第10話 国家民族という代名詞の効果が産む錯覚。集団代名詞に対する確証バイアス型の演繹的錯覚構造。

国家民族という代名詞の効果が産む錯覚。集団代名詞に対する確証バイアス型の演繹的錯覚構造。


国家や民族を代名詞で読むと1つの物だと思う→いくつかの知っている歴史上の出来事を持ってきてイメージとして国家民族は1つの物で私は知っていると思い込む。


人口で考えると解る。アメリカならば人口は3憶2000万人。それに対し知っているアメリカ人の1人が直接知っているアメリカ人は多くても数百人だろう。

つまりそのアメリカ人は自分の国の人の1パーセントも知らない。

まして戦争相手の国の人も全く知らない。

全ての国の人々が同じ認識と錯覚を持っている。


代名詞で考えていくつかの知っている情報でイメージを持って国家民族を見ているに過ぎない。

事実は、自分の国の事も相手の国の事も全く知らない。単に錯覚とイメージで知っていると思い込んでいるに過ぎない。


1つの物だと代名詞から思い、国家民族を知っていると思い込む。

事実は全く知らない。


では、何のために戦争をするのだろうか。

知りもしない自分の国の為になるからと思い込んで、知りもしない相手の国と、見たこともあったこともない自分の国の指導者が言うからと言って、知らないところで知らない相手と殺し合う。


自分の国を知っているという錯覚から、知りもしない相手と殺し合いをする。


それは錯覚にすぎない。


全ての人がこの事に気づくと戦争は発生しなくなる。


独裁者たちはそれでは困ってしまう。


相手の国と戦っているから国民を守る必要がある、だから戦争技術の得意な軍人たちが国家の指導者であるべきなのだ、という理屈で軍人と独裁者の特権性を正当化している人々にとっては、この真実で人々が考えると都合が悪い。


だから、赤の他人同士の人々を、殺し合いを続けさせるために、歴史や領土を強調し、戦争や争いの必要性を強調することで、他人である人々同士を争いに巻き込もうとし続ける。


その為に本当は良く知りもしない1部の国家民族などのイメージ論を強調し、そこから生まれる国家民族肯定論に勘ちがいして染まる人々を作り出そうとする。


事実は、そのようなイメージは、同じ国家民族であっても、他人が作った業績の事にすぎないのに、同じ国家民族に入っているからと言語区分上のカテゴリーに同じで自分も入っているというだけで、自己肯定に使えると錯覚する人々を使って、国家民族の誇りのために戦争すべきだというという屁理屈を強調する。その方が独裁者の特権性の正当化に都合がいいからである。


要は独裁者たちは自分たちの贅沢な暮らしのために、自分以外の他人同士を戦わせる構造を作った方が得をするからと、錯覚を利用しているのである。


世界の戦争のほとんどはこのような錯覚構造で起こっている。


錯覚は気づいた瞬間晴れてしまう。


その時、世界の全ての戦争が発生しなくなる。


世界中の人々がこの事実に気づくことができる。


それが永遠の平和の世界を生み出すことになる。

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