97「行こうか」

 南中を過ぎた太陽からぎらぎらとした光が降ってきている。踏み荒らされた草は曲がり、土にまみれながらも辛うじて緑を放っていた。その合間には赤と肌色の静寂ばかりがある。戦いを終えた平原ではエニツィア軍により死体の処理が行われていた。

 エニツィア軍人の遺体は布に包まれ、馬車でバンザッタへと運ばれる。まだ日が高い、今夜にも鎮魂の儀式が執り行われるだろう。風が草を擦る音に混じり、すすり泣くような声が聞こえた。


 一方でペルドール軍の扱いは丁重とは言えない。鎧や剣などは再利用するためにはぎ取られ、残った死体は穴へと放り込まれていた。周囲一帯にいくつも掘られた穴の周囲には炎の扱いに長けた魔術師たちがそれぞれ三人ほど立っていて、順番に魔法の詠唱をしている。

 死体は放置しても良いことはない。腐り、病原菌が繁殖すると疫病の原因にもなる。エニツィアの衛生観念は高く、肉の焼ける臭気と煙は絶え間なく穴の中から立ち上り続けた。もしかしたら彼らの宗教観も影響しているのかもしれない。崇拝する自然の前に敵の死体を野ざらしにするのは何事か、と。

 夏の暑さは死体を燃やす臭いと熱に飲み込まれ、幾分かの爽やかさもない。

 前線で戦っていた軍人や傭兵たちは随分と前に帰ってしまっていたが、僕はその場を離れられずにいた。


「ニール!」


 息を切らせてアシュタヤが駆け寄ってくる。その後ろにはマーロゥとヨムギがいて、彼らは僕を見た瞬間に、安堵だろうか、表情を緩めた。


「待ってても帰ってこないから、何かあったのかと思って……」

「ああ、ごめん」頭を下げ、遠くに目をやる。「考え事をしててね」

「なんだまたか」

 マーロゥがヨムギに訊ねる。「また?」

「ああ、こいつはラ・ウォルホルの初日もそうだった。暗い馬小屋の中で膝を抱えてアシュタヤの名前を呼んでた」

「……なんだよ、意外とかわいいところあるのな」

「今回はちょっと違うよ」


 僕が考えていたのはギルデンスの言葉だ。

 国家という化け物、ギルデンスにもっとも近い僕、彼が去り際に残した言葉が深く刻みつけられている。


「……ギルデンスのこと?」


 訊ねたのはアシュタヤだった。マーロゥとヨムギは顔を見合わせ、アシュタヤへと視線を集める。僕は小さく頷いて、苦笑した。


「あいつと話したよ。それで色々言われてね」


 ギルデンスの目に嘘はなかった。彼の目的は単純明快だ。

 エニツィアを滅ぼすこと。

 金銭や名誉のためではなく、単なる精神的な充足のために国を滅ぼす。きっと彼はその後のことなど考えていない。

 建国譚の解釈はともかく、それに登場した英雄たちはより良い暮らしのために化け物に立ち向かった。だが、彼は化け物と戦い、勝利することだけを目的としている。

 それはある意味で、より根本的な欲望の発露だ。


 肉体が生命維持のために食事や睡眠を求めるのと同様に、精神も餓え、疲弊する。人間である以上、僕たちもギルデンスも僕たちも同じだ。だが、人々が日々の暮らしで得られる糧も休息も、彼を満たすことはない。

 心の飢餓感と疲労感は肉体を蝕む。

 彼は自分のことをか弱い生き物だと言った。彼自身、「心」に振り回されている自覚があるのかもしれない。

 だが、それがギルデンスを認める理由とはならなかった。


「やっぱり、僕はあいつを許せない」

「……ギルデンスに何を言われたの?」

「帰ったら話すよ。これはみんなが知らないといけない問題だ。みんなが――カクロさまもだし、当然カンパルツォ伯爵とかウェンビアノさん、フェンにも教えなきゃ」

「なんだよ、もったいぶりやがって」とマーロゥが急かす。

「もったいぶってるわけじゃないよ。人の耳もあるし、ちょっと疲れたのもあるんだ……まあ、ただ」


 僕は周囲を見渡す。エニツィア軍の兵士たちは一心不乱に作業しており、耳を欹てている気配はない。十メートルも離れているから、声を潜めれば届くことはないだろう。


「今年の建国祭は行われないかもしれない」

「え」と声が重なった。ヨムギが眉を寄せる。「どういうことだ?」

「内戦が起きる」


 そう言った瞬間、三人の表情が硬直した。


「貴族たちが王座を奪うために動いているんだ。まあ、それもあくまで表面上だけど」

「表面上?」

 アシュタヤの問いに僕は北を、王都レカルタを見つめた。「……アシュタヤ、ギルデンスの目的は知ってる?」


 アシュタヤは首を振る。バンザッタまでの道中で彼が護衛としてついていたらしいが、彼がそんなことを明かすわけもない。


「私があの人について知っているのは……ギルデンスがいることで無駄な血が流れてる、それだけ」


 そこで僕はようやく彼女がギルデンスに対して敬称をつけなくなっていることに気がついた。

「呼び水」――その渾名は偶発的に名付けられたものではない。彼は戦場を飛び回っているのではなく、意図的に戦争を引き起こしている。

 アシュタヤもまた、彼をエニツィアの敵として認めているようだった。

 それがなんだか少し悲しくて、僕は目を伏せた。


「……ギルデンスの目的はエニツィアを滅ぼすことだ」


 たった一人の人間が国を滅ぼすなど、冗談にもならない。

 だが、ギルデンスにはそれを実現するだけの力、「名誉軍人」という地位、オルウェダ家などの後ろ盾がある。そして何より質の悪いことに、彼が武器にしているのは希望だ。人々に今よりもっと素晴らしい生活が待っていると思わせ、思考を誘導し、戦いへと導く。

 誰もが自分の意志で蜂起したのだと信じて疑わない。


「ニール」ヨムギが唇を振るわせる。「お前、何を言っているんだ? 何のためにこの国を滅ぼす必要がある?」

「違うよ、ヨムギ。ギルデンスは何かのためにエニツィアを滅ぼそうとしてるんじゃない。国を滅ぼすことそのものが目的なんだ」

「なんだ……それ」

「言ったとおりの意味だよ」


 ヨムギは愕然とした表情になり、自分の思考を見定めるように視線を彷徨かせた。周囲では軍人がエニツィアのために動いていて、彼女はそこから何かを感じ取ったようだった。


「おれは……国のことなんてよくわからん。レカルタに入るたびに『国に忠誠はあるか』と聞かれたけど、その意味なんて考えたこともなかった。国のおかげで人が暮らせているんだってオヤジから言われてただけだ」


 でも、と彼女は付け足す。


「国を滅ぼす、っていうのはおかしいだろう。それに何の意味がある?」

「……昔、僕も似たようなことをギルデンスに聞いたよ。あいつは『娯楽に意味は必要か?』って平然としてた」

「娯楽だと?」


 怒声に作業をしていた軍人たちの視線が集まる。ヨムギは握った拳を震わせ、唇を噛みしめていた。

 彼女はラ・ウォルホルを出て以来、国という存在に触れてきた。傭兵として戦場を回る生き方ではなく、市民の一人として生きている間にぼんやりながら「国」を認識していたのだろう、震える息を吐き出した。


「……ディータには悪いが、おれにはそいつの言うことは理解できない。それはつまり、ギルデンスとかいうやつのせいでおれの家族が危険な目に遭うかもしれないってことだろう?」

「そうなるかもしれない」

「決めた」


 ヨムギは短くそう言って、熱の宿った瞳をアシュタヤへと向ける。


「おれもお前らに同行する。おれが家族を守るんだ」


 アシュタヤはその目をじっと見つめ、それから小さく頷いた。精神感応を使わずとも、ヨムギの気持ちは理解できたのだろう。建国祭までは半年、その短い期間で彼女がどこまで強くなるか判断できるはずもないのに、それでもアシュタヤはヨムギの思いを汲もうとした。


「……分かりました。では、ヨムギさん、よろしくお願いします」

「『さん』はいらない、もう慣れろ」

「……分かりました」アシュタヤは苦笑ともに頷く。「では、ヤクバさんたちが到着したら早速魔法の指導に当たってもらいましょう」

「……ヤクバたちに『指導』なんて言葉は似合わないな」

「そんなことねえよ」と反論したのはマーロゥだ。「俺はセイクさんに剣術とか体術を教えてもらってたけど、それで随分強くなったぜ」

「それは波長が合ったからでしょ」

「俺から見たらヨムギも十分合いそうだ。……っていうかレクシナさんは波長とか関係ないしな」

「言えてる」


 いつの間にか、肩の力が抜けていることに気がつく。

 建国祭までは長い。秋と冬を越え、それからだ。今から気を張っていても仕方がないのも確かで、僕はゆっくりと息を吐いた。

 アシュタヤが「滞在は予定通りです。ニールとヨムギ、のご家族が到着したらレカルタへと戻りましょう」とまとめ、僕たちは城へと帰ることになった。マーロゥが「勝てて良かったな」と呑気なことを言い、ヨムギがそれに反応する。


「祝勝会と決起集会だ。酒を飲もう。ニール、今回はお前も飲めよ」

「なんだ、お前、酒も飲めねえのか?」マーロゥは鼻で笑う。「それで良くあの人たちと付き合ってたな」

「いえ、ニールはお酒、飲めますよ」

「そうだね、ちょっとこの二年半飲みたくなかっただけだ」


 そのちょっとは長いだろ、とマーロゥが笑い、ヨムギが「飲めるのに飲まなかったのか」と怒りを露わにした。

 彼らとなら良い「乾杯」ができそうだ。

 ずっと口にできなかった「友達になろう」は、きっと驚くほどすんなりと、何の抵抗もなく、僕の口から出て行くに違いない。頭領たち傭兵団が来たら、彼らとも酒を酌み交わそう。


「では、帰りましょうか」


 アシュタヤの号令にマーロゥとヨムギがいち早く足を踏み出す。僕は三人の背中から視線を外し、命が散り、染みこんだ平原を見つめる。

 何度、この風景を目にしただろうか。

 目的らしい目的など、失われていた。ただ流れるままに漫然と過ごしていただけだ。それは国を守ることに繋がったかもしれないし、あるいはカンパルツォの理想に血をつけていただけなのかもしれない。

 穴から生まれた煙は死者の霊魂を纏って空へと昇っていく。

 敵兵の肉体から立ち上った煙とはいえ、寂寞を覚えた。

 でも、きっとそれこそが「化け物」と人間の分岐点に違いなく、その感情を忘れてはならないと思った。

 僕は目を瞑り、黙祷を捧げる。


「どうしたの、ニール?」


 立ち止まったアシュタヤが僕に手を差し出している。マーロゥとヨムギが「早くしろ」と口を揃える。祈りを捧げるのをやめ、僕はアシュタヤの手を取った。


「ああ、行こうか」


 レカルタへ。

 僕が顔を上げて入ることのできなかった王都へ。

 ああ、そういえば、バンザッタへ来たことで僕はこの国を一周したことになる。

 バンザッタからメイトリンへ、メイトリンからセムークへ、山脈を越えて中部の街に降り、頭領と出会った僕はあちこちを移動しながらレカルタへと辿りついた。そこで聞いた傭兵の募集でハルイスカを通り、ラ・ウォルホルまで行くことになり、ディータに連れられてアノゴヨまで赴いた。

 まるで何かに導かれるように、僕はこの国を巡った。ギルデンスの言葉が脳裏で翻る。


「エニツィアという化け物が私に対抗するために生み出したのが、お前だ」


 もしかしたら彼の言うとおり、エニツィアという意志が、僕に自身の姿を伝えたのかもしれない。この国を守らせるために、愛着を抱かせようとした。そもそもワームホールがこの地へと繋がったのもその超自然的な意志が働いた可能性も捨てきれない。

 根拠のない妄想に笑いが漏れる。不思議そうな顔でアシュタヤが見つめてくる。何でもないとごまかして僕は地面を踏みしめた。

 もしそうだとしたら、このエニツィアという化け物は悪い生き物ではない。

 僕はこの地に来たおかげで前の世界では手に入れられなかったかけがえのないものを手に入れた。それも抱えるほど、だ。

 信頼できる大人、強い帰属意識、感情の揺れ、酒の味、何でもない日常とわずかばかりの力。

 それから、と僕は一緒に歩く三人を順番に見つめる。


 マーロゥとは知り合ってまだ間もない。だが、いい友人となれる気がする。彼は同い年だと言っていた。ヤクバやセイク、レクシナも友人だとは思っているが、彼らは僕より年上だし、先輩だった。完全に対等な人間は彼が初めてだ。

 ヨムギに視線を移す。彼女は僕を家族と言った。それまで僕には血の繋がった両親、ジオールに対して家族らしい感情を抱いたことはなかった。メイトリンでジオールとは和解を果たしたものの、彼はあっさりとこの世界を離れた。彼は僕を兄弟だと言ったけれど、まだ兄弟になれた気はしない。それに、僕はあくまで彼の遺伝子から生み出されたクローンだ。僕の前後に生まれていたクローンの兄弟たちはもう既に処理されている。初めての家族がヨムギたちと言っても過言ではない。


 そして――僕はアシュタヤの手を握る。

 彼女と会えただけで僕は幸せだった。今、僕は一度離してしまった手を掴むことができている。求めていた幸福が僕と彼女の掌に包まれている感触がある。

 僕たちは連れだって歩き、馬車へと乗り込み、ほどなくして馬車の振動が尻を叩いた。バンザッタへ帰り、いずれ彼らとともにレカルタへと発つことになる。そこでカンパルツォやウェンビアノ、フェンはこれでもかというくらい僕を叱るだろう――怒るのではなく。

 だが、それすらも今は楽しみだった。僕は充足されている。この暖かさに十分に浸っておくことにした。

 春になれば内乱が勃発し、ギルデンスとの決着が為される。

 それが、きっと、ニール=レプリカ・オブライエンの最後の戦いだ。

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