95「化け物」〈バンザッタ防衛戦3〉

 惑星の公転運動に従って夜は短くなり、また、その短さを誇張するようにあっという間に過ぎた。

 要塞都市バンザッタには十数年ぶりに戦時警戒令が発布され、壁の内側から発せられる音のほとんどは軍靴の音となり果てている。その音に背を押され、僕は傭兵たちとともにバンザッタの南門を出発した。


 戦争の予定地、エニツィア南部、国境線付近の平野へは昼前に辿りついた。直線距離で三百メートル近くはある三層の「鳥の翼」、敵にもっとも近い第一の壁にもたれかかったまま開戦の合図をじっと待っている。東南から差し込んでくる太陽の光は、壁と「鳥の翼」の口を塞ぐように置かれた大岩により遮られ、僕に当たる前に影へと変わっていた。

 かつて小さな農村沿いの川を堰き止めていた大岩、準備と称して運搬してきたのはその岩だ。高さは三メートル以上、横幅は二メートル程度、重さは十トンあってもおかしくない。馬に乗ったままその重量を支えるのは容易ではなかったが、盾としてそれに見合うだけの価値はあるだろう。


 ――僕はこれまで多数との戦いを多くこなしてきた。望んだわけではないが、そのおかげで一対多という状況において肝要なことは熟知している。

 どれだけ効果的な治癒魔法を持っていたとしても使えなければ無用の長物というほかない。数的不利の中でもっとも避けなければいけないこと、それは集中砲火されて為す術もなく倒れることであり、その状況を避けるためにあらゆる手段を用いて相手の攻撃を抑制させる必要があった。

 僕が行き着いた最適な行動――無力感や恐怖を敵に与え、迷いを生じさせて道を開く。


 ラ・ウォルホルでも実戦したようにその方法がもっとも単純で効果がある。あのときはボーカンチ解放軍が歩兵で防御を固めていたため速度と治癒魔法で翻弄したが、今回はそうもいかない。ペルドール軍は距離を取って魔法を放ってくるだろう。

 もちろん〈腕〉を用いて攻撃を逸らすことは簡単だ。

 しかし、「攻撃を逸らす」では勇猛果敢であるという「虎」の軍勢に恐怖を与えられるとは思えなかった。元々長距離魔法の命中率は低く、ただの偶然であると判断される可能性もある。

 だから、今回は明確な視覚に頼ることにした。


 大人が数人がかり、それもてこや滑車を使わなければいけないほどの――大岩が魔法を弾く光景は十分な衝撃を与えるはずだ。ある程度近づいたら放り投げるのもいい。〈腕〉により放たれた隕石は恐慌を引き起こすには十分な威力を持っている。

 僕は目を瞑り、ゆっくりと息を吐く。

 遠くからペルドール軍の雄叫びがうっすらと聞こえた。彼らの歩みが振動となって地面を伝わり、空気をぴりぴりと震わせていた。既にこちらは臨戦態勢へと入っている。己の戦果を求めた傭兵たちは――作戦通り――作戦を無視して、壁の両端で機を窺っていた。


 中央にいるのは僕とギルデンスだけだ。

 立ち上がり、岩と壁の隙間から徐々に接近してくる敵軍を睨む。ペルドール軍は波のような速度と隊列でこちらへと突き進んできており、何がおかしかったのか、口の左側にいるギルデンスがくつくつと小さな笑い声を漏らした。

 彼の一挙手一投足が後頭部の辺りをちりちりと焦がす。大勢が決したらすぐさま彼への攻撃を実行する予感があった。それを見抜かれていたのか、彼は窘めるような視線を向けてくる。


「さて」とギルデンスは金属の筒を二つ、手の中で同時に回転させながら言った。「そろそろ時間だな……ニール、用意はいいか?」

「黙れ、僕の名を呼ぶな」

「そう邪険にするな。仲間だろう」

「笑えない冗談はやめろ」


 僕は進軍してくるペルドール軍から目を離し、ギルデンスを睨んだ。

 まともに会話を交わすのもこれが最後だ。少し考え、僕は一つ、訊ねておくべき質問を投げかけた。


「ギルデンス……お前はどうしてこの国を、いや、あらゆる人々を戦乱に叩き落とそうとしてるんだ?」


 頭の中にラニアの言葉が浮遊している。

 彼は、人間が悪に堕するのは悪を為したときではなく、善を諦めた瞬間だと言った。

 いつか僕はギルデンスを殺す。積極的に悪をなそうとするのはそのどちらに当たるかは分からないが、人を殺すのが悪であるならば彼が人以外の何かであることを確認しておきたかった。

 ……あるいは無意識下で期待しているのかもしれない。ギルデンスの行動に微かでも合理的正当性があるのだと、彼もまた異なる善を持っているのではないか、と。


「……答えろ」


 ギルデンスの瞳は相変わらず淀んだままだ。底が見えない瞳はあらゆる他人の幸福を奪い去るような暗さに満ちていた。


「人聞きが悪いな……。戦乱に叩き落とすなど、そんなつもりは毛頭ない」

「……事実だろう。お前はロダ・ニダ・ドズクアを滅ぼし、ボーカンチ解放軍をエニツィアへと送り込んだ。この戦争にも、お前は関わっている」

「ドズクアか、懐かしい話題を出すものだ。あの頃は若かった……あれを私のせいといわれるのは癪だが」

「はぐらかすな!」


 意味のない与太話に耳を傾けるつもりはなかった。

 僕が聞きたいのは彼の目的であって、それ以外は必要ない。

 凝視する。鬨の声が南から轟く。ギルデンスの表情は動かない。刻まれた魔法陣により表情筋が破壊されているかのように、温度のない目つきで僕を見つめていた。

 値踏みするような視線だ。一拍の間を置いて、彼は口角を歪め、息を漏らした。


「……ニール、お前は建国の英雄譚を知っているか?」

「……それがどうした」

「それが、答えだ」


 ギルデンスの短い返答は疑問と苛立ちを生じさせる。真意を問いただそうとしたとき、彼の表情に恍惚としたものが、わずかに混じった。


「私は……あの物語に登場する英雄のようになりたいのだ」

 子供じみた言葉に意図せず拳に力が入った。「……ふざけてるのか?」

「勘違いするな、私は畏怖や賞賛、称号が欲しいわけではない。私が求めているのは陶酔するほどの充実感だ……想像してみろ。化け物を屠った英雄たちはどれほどの満足を得たのだろうな……」


 落胆と歓喜が同時に胸の内で揺れ、激しい嫌悪感だけが残る。

 これで安心した。僕の目の前にいるのは人ではない。善の道を歩こうともしないおぞましい生物なのだ。

 痛いほどの憤りが身を包んでいる。筋肉が強張り、弾けそうになっていた。


「……化け物はお前だ、気狂いめ」


 だが、そう罵倒した瞬間、ギルデンスの顔に人間のような温度が、かすかに灯った。彼は哄笑し、顔に手を当てる。心の底から愉快そうな笑い声が掌と顔の隙間から漏れていた。


「……何がおかしい」

「まさか『化け物』にそう言われるとは……な。意外だった」

「僕は――『化け物』じゃない!」


 確かにこの世界の人々にとって僕の力は化け物じみているのかもしれない。

 だが、僕は人間だ。人並みに悲しみ、人並みに喜び、恋もした。だからこそギルデンスの所業に怒りを抱いているのだ。

 ありったけの憎悪を視線に込める。しかし、その行動に意味はなく、ギルデンスは頬を緩めるだけに終わった。その中には後ろ暗い感情は微塵も含まれていない。

 そして、彼は言った。


「その通りだ、ニール」

「――え」


 肯定されるなどとは考えていなかったため、言葉を失う。呆然としていると落ち着き払ったギルデンスの声が耳の中へと染みてきた。


「かつて私もお前同様『化け物』と呼ばれていた。幾多の戦いに参加してなお一切の傷を残さない私を誰もが恐れていたよ。……だが、お前も分かるだろう?」


 ギルデンスは空気の味を確かめるように、ゆっくりと深い呼吸をした。空白を埋めるようにペルドール軍の雄叫びが滑り込んでくる。


「我々は人間だ――化け物などではない。どれだけ力を得ようが、か弱い生き物に過ぎないのだ……そして、誰もがその事実から目を逸らしている。本当の化け物はすぐそばにいるというのに」

「……本当の化け物?」

「見ろ」


 ギルデンスは金属の筒で大岩を、その先にいるであろうペルドール軍を指し示す。壁と岩の隙間から見えるペルドール軍は威嚇であるのか、宙へ向けて火の魔法を放っていた。


「あれこそが化け物だ。国――


 ペルドール軍が生み出す振動が足の裏へと伝わる。そろそろエニツィア軍から開戦の合図があってもおかしくはない。だというのに、僕の意識はギルデンスに掴み取られていた。


「……国とは一つの生物だ。人はそれを構成するただの要素に過ぎない。改革も内乱もただの変化だ。政治形態が変わろうが、人の命が失われようが、国の感情は揺るがない」


 見ろ、と再びギルデンスは呟く。


「人の行動は国という化け物に縛られる。自身の命をなげうって人間は国のために動く。恐ろしく奇妙だとは思わないか? あまりに不合理だとは思わないか? 自分の命と化け物の命を天秤にかけ、後者の方がかけがえのないものであると錯覚させられているのだ。すべてが国家という化け物を成長させるためだけの手段に過ぎないにも関わらず」


 何を馬鹿な、と一蹴できたらどれだけ楽だったか。

 僕がこの世界に来るきっかけとなった、あの白く無機質な実験施設が頭に浮かんだ。


 瞬間移動――それは国家が求めていた超能力だった。物体の瞬間移動が可能となったなら世界ははっきりと変貌する。その力を有した国家は軍事的にも経済的にも爆発的な成長に見舞われるだろう。あらゆる国の要人はどこにいても人質となり、輸送にかかるエネルギーやコストは別の産業に回される。

 僕はその礎にさせられた。

 あの日、僕は実験施設へと連行した政府高官に恐怖を感じた。その得体の知れない巨大な恐怖は国家という理不尽で理解のできない化け物への恐怖だったのかもしれない。


 この世界に来てからも同様だ。

 ボーカンチ解放軍はボーカンチという化け物を育てるために行動を起こした。ペルドールはエニツィアを食らうために軍という代替可能な捕食器官を送り込み、エニツィアもそれらから身を守るために人々を戦地へと赴かせている。

 岩と壁の隙間から入り込んでくる雄叫びが、醜悪な化け物のうなり声にも聞こえた。


「カンパルツォは国を人間の支配下に置こうとしているが、それがどれだけ愚かなことか……。それすらも化け物の掌の上だというのに」

「……あの人を愚弄するな!」

「愚弄するさ。人間が、己を食い尽くす化け物を守ろうとしている。これほど滑稽なことはないだろう」

「……違う」


 僕は口の中で繰り返す。違う、ギルデンスの言葉は間違っている。

 カンパルツォやウェンビアノ、フェン、そしてアシュタヤの行いを否定されるのだけは許せなかった。


「国は……確かに化け物かもしれない。でも、そうだとしたらあの人たちはエニツィアを、人を食らう化け物ではなく、人を守る化身に変えようとしているんだ。それだけは否定させない!」

「一方で彼の改革に苦しむ人間もいる」

「それは……今が不幸な状況にあると知らないからだ! カンパルツォ伯爵には正義がある!」


 不思議な静寂が満ちた。開戦間際の、一瞬の膠着。僕とギルデンスは睨み合ったまま、動かない。


「……知っているか、ニール? 建国譚には別の解釈があることを」

「何の話だ」

「あの建国譚は反乱の歴史だという学者もいるのだ。小さな国々が手を組み、中央にあった別の国を滅ぼしたという解釈だ。……正義など単なる視点の話に過ぎない」

「……でも、これだけは言える。お前に、正義なんて、ない!」

「そうか? 私は人々を不幸にする化け物を殺そうとしているだけだ。重税などで苦しんでいる人間にとっては私はそれこそ英雄ではないか?」

「黙れ!」そんな理由で正当化できるはずがない。「お前はあの日、娯楽だと言っていただろう! 遊び半分で人の命を奪って何が英雄だ! 大体、ロダ・ニダ・ドズクアの人間はお前に国を亡ぼされて幸福になんてならなかった!」

「だから言っているだろう、ドズクアが亡ぼしたのは私ではない。ただ少し手を貸しただけだ。……まあ、大した充実感は得られなかったがな」


 頭の裏で何かが弾けた。

 僕は右手を顔の前に掲げ、長手袋から〈腕〉を引き抜く。

 今、ここで殺しておかなければ――そう考えた瞬間、空に火が上がった。開戦の合図だ。一瞬遅れて自軍の方向から雄叫びが轟いてくる。


「時間だな……どうする? エニツィアの行く末を無視して今ここで私と殺し合いをするか? それがお前にできるか? できないだろう、化け物に取り込まれているお前には」


 頭上をペルドール軍の火炎弾が流れていく。聞き慣れた傭兵たちの声が地面を這っていた。

 僕は歯噛みする。ここで時間を浪費するわけにはいかない。もう既に作戦は開始されているのだ。怒りが焦燥に飲み込まれる。めまぐるしく回転する思考を同時に処理するには頭蓋骨の容積が足りず、もどかしい。


「ニール、何を言われようが、私はエニツィアという化け物を潰す。一人の人間が巨大な化け物を殺すとき、どれだけの幸福を味わえるのだろうな……。それだけが、私の、純粋で崇高な目的だ」

「……お前は、狂っている!」

「それが嫌なら――」


 ――精々止めてみろ。


 そう言い残し、ギルデンスは壁の外に足を踏み出した。

 煮えたぎる怒りは〈腕〉の形を歪にしている。そのままギルデンスへと叩きつけてやりたかったが、その選択をすることは僕にはできなかった。

 殺したいが、殺せない。

 僕はアシュタヤと「この国を守る」と約束をした。今、そのためには彼の力が必要だ。やりきれない思いが身体の内側で乱反射する。拳を壁に叩きつけ、叫ぶ。

 戦争が始まる。

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