109 境界線を踏み越えたなら

 恐怖を感じた。

 目の前で二人の剣士が剣戟を結び合っている。ときに高い金属音が鳴り響き、その隙間に魔法での攻撃が滑り込む。彼らの動作には一切の淀みがなく、人としての到達点を超えているようにすら思えた。

 炎剣はその膂力で大剣を振り回している。空を切る音が熱に炙られ、離れた場所にいる僕の肌を焦がす。

 攻撃を躱したフェンは舞いを踊るかのように、滑らかに炎剣を斬りつけていった。左から剣が滑り、炎剣の武器に当たり、甲高い音を立てる。鍔迫り合いを拒否するように左へと半回転したフェンは、勢いそのまま、右手の曲刀を振るった。


 当たる――その確信はあまりにも容易く裏切られた。フェンの攻撃は炎剣の鼻先を掠めただけで、髪の計一本ほどの傷さえつけていない。

 だが、好機だ。炎剣は大きく仰け反っていて剣を振るえる体勢ではなく、フェンがその隙を逃すはずもなかった。彼は炎剣の横へと回り込み、左手を振り上げる。

 同時に二人の間で炎が爆ぜた。間欠泉のように、炎剣の右手から吹き上がった炎は高く、空気を焼いた。その攻撃すら察知していたのか、フェンは一瞬早く、大きく下がっている。

 追撃は――ない。

 炎剣も大きく飛び退く。その瞬間、地面が渦を巻き、転がっている石を飲み込んだ。


 一流の魔装兵同士の戦い――。手を出すな、というフェンの言葉など無視しようと思っていたのに、僕は従ってしまっている。割り込むことでどんな影響が出るのか、想像もできなかった。


「やめといた方がいいよ」

「……エルヴィネさん」


 僕の隣、馬車の前で、気休め程度の風の壁を展開していたエルヴィネが諭すように言った。


「一発で間違いなく相手を殺せるなら別だけど……フェンさんまであんたの攻撃に反応したら最悪」

「分かってます」

「……それにしても、私らがエニツィアに挑んだのが馬鹿らしく思えるね。手段を選んでないのがいちばん恐い。あれはもう人の域じゃないわ」


 人の域――僕はエルヴィネの言葉に息を呑んだ。ちらりと彼女を覗き、訊ねる。


「……エルヴィネさん、あの噂は本当なんですか? 身体に魔法陣が刻み込んだときの……影響っていうのは」

「本当よ」


 エルヴィネは戦いへと真っ直ぐ目を向けたまま続ける。


「ボーカンチは非戦路線が広まっていたから、あんなの随分前に禁忌指定されてる。解放軍の人間ですら手を出そうってやつはいなかった……進行には個人差はあるけど」

「どのくらい、ですか?」

「そんなの分からないわよ。聞いたところじゃ一年足らずで性格が変わった人もいるし、十年経っても何も起きなかった人もいる」

「フェンは……あれを彫ってから三年以上経ってるんだ」


 その一言にエルヴィネは押し黙った。僕は歯噛みし、激しさを増していく戦闘を凝視する。一瞬で土の壁が生まれ、それを炎が焼き、曲刀が振るわれ、大剣が弾く。僕の脳は深く彼らの姿を刻み込む。意図したわけでもないのに脳内の記憶ストレージはその瞬間瞬間を切り取っていった。

 人間離れした両者の戦いは決定打のないまま、時間だけが経過していく。

 その一秒ごとに、彼らから人間性が失われていくようにも思えて、僕は恐ろしくなった。


 ……肉体と精神の境界線はどこにあるのだろうか。

 僕も〈腕〉に魔法陣を刻んでいる。その影響がないとは言い切れない。アシュタヤたちから離れていたとき、僕の〈腕〉は黒く染まっていた。戦いを心待ちにしていたときもある。以前と比べて殺人や暴力への忌避感は薄れているのは事実だ。

 けれど、一方で、僕の変化はそれだけだという確信もある。

 常に〈腕〉を展開しているわけではないからか、〈腕〉が肉体ではないからか、それとも個人差の範疇なのか、精神が獣性に蝕まれていくような感覚に襲われることは今まで一度もなかった。


 フェンはどうなのだろう。

 彼は僕に悩みを話したことなどない。きっと僕だけではなく、他の皆に対しても、だ。

 もし、彼が内側から発生する黒い感情にずっと懊悩していたとしたら?

 この決闘は止めるべきものではないのか?


「……エルヴィネさん、阻害魔法で妨害できませんか?」

「やれるものならやってるわよ。でも、あの速さで戦われたらできるわけないじゃない。どっちに有利に働くか、分からない」


 炎剣の大剣が振り下ろされる。しゃがみ込んでいたフェンの足下が隆起し、彼は投げ出されるように左へと移動した。地面に衝突し、鈍い音を立てた剣戟は追尾するように直角に曲がる。土の壁が刃を妨げ、一瞬できた猶予でフェンは体勢を立て直した。

 曲刀が、音すらも、切り裂く。

 振り下ろされた一撃は炎剣の腕を掠めた。血液が傷から漏れ、炎に触れて蒸発する。

 炎剣は笑っていた。痛みすら幸福のように享受し、狂喜するように大剣を振り回している。そこには人間的な理性は見当たらず、僕の背筋に冷たい汗が浮かんだ。

 もしかしたら、戦いが終われば、彼も煮えたぎる夢から目覚めるのかもしれない。だが、その保障も、また、彼の人間性を信じられるほどの親交もなかった。


「フェニケルス!」と炎剣は叫んだ。「感謝しかない! 今、俺はここにいる、ここにいるぞ!」


 彼は一体何を見ているのだろう。もはや陶酔に近い、焦点の合わない瞳で笑っている。それでもなお剣を振るう様は取り返しのつかない段階まで進んでいるように思えた。

 あれは、フーラァタと同じ目だ。

 内側に飼っている獣に、心を食い破られた、瞳。

 狂ったような笑い声が鼓膜に叩きつけられる。

 嫌な予感がした。大事なものが失われるような、空白の予感が胸の中で膨張する。

 あの目を、最近見たような気がする。いつだ? 思い出せ――


 ――フェンだ。

 ハルイスカに到着する前、水門の街に向かっているとき、彼の目はあんな色をしていた。

 眠気のせいだと思っていたが、違うのか?

 もう、フェンは危ういところまで来ているのか?

 そう考えた瞬間、足が動いた。

 ――決闘など、知ったことか。

 これ以上、戦いを長引かせてはいけない。戦いの中に身を置けば身を置くほど、フェンが遠くに行ってしまうような気がしてならなかった。

 展開していた〈腕〉を手元まで戻し、僕は地面を蹴る。


「オブライエン!」


 エルヴィネが叫んだ瞬間、炎剣の身体がぐらりと揺れた。僕は咄嗟に立ち止まり、彼の足下に目をやる。フェンの生み出した土の渦が炎剣の足を噛んでいる。

 だが、炎剣は躊躇も焦燥もなく、剣を横に薙いだ。フェンは軌跡の下に潜り込み、二本の曲刀で大剣の横腹を突き上げる。かち上げられた大剣は炎剣の手から離れ、回転しながら飛んでいった。


「――終わりだ」


 フェンは体勢を崩した炎剣へと向かって右手の曲刀を掲げる。もう止めることも、躱すこともできない一撃だ。

 勝負が決まる。

 だが、今のフェンに殺人を犯させてもいいのか?

 その行為が何か良からぬことを引き起こすような気がしてならない。勝利の予感と不安が僕の思考を妨げ、〈腕〉の速度を削る。

 叫ぶ間もなく、曲刀が振り下ろされ――


 ――しかし、フェンの一撃は炎剣に辿りつくことはなかった。

 空から飛来した光に僕は慌てて飛び退く。同時に大きな金属が足下に突き刺さった。フェンの曲刀――その断面がどろりと溶けている。


「……炎剣」


 彼の手元にあるのは目映いばかりの光を放つ炎だった。フェンの曲刀は凝縮された熱に根元近くから溶断されている。

 どれだけの熱量があれば、一瞬で――

 躊躇が、身体を縛り付ける。再び立ち止まってしまった僕の目に飛び込んできたのは、フェンが二撃目を放つ光景だった。


「フェン! だめだ!」


 左手の曲刀も空を切った。

 半分ほど刀身を失ったフェンの武器は空寒いほどの虚しさで横薙ぎに振るわれている。そのあまりのあっけなさに、僕の意識は三年前の冬、公認盗賊の森の中へと紛れ込んだ。

 僕とフーラァタの戦い、その最後は恐ろしいほど簡単に幕が引かれた。人は得てして、意識外からの攻撃に脆い。

 あのときと同じだ。フェンがフーラァタで、炎剣が僕。決着をつけようと、渾身の攻撃を放っていたフェンが炎剣の次の一撃を回避できるわけがない。肉にずぶりと忍び込む、あの柔らかで確かな感覚が甦り、喉を詰まらせた。


「――俺の勝ちで、終わりだ」


 炎剣の攻撃がフェンの胸へと突き出される。


     〇


 地面に血が広がっていく。蹲ったフェンと仰向けに倒れた炎剣。

 僕はその光景に声を出せずにいた。


「……惜しかったな。炎の剣がもう少し長ければ、届いていた」

「剣士が、剣を捨てるかよ……」


 炎剣の呟きにフェンは小さく笑った。彼が立ち上がると同時に、地面から斜めに生えた土の柱がぼろぼろと崩れ去っていった。


「あいにくだが、剣士を名乗っていたのはガキの頃だけだ」

「くそ……どうりで無駄な二撃目を放ってきたわけだ……あの瞬間、心底がっかりした俺が馬鹿みたいだな……」

「剣の実力はほぼ五分だったからな。防御を忘れさせるには効果的だっただろう?」


 炎剣は力なく、乾いた笑い声を上げる。自身の右肩に深く突き刺さった曲刀の刀身を愛おしげに見やり、ゆっくりと目を瞑った。

 勝負の決着は二本目の曲刀が溶断された瞬間についていた。

 あの切迫した状況で、あろうことか、フェンはわざと武器を捨てたのだ。彼は攻撃の角度を変えるため、そして、炎剣の油断を誘うために曲刀を溶かさせた。宙を舞った刀身は土の柱に攫われ、一本の槍となり、炎剣の肩を貫いたのである。

 完全に意識の外からの攻撃だったのだろう、前のめりに腕を突き出していた炎剣は倒れるその瞬間まで勝利を確信した表情のままだった。しかし、彼の放った炎の切っ先はフェンの服を燃やすことすらできず、消え去っている。


「ああ」と炎剣は天を仰いだまま、声を絞り出した。「痛えなあ……」


 フェンは炎剣に対して、それ以上、何の言葉もかけなかった。あっさりと踵を返し、折れた曲刀を拾いもせず、馬車の方へ、僕の方へと戻ってくる。

 傷らしい傷もなかったが、素直に喜ぶこともできなかった。戦闘の前に彼が見せた不穏な表情が過ぎり、適切な労いすら浮かばない。


「フェン……大丈夫?」

「怪我はない。……だが、少しまずいな」


 彼の声は揺れていた。

 胃が収縮する。普段の力強さは微塵もなく、彼の態度から漂う頼もしさも、やはりなかった。

 疑念が少しずつ確かなものに変わっていく感覚に、僕は動けない。魔法陣の知識が豊富なエルヴィネへと縋るように視線を向けたが、彼女はフェンの腕をじっと見つめたままだ。


「どうした、ニール、エルヴィネ」フェンはまるで自分の変調を隠すかのように、声色を繕っている。「レカルタへ戻るぞ」


 このまま放っておくことはできない。

 僕はフェンを追い抜き、馬車まで駆け戻った。御者台で一部始終を見ていたマーロゥが緊迫した表情で頷き、座席へと声をかける。


「ヨムギ、ベルメイアさま、フェンさんを横にしてやりたいからこっちに来てもらえませんかね?」

「横にって、怪我は」と言いかけたヨムギを、僕は制す。「ヨムギ! ……頼む」


 彼女もただならぬ何かを感じたのか、反論をせずに御者台へと乗り込んでいった。後をついていくベルメイアの顔を直視できず、僕は目を逸らし、開けられたままの扉から座席へと飛び乗った。不安そうにこちらを見つめるアシュタヤの胸から青い光が伸びている。フェンの心の形はどうなっている、と訊ねるのも恐ろしく、黙っているとフェンとエルヴィネが座席へと身を滑らせてきた。


「フェンさん」アシュタヤは心配そうに呟く。「お怪我は……」

 答えたのは僕だ。「ないよ、大丈夫。……でも」


 フェンは俯いたまま、奥歯を噛みしめている。右腕を左手で握りしめているが、彼の両腕は、彼の意志に反して、あるいは彼の感情に従順に、細かく震えていた。次第にその震えは全身に伝播していく。

 声をかけようとしたとき、馬車が出発した。馬が嘶き、徐々に歩調を速めていく。倒れたままの炎剣の横を通り過ぎ、その姿を目にしたフェンはぐっと息を詰まらせた。


「なんて、無様だ……こんな簡単に攻撃を食らうとは」

「攻撃なんて! ……フェンは一撃も食らわなかった、食らわなかったんだ」


 僕の声は上擦っている。認めてくれ、と懇願するような僕の言葉を、彼は「いや」と、すげなく否定した。


「……一発、とてつもなく大きなものを食らった」


 目の前にいるはずのフェンが遠い。彼の表情は今まで僕が頻繁に生み出してきたものであり、そして、彼が僕の前で一度も作ったことのないものに覆われている。

 ――恐怖だ。

 揺れ動く全身が焦れったかったのか、フェンは握った拳を膝へと叩きつける。だが、その行動は何の意味もなさず、鈍い打擲音を立てただけに終わった。


「……フェン」

「すまん、何でもない、気にするな」

「フェン!」


 咄嗟に僕は正面に座る彼の腕を掴んだ。硬化した皮膚と、魔法陣を模した入れ墨。バンザッタを出発した三年前の冬より面積を増した入れ墨は肘を越えてしまっている。

 そこには人としてのぬくもりなどなかった。


「――重ね合わせたのね」


 エルヴィネの一言にフェンの身体がびくりと震えた。彼は目を見開き、エルヴィネを見つめる。怒りの臭いが鼻を突くほどにひどくなる。しかし、それも一瞬だった。フェンは自分を戒めるように深く息を吸い、吐き出す。

 エルヴィネはじっとフェンの腕に視線を落としたまま、ぽつりと言った。


「身体に刻んだ魔法陣は心まで蝕むわ。……あの炎の使い手の中に自分の未来を見たんでしょう?」

「……静かにしてくれ」

「フェンさん」エルヴィネは構わずに続ける。「悪いことは言わないわ。その魔法陣は消した方がいい。でなければ、いつかあなたも――」

「黙れ!」


 フェンの怒号に馬車の動きが一瞬、滞った。沈黙は蹄鉄の音を際立たせる。御者台からこちらを覗き込んできたヨムギとベルメイアが、まずいものを目の当たりにしたかのような顔で視線を前へと戻した。


「……すまない。少し落ち着かせてくれ」


 フェンは、怒鳴ったことに自分でも驚いたかのような、同時に、深く後悔するかのような、複雑な表情で唇を噛んだ。

 僕はその姿に何も言えない。ずっと僕を支えてくれた男が怯えている。

 何に?

 自分自身だ。少しずつ狂っていく自分に、彼は恐怖している。炎剣のように、フーラァタのように、いずれ己が戦いのみを求める獣に変貌するのではないか、その未来から目を逸らすかのごとく、フェンは俯いたまま、硬く目を瞑っていた。


 彼の名を呼んでみるが、返事はない。

 ああ。僕の胸の中をちりちりと焦がす炎が生まれている。

 この戦闘で、フェンの力が証明された。だが、皮肉にも、そのせいで彼の足場は崩れてしまったのだ。

 敵が放った炎は、フェンの中央を貫き、土の民の誇りを融解させていく。沈黙はどこまでも無慈悲に、彼が一人の人間であり――人間であろうとする以上逃れることのできない攻撃を加えられたのだと悟らせてくる。

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