕が心から納得出来る綿密な打ち合わせをして、失敗の危険性をとことん押し下げる必要があるように思えた。
しかし、かと言って「自信がないです。もっとこれなら大丈夫、僕でも出来ると思える大納得プランをください」と懇願する事も僕には出来なかった。
結局のところ、僕は見得が大事な小心者なわけである。
ああ、心臓がばくばく言ってるなぁ。この階段、上り切ったら首吊りの縄が待ってたりするんじゃなかろうか。
「こういうのはシンプルなのがええんや。あんまり複雑すぎたらよう覚えんやろ? シンプルに流れさえ掴んでおけば、あとはその場のアドリブでなんとかすればええ」
しかし、僕のそんな状態を知るよしもなく、陳さんはむべなく僕の提言を却下した。
「それに瑠璃ちゃんは性根を据えたみたいやで。それやのに男でセンパイのあんたがいつまでもぐじぐじ言うのは格好悪いんとちゃうか?」
言われて瑠璃ちゃんを見ると、引き締まった顔付きをしながら心を落ち着けるように深呼吸していた。
でも、よく見ると足や手が微妙に震えている。
「瑠璃ちゃん、緊張してるの?」
さすがの瑠璃ちゃんでも今回は怖いんだと思った。そりゃあそうだ、失敗したら今後の人生が文字通り袋小路にぶち当たる。おまけに瑠璃ちゃんは立歯に狙われている張本人だ。それが何を意味しているのか、疎い彼女でも気付いているだろう。
僕だけじゃなく、瑠璃ちゃんまでこんな調子ではマズイ。やっぱりここは引き返して、もう少し作戦を煮詰めてから出直すべきだ。
「ちょ、陳さ」
しかし、シャツの裾が引っ張られて、陳さんへの呼びかけを強制キャンセルさせられた。
「大丈夫、なのです」
裾をぎゅっと握りながら、瑠璃ちゃんが笑顔で答える。
「緊張するのはいつもの事。戦うのはいつも怖いです。でも……」
その時、シャッターが開かれる音が階段に響いた。
「よっしゃー、作戦通り頼むで!」
次いで陳さんの威勢のいい声が、否応なしに戦闘開始の合図を告げる。
瑠璃ちゃんはもう一度ニコっと笑うと、無言で背を向けて決戦の場へと飛び出していった。
残された僕は呆然と立ちつくす。
『戦うのはいつも怖いです。でも……』
その続きが聞きたかった。そこに恐怖に負けてしまいそうな僕に、足りない何かがあるような気がしてならなかった。
「なにぼぅっと突っ立ってるねん。はよう来い!」
陳さんの叱責で我に返る。
そうだ、僕はこれから起こる戦いを一瞬とも見逃してはいけないんだった。勝負が決まった直後、その瞬間に僕の戦いがある。気を引き締めなくてはいけない。
でも、そう思えば思うほど、緊張の度合いはさらに増していく。
これまでなんとか隠しおおせてきたけど、ついに体も震え始めてきた。
しっかりしろよ、自分。
こんなところでびびってるんじゃない!
カッコイイところを見せるんだろう?
僕は必死になって、自分に言い聞かせる。
そしてわずかな勇気をひねり出して、階段の踊り場から三階の廊下へと足を進めた。
モニターで見たように、廊下はところどころ窓が板ごと割られ、その破片やコンクリートの小さな塊が転がっていた。
柱にべっとりとついている血は、横須賀先輩が頭を打ち付けた時のものだろう。かなりの出血だったが、当の本人は平気な顔をして廊下に仁王立ちし、瑠璃ちゃんと対峙していた。
「よぉ、遅かったじゃないか、栗栖」
僕の姿を見て、ヘンタイラントに扮する横須賀先輩が話しかけてくる。
話し方も普通だったが、様子も変なコスプレこそすれ普段と変わらなかった。
モニターで見た禍々しいオーラもなく、目も赤く光ってはいない。
もしかして、立歯の呪縛から逃れたのかも……だとしたら。
「先輩、騙されちゃダメっ!」
しかし、瑠璃ちゃんの鋭い声が、僕の緩みかかった気を再び引き締める。
「この人、まだ立歯に乗っ取られたままなのです!」
僕に背を向けているので瑠璃ちゃんの表情は見えない。
でも、その厳しい口調から、険しい表情で横須賀先輩を睨みつけているのだろうなと想像出来た。それに後ろにいながらも、ぴりぴりと肌を刺すような威圧感を彼女から感じる。その小さな体に、爆発的な力の本流を迸らせていた。
「おいおい、仮にも写真部前部長である俺を『この人』呼ばわりはないだろう。俺は栗栖の先輩。栗栖は君の先輩。つまり俺は君の大先輩だぞ、瑠璃君」
しかし、横須賀先輩は動じない。瑠璃ちゃんの威圧を受けながらも、飄々と受け流して軽口を叩く。こんな様子も普段の先輩みたいで僕は戸惑う。
だが、次のやりとりで、それが僕の弱さだった事に気付いた。
「そんな生意気ナ後輩には指導が必要ダナ」
横須賀先輩の体に一瞬揺らいだ影が重なり、空間そのものをぶち壊すように拳を瑠璃ちゃんに叩きつける。
そう、こうなる事が避けられないのは分かっていた。
瑠璃ちゃんは攻撃を避けず、腕をクロスして拳を真正面で受け止めた。
「うぐっ」
思わず彼女の口から零れる苦痛の声。ガードしてなお一メートル以上吹き飛ばされた事からも、その威力の凄まじさが見て取れる。
瑠璃ちゃんなら避ける事も出来たはずの攻撃だった。
それでも避けずに受け止めたのは、きっと僕へのメッセージだ。
「よくぞ受ケ止メタ」
一瞬重なった影が、オーラとなって横須賀先輩の体を覆い尽くす。目に赤い炎が燈り、瑠璃ちゃん以上の威圧感が僕を襲う。
逃げちゃいけない。
受け止めて、そして立ち向かえ。
「栗栖、今ナラお前達は生かして無事に帰シテヤル。さぁ、トライXをコチラニ渡せ!」
拳を突き出し、下を向いていた横須賀先輩が、顔を上げて僕を睨みつける。
そうだ、僕はいつもと変わらない様に先輩を見ようとしていただけに過ぎない。
戦いを避けるため、重圧を避けるために、そうであって欲しいと思う姿を無理矢理重ねていただけだ。
弱い自分を見透かされて、逃げ道を作られた。
僕はそこにまんまと誘導されてしまったんだ。
でも、そこは行き止まり。もう逃げられない。
あとは命乞いをして頭を垂れるか……
それとも腹をくくって戦うか――
僕は震える手でカメラを構えた。
「ソレガ答えかぁ! 栗栖ぅ!!」
怒気を撒き散らすかのように、立歯に憑依された横須賀先輩が吼えた。
先輩の咆哮が戦闘開始のゴングだったかのように、二人はお互いの体を凶器にして力をぶつけあった。
先輩は力任せに両手両足をぶん回す。轟音を発して空気を切り裂くそれは、どれもスピードには欠けていた。しかし、当たればおそらく、いや間違いなく致命傷だろう。攻撃のひとつひとつが圧倒的な暴力だった。
対して瑠璃ちゃんは先輩の攻撃を冷静に避けていた。が、なかなか相手の懐に入る事ができずに攻め手を欠く。時折、相手の攻撃にあわせてカウンターを狙うものの、リーチ差は大きく届かない。
このままではいつか攻撃を喰らってしまう。そんなジリ貧状態を脱却すべく、瑠璃ちゃんはタイミングを見計らってひとつ賭けに出た。
横須賀先輩の体重の乗ったストレートをしゃがんでかわし、すかさず振り下ろされるローキックをジャンプでさける。これまでの攻防でも何度かあった展開。だが、今回はジャンプの方向が違った。後ろではなく前。右ストレート、左ローキックの流れで若干バランスを崩した相手の懐に初めて飛び込み、空中で瑠璃ちゃんは振りかぶった右の拳を、横須賀先輩の顔面めがけて突き出す。
「くはぁ、惜しい!」
思わず陳さんが嘆息したように、せっかくの賭けも功を奏しなかった。決まったかと思われた瑠璃ちゃんの右の拳を、横須賀先輩は顔面に貰う直前、掌で受け止めていたのだ。
「せっかくの攻撃、残念ダッタナ」
くっくっくと、横須賀先輩と立歯の笑い声が重なる。
瑠璃ちゃんは無言で先輩の胸を軽く蹴り、空中で後方一回転。奇麗な弧を描いて着地したかと思った刹那、先ほど以上のスピードで再び懐に潜り込んだ。
「オ、おおっ!?」
初めて驚きの声をあげる横須賀先輩。が、残念ながらダメージを与えるには至らない。咄嗟のガードに加えて肉襦袢の厚い装甲が、瑠璃ちゃん渾身のボディブローをも弾き返す。
「なかなかヤッテクレル」
「ううっ!」
絶妙なカウンター、さらには流れを無視した奇襲と、二段構えの攻撃が徒労に終わってしまった事に気落ちしたわけではないと思う。が、懐深くに進入した瑠璃ちゃんがほんの一瞬判断に迷い、退避が遅れたのを横須賀先輩は見逃さなかった。
左手で彼女の頭を掴むと、そのまま小柄な彼女を持ち上げる。
「くっ、離せ! 離せです!」
空中でじたばたともがき、瑠璃ちゃんは先輩の顔面めがけて蹴りを放つ。が、体勢も十分に整わず、力を生み出すふんばりもない蹴りは、今の横須賀先輩にとっては蚊の一刺しとかわらない。
「手荒な真似はシタクナカッタガ」
ひときわ高く瑠璃ちゃんを持ち上げると、先輩は彼女を板が打ち付けられた窓へと叩きつける。
「ああっ、瑠璃ちゃん!」
陳さんの悲鳴が廊下に響き渡る。
「シバラク大人しくしてモラオウ」
そして圧倒的な暴力を乗せた拳が、板ごと貫いた。
板を割る。
ガラスを割る。
そんなものではない。
敢えて言うならば、吹き飛ばす、という表現がしっくりくるだろうか。
横須賀先輩が繰り出した一撃は、そこにあったはずの板付きのガラス窓をものの見事に粉砕して、外へ吹き飛ばした。ぽっかりと空いたそこから、何もない空虚な下界が見えた。
「スバラシイ」
突き出した拳を収めて、先輩がニヤリと笑う。
「アノ攻撃をかわした事もソウダガ」
先輩が見下ろす先。そこには叩きつけられた痛みに耐える暇もなく、床を転がり攻撃をかわした瑠璃ちゃんがいた。
「ココマデ拳を交エテなお、いまだ本気ヲ見セヌお前にますます興味ガ湧イタゾ」
瑠璃ちゃんが額を拳で拭う。わずかにかすった拳で皮膚が切れ、滲み出てきた血がその手を赤く染めた。
「我ガ妻トシテ迎え入れるダケのつもりだったが気ガ変ワッタ。本気ノお前ト拳を交えたい」
横須賀先輩がこの戦いの中で初めて構えを取る。
左足を前に両足を開き。腰は中腰。左手は足と同様に前方へ、やや開き気味に軽く握る。その反面、右の拳は固く握られて、腰の辺りに据えられていた。
「あ、言うの忘れてたわ。立歯君な、実は空手部の主将やってん」
それを早く言え。
と、今さら文句を言っても始まらない。瑠璃ちゃんもそう考えたのだろう。陳さんからの情報にも顔色を変えず、ただ敵を険しい表情で見つめていた。
そしてそんな彼女同様、同じく敵対する小さな女の子から視線を外さなかった先輩が、突然ジロリとレンズ越しに僕を睨みつけた。
「娘ヨ、オ前ヲソノ気ニサセテヤロウ!」
刹那。震えるレンズの向こうの先輩が一気に画面いっぱいに広がった。ズームを弄ったつもりはない。いや、そもそも画面をズームする時の様な、次第に拡大されていく様子が一切なかった。急に大きくなった、そんな感じ。それが意味するのは、対象がもの凄いスピードで僕に近付いたという事。そしてそれは……
衝撃に襲われて、僕はその場に尻餅をつく。
こわごわと見上げると、そこには小さな背中にポニーテールを翻し、廊下を力の限り踏みしめ、眼光凄まじく相手を睨みつける瑠璃ちゃんが、僕と先輩の間に立ち塞がっていた。
「許さないです!」
先輩の襲撃に耐えたガードの拳。その右手が徐々に下ろされ、胸の辺りで後方へといっぱいに引き絞られる。それはまるで弓を放つ直前のように、すべての力が右手拳に集約され
「先輩に手を出した事、絶対に許さないのです!」
一気に横須賀先輩へと叩き込まれた。
「おおおおおおおオオオオオオオ!」
先輩もガードをしていた。さらに瑠璃ちゃんよりもずっと大柄な上に厚い肉襦袢に守られ、おまけに悪霊にも取り憑かれて人外の力を手にしていた。にもかかわらず、盛大に吹き飛ばされる。足の踏ん張りが利いたのはほんのニ、三メートルだけ。そこからは瑠璃ちゃんの力の解放に押し負け、でんぐり返りをして十メートルほど廊下を吹き飛ばされた。
「やったんか?」
「いえ、まだです。今のセンパイの状態ではヤツを失神させても失敗するです」
「ああ、それもそうやなぁ」
陳さんに手を貸してもらって、僕はなんとか立ち上がった。
「あ、なんや自分、震えとるんか?」
もう隠し通すのは無理だった。震えが止まらない。カメラを持つ手だけではなく、足も、体全体が震えていた。
「さっきの攻撃、そんなに怖かったんかいな」
「ち、違いますよ。そんなんじゃない」
確かにさっきは死ぬかと思った。でも、それがそれほど怖いと思わなかった。まぁ、怖いと思う暇もなかったというのが正直なところかもしれないけれど。
それよりも怖いのは、やはり僕が失敗する事でみんなの未来まで閉ざしてしまう事。僕の一瞬の判断に全てが委ねられていると思うと、どうしようもなく心が震えてしまう。
実はさっきまでの攻防もカメラを構えながら、腕と指の震えを押さえるのに必死だった。とても一瞬のシャッターチャンスを捉えられる精神状態ではない。それでもやらなくてはならないと言い聞かせば言い聞かせるほど、体の震えは酷くなっていった。
ふと子供の頃を思い出す。
子供の頃の僕は、極端に緊張する性格だった。
人前で上手く話せなかったり、緊張して体が固まる事もあった。
そのうち人の目を見るのも怖くなって、僕は次第にひとりぼっちで遊ぶようになった。
そんな僕を見て、父親がカメラを買ってくれた。カメラのファインダーから覗く世界はまるで現実ではないようで、僕は夢中になってシャッターを押しまくった。
そんなある日、僕は我慢しきれなくなってカメラを学校にこっそりと持ってきた。カメラの入った巾着袋を手にお昼休みの喧騒を抜け出し、体育館裏で木にとまった小鳥を撮影するのに夢中になった。するとクラスメイト達に見つかって、僕は怖くなって立ちすくんでしまった。
絶対苛められる。そう思った。
でも、みんなは僕のカメラで自分を撮って撮ってとねだってきた。僕は言われるがままにファインダーを覗く。みんなが笑顔で僕を見ていた。いつもは怖いと感じてしまう他人の目も全然気にならないぐらいに笑っていて、僕はなんだかとても幸せな気持ちになった。
それを機会にカメラを通じて僕は他人との触れ合いを知り、どんなに緊張していてもカメラを覗きこんでいれば大丈夫になった。
でも、それも限度がある。
人の命、未来が懸かっているとなると、生来の緊張症が頭を擡げて僕をぱくりと飲み込んでしまった。
「センパイ、頑張るです」
「う、うん」
瑠璃ちゃんの応援に、弱弱しく答えることしか出来ない自分が恥ずかしかった。
くそう、格好いいところを見せるつもりだったのにっ。
でも、どうしても震えてしまう。
どうすればいい。どうすれば?
「あーもう、瑠璃ちゃん、ちょっと栗栖君借りるで」
気ばかり焦って具体的な解決策が見当たらずオロオロするばかりの僕を、陳さんが強引に両肩へと手を掛けて引き寄せる。
「男なんちゅーもんはこうすればある程度大人しくなるもんや」
そしてその豊満な胸に僕の頭を押し付けて抱きしめてきた。
突然の事に慌てる僕は思わずもがいてしまう。
「ああん、もう動きなさんな。じっとしとき」
さらにきつく押し付けられ、あわや窒息寸前。かろうじて胸の谷間に鼻を突っ込んで呼吸を確保したけれど、そのおもちみたいな弾力といい、僕の顔をすっぽりと包み込むボリュームといい、それは男を骨抜きにするには十分すぎるクオリティを誇っていた。
恐るべき陳さん、魔性の女。
でも、おかげで緊張がほぐれてきた。
ありがとう。また緊張したらお願いします。
いや、緊張してなくてもお願いしたいです。
「ち、ち、陳先輩、こんな時にエッチな事はダメなのです!」
立ち上がろうとする横須賀先輩に意識を向けながら、瑠璃ちゃんは横目で陳さんの抱擁をチラ見してじたばたと手足を動かす。
「センパイもセンパイです! さっきまであんなに緊張してたのに、どうしてそんなだらしなく笑ってるですかっ! もう知らないです!」
おまけに頬をぷぅと膨らませた。
ああ、瑠璃ちゃんかわいいなぁ。
そしてこの感触、柔らかくて気持ちいいなぁ。
いつまでもこうしていたい。
「って、いつまでおっぱいに顔埋めとるねん!」
陳さんがいい加減僕を突き放そうとする。
が、甘い。
僕はすかさずそれまでポケットの中にあった両手を陳さんの腰に回すと、コバンザメのように陳さんの胸に張り付く。
「離れんかい!」
「嫌だ、まだ緊張してるんだ」
「ウソつけや!」
緊張感のない、醜い争いである。
そうこうしているうちに横須賀先輩が立ち上がり、おもむろに両腕を開き、胸を張って雄たけびを上げた。
廊下に響き渡る暴力的な波動。思わずその場に立ち尽くして動けなくなるような、圧倒的な破壊の旋律。再び緊張が蘇ってくるのを僕はなんとか押し戻そうと
「ごめんなさい、陳さん。ケツ揉んでいいですか?」
「あかん。もし揉んだら殺す」
と、軽口を叩いてなんとか耐えていた。
緊張するな。緊張するな。緊張するな。
いつも通り。いつも通り。いつも通り。
勇気を出せ。勇気を出せ。勇気を出せ。
自分に何度も何度も言い聞かせる。が、少しずつ体が固くなっていくのが分かる(敢えて言う、アノ部分の事ではない)。
マズい。マズいぞ、これは。
僕は陳さんの胸のぬくもりも忘れて、どうしようもない感覚に身を焦らす。
「一つ質問、いいです? センパイ」
そんな時だった。
横須賀先輩の咆哮にピクリとも身動ぎせず、いつでも迎撃出来るように瞬き一つしないで敵を見つめていた瑠璃ちゃんが、そのままの姿勢でポツリと呟いた。
「もし、私がこの人に負けちゃったら、センパイ、私を恨むです?」
唐突なその言葉を、僕はおかしな質問だなと思った。
そもそも質問としての仮定に違和感がある。
瑠璃ちゃんが負ける? そんな事ちっとも考えていなかった。
それはさっき横須賀先輩をぶっ飛ばしたから、なんて安直なものではなく、この戦いが始まる前から彼女ならきっと勝てると信じていた。
確実な根拠なんてものはないけれど、それでも信じることが出来る。その信頼が何よりの根拠と言ってもいいだろう。
「瑠璃ちゃんは負けない。負けるはずがない」
僕は断言する。
「でも、仮に何かのトラブルがあって負けたとしても」
僕は瑠璃ちゃんが何を言いたいのか、自分が答える中で分かってきた。
「それはそれで仕方がないと受け入れる。瑠璃ちゃんは頑張った。それは間違いないし、感謝こそすれ恨むなんて事は有り得ない」
瑠璃ちゃんが少し表情を和らげた。
それを見て僕も体がふっと軽くなったような気がした。
「ありがとうなのです。私も全く同じ気持ちです、センパイ」
瑠璃ちゃんが拳を固める。
僕の手は自然と陳さんから離れ、惜しげもなく顔を誘惑の谷間から遠ざけた。
そして振り返り、カメラのファインダーを覗きこむ。
ファインダーの向こう側の世界は、一ミリもぶれる事がなかった。
「戦うのは怖いです。でも、自分を信じてくれる気持ちが、私たちを強くするです!」
ようやく僕たちは本気で敵に対峙する事が出来た。
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