第80話『桜パパの夢と希望』
俺はガラガラの小さなスタジアムのスタンド席に座っている。
目の前では、桜ヶ丘学園の女子サッカー部の、決勝前の最終調整が行われている。
GKは怪我をしたが回復は順調で、今日はいつも通り練習していた。
ファールをしたDFも、心理的に問題はなさそうだ。
運も味方していると思った。
いつ見ても思うが、よくもまぁ、あのド素人集団をここまで育てたな。
全国の決勝に上がってきたチームに対して、こう言っては何だが、ちゃんとサッカーになっているし、キラリと光るプレーが随所に見られる。
娘の話しでは、インサイドキックもアウトサイドキックも知らなかった選手もいたと聞く。
まったく…。
一体何が起きているのか、堅物で化石のような俺の頭では理解出来ていなかった。
少ない部員数のため、ハーフコートを使ってミニゲームをしている。
ノールック、ノータッチでパスを回し、一気に攻める攻撃陣。
誰もがどこにパスがくるのか分かっているような動き。
これらは得意プレーを封印したために、それを補う為に自然と考えついた、いや、必要に迫られて完成した、『桜吹雪』というプレーらしい。
恐ろしいと思った。
この前の旭川常磐高校のプレーも、恐ろしいと思った。
体力無視の90分全力プレー。執念だと思った。
だが、桜ヶ丘学園の恐ろしいという感覚は、ちょっと違う。
信念…、と表現してみる。
執念と信念。
似ているが、違う性質のものだろう。
旭川常盤高校はキャプテンと1戦でも多くプレーしたいと願った。
桜ヶ丘学園はキャプテンのゴールを願った。
だから旭川側は必死になったし、それが執念となって現れた。
桜ヶ丘側は…。
決勝へ行けば、娘がゴールするかもしれない期待に賭け、それが信念となって現れた。
両者が勝敗を分けたのは、小さな差だったかもしれないが、結局は絆の深さと、純粋さだったかもしれない。
最近、娘の言う絆サッカーというものを、少しずつ理解出来るようになってきたと思っている。
しかし…。
そんな事が現実として実行されていくことは、普通は無いと感じるだろう。
俺もその一人だった。
だが、現実を受け入れなければならない。
創部1年のチームが全国大会決勝に上がってきてしまったことを。
そして俺は娘に伝えなければならない。
娘は負けたらサッカーを辞めると宣言しているからだ。
とし子さんとの約束でもあるが、俺の意志でもある。
今日の練習の後、全員が帰ったら、再びグラウンドに出るよう娘には伝えてある。
顧問の先生にも了承してもらって、グラウンドを借りている貴重な時間を割いてもらった。
そんな考え事をしているうちに、練習が終わり円陣が組まれた。
舞い上がれ桜ヶ丘、と少女達は叫んだ。
全員が控室へ戻っていく。
娘の桜が俺に向かって無邪気な笑顔で手を振っていた。
本当に楽しそうだ。
自分のサッカー人生を賭けているのに…。
誰も居なくなったグラウンドに降りる。
懐かしい風景だ。
少しカビ臭いスパイクをバックから取り出し、履き替えた。
ボールも持参している。娘のだがな。
小脇に抱え、フィールドの端に立つ。
目の前には、緑の芝の上に白いサイドラインが引かれている。
鼓動が高鳴る。
俺は本当にフィールドに立つ事が、許されたのだろうか?
とし子さんは時効だと言った。
それでも俺は悩んだ。
だが…。
娘が苦しんでいる。
それを理由に、サッカーに関わろうとしている。
『桜の為に、フィールドに帰ってきて…。』
今は亡き、妻、香澄の声が聞こえた気がした。
自分に都合の良い言葉だったかも知れない。
だけど、ついに俺は、サイドラインを跨ぎ、二度と帰ってくるはずの無かったフィールドに立った。
風が吹き抜け、心の中に溜まっていたモヤモヤを吹き飛ばしていく。
迷っている時間は無い。悩んでいる時間も無い。
娘に…、桜に…、今こそ伝えなければならない。
そう強く念じ、軽くリフティングを開始する。
遥か昔に置き去りにした、ボールの感触が全身を駆け巡る。
体が欲している。
脳が、体が、心が、もっとボールを蹴ろと命じてくる。
キーンッと集中力が高まり、空もスタンドも見えなくなると、ゴールだけが浮かんでいた。
そこへ全力で蹴り込んだ。
ドンッ!
心地よい衝撃と共に、ボールは鋭く落下しながらゴールバーの下部に当たると、激しく地面にバウンドしゴールネットを揺らした。
鼓動が高鳴る。
18年封印してきた気持ちが開放された瞬間だった。
ここまで来たら迷う事はない。
そう思った瞬間だった。
「パパ…。」
背後から娘の声が聞こえる。
「桜…。きていたのか。」
「パパ…。今のシュート…。」
素人じゃないと、娘なら直ぐに分かるだろう。
「俺の実力、分かってもらえたか?」
俺はゴールへ歩きながら向かう。娘はトトトッとついてきた。
「サッカー…、やっていたの?」
俺は、娘の質問には、まだ答えるべきじゃないと感じた。
娘は色々と聞きたそうな表情だったが、敢えて何も言わなかった。
ボールを拾い、転がしながらペナルティエリアの端ぐらいまで進む。
「桜。一度だけだ。しっかり受け止めなさい。」
そして守備をするよう指示する。
混乱していた娘だったが、俺の目をジッと見つめながら集中していくのが分かる。
凄い鬼迫だ。
まるで防ぎきれなかったら試合に負けてしまう、そんなシチュエーションの中にいるようだった。
いい顔をしている。
我が娘ながら、放つオーラも半端ではない。
俺の体が感じている。中途半端なことでは娘は抜けないだろうと。
だから全力でいく。
しっかり受け取れ!
ゴールに向かい、ドリブルを開始する。
徐々にスピードを上げ、娘に向かっていった。
そして、フェイントを仕掛ける!
!!
気が付いた時には、一歩も動けなかった娘を抜き去り、軽くボールをゴールへ蹴り込んだ。
「どうだ…、桜。俺からの、少し遅れた誕生日プレゼントだ。」
ガシッ!
突然背後から抱きつかれた。
「んぐっ…、うっ…、凄かった…。」
もう涙声だ。
「凄かったんだから…。こんな完璧なルーレット見たこと無いんだから…。」
そう、俺が披露したのは、娘が得意としているルーレットというフェイントだ。
「私はステップに無駄があった…、それに…、左から抜く時は軸足に力が入りすぎて、体の回転をしすぎていた…。」
俺は娘が苦手としていた左から抜いている。
「凄かった…。ありがとう…、パパ…。」
背中が熱い。大声で泣きそうなのが分かる。
まったく、泣き虫なところまで、香澄とそっくりだ。
「明日の試合で、役に立ちそうか?」
「絶対に…、絶対に使うんだから…。パパからのプレゼント…。」
「そうか…。」
少し落ち着いた娘から開放される。
俺はボールを拾い、溢れる涙と格闘している娘の隣に座った。
娘も座ると、コロンと体を寄り添わせてきた。どこまでも香澄にそっくりだ。
「俺はな、まだ日本がワールドカップの予選、それも一次予選で全敗していたころ、社会人サッカーの選手としてプレーしていた。」
娘は黙って聞いていた。
「選手としては絶頂期だったころ、ママに出会った。一目惚れでな。直ぐに結婚した。」
よく見ると、小さく頷いていた。
「ワールドカップが近づき、俺は運良く日本代表に選ばれた。補欠だったがな。」
チラッと俺の顔を見ている。
「試合が近づいたころ、チームのグラウンドでママと一緒に、全員が帰った後も練習していたんだ。その時な、ママがこんなフェイントはどうだろうって見せてくれたのが、今で言うルーレットだ。」
ガバッと顔を上げた娘。
「こんな変なフェイント、通用するはずがないと笑っていたが、何度も何度も毎日毎晩試行錯誤した。寝る間も惜しんでな。そして完成したルーレットをチームメイト相手に使ってみたら、これが有効だと証明されていった。そして俺は代表に選ばれた。」
ジッと俺の顔を見つめる娘。
「一次予選で披露した俺のルーレットは、強烈なインパクトと共に強豪をなぎ倒すほどの力があった。誰も止められなかった。何年ぶりかの公式戦の勝利を上げると、一次予選を突破。二次予選も中盤、もしかしたら初の決勝という雰囲気が漂い始めた頃、事件が起きた。」
娘の真剣な眼差しからは、一言一句聞き逃さないという意志を感じた。
「ママの出産だ…。」
娘は両手で顔を覆った。
その結果、香澄は亡くなってしまったからだ。
もう、結末は分かっただろう。
「俺は…、何もかも捨てて、ママの元に戻った。その後の試合は全敗し、幻の予選通過を…、逃した。俺は、自ら責任を取り、サッカーを辞めた…。」
「うわぁぁぁぁぁーーーーーん!!」
誰も居ないフィールドで、大声で泣く娘の肩を抱いた。
「私のせいで…、私のせいで…。」
娘は、自分が産まれたばかりに、両親が苦しんだと感じたようだった。
「桜、それは違う。」
そっと体を離し、娘の瞳を覗き込んだ。
「ママは娘が欲しいと言っていた。その夢は叶った。それに、サッカーをやらせたいって言っていた。その夢も叶った。」
娘は、涙を零しながら小さく頷いていた。
「様態が悪化したママは、俺に桜を託した。『私達のような、サッカーが大好きで笑顔の絶えない娘に育てて欲しい。』と…。」
娘の瞳から涙が溢れる。
「ママは桜を産んで後悔なんかしていない。俺も、サッカーを辞めて後悔はしていない。だって、桜という希望があるからな。」
俺も目頭が熱くなっていた。
「パパ…。」
ゆっくりと体を預けた娘の体は、細かく震えていた。
「サッカーを続けるのも、辞めるのも桜の自由だ。だけどな、最後になるかも知れない試合に、どうしても伝えたかった。パパとママが作ったルーレットを。そして…。」
俺は一番伝えたかった事を娘に話した。
「負けてもサッカーを続けろとは、俺は言わん。だから、勝て。何としてでも勝て。そしてサッカーを続けるんだ。それがパパとママの夢だ。」
娘はボロボロと泣きながら頷いた。
「明日…、絶対に使うから…。百舌鳥校の人達も知らない、パパとママのルーレットを…。そして、絶対に勝ってみせる。勝って、サッカー続けるんだから…。」
「応援しよう。」
「うん…。」
震えが収まり、涙を拭く娘。
顔を上げた時の娘の笑顔は、香澄そっくりの屈託のない爽やかな笑顔。
まるで桜が満開になっているかのような華やかな笑顔。
産まれた時から、ずっとそうだった。
この笑顔を守りたい。
俺はそれだけを信条に、ここまでやってきた。
娘にとって、明日の試合は大きな試練になるだろう。
だが、終わってからも笑顔が続くよう、どんな結果であれ俺は努力しよう。
「今日、俺がフィールドに立つ事を決意したのは、実はとし子さんのお陰なんだ。」
「えっ?」
「あの人はな、まだ全然人気がなかったサッカーというスポーツに、若い頃から力を入れていてくれてな。前会長に土下座までして説得して、サッカー日本代表の為に資金繰りをしてくれたんだ。」
「………。」
「俺がママの様態が悪くなったと聞いた時、迷わず帰りなさいと言ってくれた。そしてかばってくれたんだ。」
「とし子さんが…。」
「そうだ。だけどな、世間の反応は違った。俺は叩かれたよ。戦犯扱いだな。」
「パパ…。」
「とは言え、人気の無い頃の話だ。小さな小さな記事の片隅に書かれた程度だ。心配するな。」
「うん…。」
「さて、帰ろう。明日の為に。」
「うん!」
立ち上がると、娘は物足りなさそうにリフティングを始めた。
「桜、一度だけおさらいするぞ。」
その言葉に、パッと笑顔が弾けた。
「一回だけ?」
「実はな、もう足がもつれそうなんだ。」
「ふふ。じゃぁ、私が抜いたら、大会が終わったら毎朝私と一緒にジョギングね。」
「それは勘弁だな。」
「ダメだよ、運動不足なんだから。」
言い出したらきかないところも、香澄そっくりだ。
「あー…、分かった分かった。」
まぁ、1回だけと言ったのには意味がある。
今の俺は、喉がカラカラで1滴の水を欲しがっているような状態だ。
本当はボールを蹴りたくて蹴りたくて仕方がない。
これ以上ない状態で、ルーレットを知り尽くした俺が奪う。
「よーし、いくよ!」
突然気持ちをトップギアに入れてきた娘からのプレッシャーは、今までに感じたことがないほど強烈だった。
!?
俺に向かってきていたはずの娘の姿が完全に消えると、その時には既に抜かれた後だったことに気が付いた。
「フフフ…。あはははははははははっ!」
俺は嬉しくて笑った。
香澄が考え、俺が完成させ、娘が受け継いだ。
こんな嬉しいこと、香澄がプロポーズを受けてくれた時と、桜が産まれた時以来だ。
「ジョギングけってーい!」
娘の嬉しそうな、最高の笑顔につられ、俺も笑顔になった。
俺達の宝物は、より一層輝きを増していった。
奇跡などという、無謀なチャレンジに向かって。
大丈夫、香澄がいつも桜を見守ってくれている。
大丈夫…。
真っ青に澄んでいる大空に向かって笑った。
そこに、香澄が居たと感じられたから。
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