《03-17》

「そんなのにサインしちゃダメだ! 僕は大丈夫だから! こんな卑怯な脅しに」

「耳障りや黙らし」

「待て!」

 

 ゴキっと、妙に乾いた音が響いた。

 春乃の右腕、肘から下が有り得ない方向に曲がる。

 

「春乃!」

「だ……大丈夫……だよ。こんなの……全然……平気だから」

 

 苦痛に言葉が途切れる。

 それでもなんとか安心させようと弱々しい笑みを作った。

 

「大した根性やな。せやけど、それがどこまで続くやろか」

 

 萩人の手が捕らえていた春乃の右腕から放れる。

 とすぐさま、今度は左の手首を掴んだ。

 

「ほらほら、まろみはん。考えてる時間はあらへんで。さっさとサインするんや」

「ダメだ! こんな連中に……負けちゃダメ……だ」

 

 涙で一杯になったまろみの瞳が、春乃と撫子の間を何度も往復する。

 頬はすっかり青ざめ、胸元のヌイグルミも痛々しいほど抱き潰れていた。

 

「ごめん、まろみたん。僕のせいで……」

「ホンマ、阿呆な人間は迷惑や。まろみはん、同情したるで」

 

 くくくと喉を鳴らす撫子。

 

「阿呆か。そうだな」

 

 まろみの口から出たのは、意外なほどに落ち着いた声だった。

 

「余は阿呆だった。春乃、済まなかった。全ては余のせいだ」

 

 近くのテーブルにヌイグルミをそっと置く。

 

「春乃、お前が戻ってきてくれて嬉しかった。子供の頃と変わらぬ笑顔が嬉しかった。お前にはずっと近くにいて欲しかった」

「まろみたん?」

「だから、余はお前の前では、お前の前でだけは、普通の女の子で、普通の人間でいたかった。それがお前を傷つけることになってしまった。許してくれ」

 

 まろみが頭を垂れた。

 

「春乃よ。余はお前の知っていたまろみではない」

 

 こぼれた涙が頬を伝う。

 

「今の余は、もう、人間ではないのだ」

「え?」

「お前の前にいるまろみは、化け物なのだ」

 

 消え入りそうに告げると、硬く握った拳で乱暴に涙を拭った。

 

「春乃、見ているがいい。余の力を。絶対支配者たる者の力を」

 

 まろみの様子に撫子が視線を走らせる。

 無言で成り行きを見守っていた黒タイツ達が、懐から短刀を抜き構えた。臨戦態勢だ。

 

「撫子よ。余はお前を許さん。絶対に、だ」

 

 理解が追いつかず呆然とする春乃に背を向け、撫子を睨みつけた。

 

 まろみの威圧感に、撫子は無意識に半歩下がってしまう。

 そんな自分に気付き憎々しげに床を踏み鳴らした。

 

「なにを偉そうに! こっちには人質がおるんや! 忠告しといたるけどな」

「うるさい。喋るな」

 

 いつもより低い厚みのある声で告げた。

 

 途端に撫子が黙り込んだ。

 自身の行動が信じられないのだろう。目を白黒させている。

 

 

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