第三章 第四節
92「腕、持ってきたの」
結局、その日、ギルデンスと鉢合わせることはなかった。
幸運だったのか不運だったのか、断言はできない。一人でいるときに彼と会ったらきっとアシュタヤとの約束を破って攻撃を仕掛けていた確信があったからだ。アシュタヤとの約束を守れたという面では幸運ではあったが、ギルデンスに攻撃するチャンスを得られなかったという面では不運になる。
なぜギルデンスがアシュタヤの護衛として任ぜられたか、その理由をまとめてしまえば簡単だった。
すべてはペルドールが侵攻してくる、という噂が発端だ。アシュタヤは指揮官の補佐として、ギルデンスは軍人の一人としてこの戦争に参加するらしい。つまり、アシュタヤの護衛としてギルデンスが選ばれた、というより、ギルデンスがバンザッタへ向かうついでにアシュタヤの護衛をしている、といった方が正確だった。
アシュタヤもかなり特殊な立場に置かれているが、ギルデンスはそのさらに上を行く。
「呼び水」――メイゼン・ギルデンスはエニツィア中部の都市を治める貴族の三男として生まれた。他国との戦争に巻き込まれない平和な地域、穏健派として知られるギルデンス子爵家、彼の二人の兄は優秀で、上の兄は父に代わり領主として、下の兄はレカルタで国政を担う一人として活躍している。
そんな穏やかな文官の一族で彼一人が軍人となった。
彼の名と顔が知られたのは十五年前、東の小国との武力衝突がきっかけだ。その小国はかつて結んだ条約を不平等であると主張し、無謀にもエニツィアに攻め込んだ。当時十四歳だったギルデンスは魔装兵の一人としてその戦争に参加していた。
エニツィア軍六千、敵の軍勢は二千、絶対的に有利な状況下だったにも関わらず、彼は小国の野営地を単独で夜襲した。だから、そこで何が行われたのか、知る者はいない。
ギルデンスの特異性を物語っているのは残された結果だけだ。
彼は無傷で帰ってきて、敵の主力部隊は壊滅した。それが事実だ。
その後、軍を辞去したギルデンスはおおよそ三年間、行方をくらませた。エニツィアの表舞台から姿を消した彼が再び登場するのは十二年前、ペルドールによる「継承戦争」である。
エニツィアの南、大陸第二の国ペルドール帝国は侵略を繰り返し勢力を伸ばしてきた国家だった。そのため、政治手腕よりも戦争手腕が重視される傾向にあり、その最たる特徴として「継承戦争」が挙げられる。継承権を持つ兄弟たちが近隣諸国に戦争を仕掛け、その結果により次代皇帝が決められるという極めて乱暴な制度は今なお廃止される気配はない。
その戦争でペルドール軍がエニツィアへと侵攻してきたとき、ギルデンスはどこからともなく現れて、再び多大な戦果を挙げた。その頃には既に全身に魔法陣が刻まれていたらしい。
以来、エニツィアの内外で多くの戦争が起こった。規模も地域もばらばら、他国の侵略から市民たちの蜂起まで、ギルデンスはそのほとんどの戦争に参加し、八面六臂の活躍を見せた。貴族家の人間であることも含め、通常であれば軍の中で地位を上げていくはずであったが、彼はそれを固辞した。
成果には褒美を。それはどこの世界にもある原則の一つである。軍はギルデンスの成果を形にするために、一つの称号を作った。
名誉軍人――それが、ギルデンスの立場を説明する単語だ。
名誉! これほど彼に相応しくない言葉があるだろうか。彼が行ってきたのはおぞましい自作自演だ。己のために戦争を作りだし、それに参加する。
この世に悪魔がいるとするならばそれはギルデンスのことに他ならない。
〇
僕がギルデンスに抱いている感情はアシュタヤも知っている。
だから、というわけではないだろうが、翌日の朝、彼女は僕の部屋を訪れた。一緒にレカルタへ向かっていた頃は良くベッドの上で彼女の手を握ったまま時間を過ごしていたものだが、今ではあのときの発作は完全に消えたらしい。
窓から差し込んでくる朝日は防壁の上で燦々と輝いている。ベッドに座ったまま「どうしたの?」と訊ねると彼女は笑顔で答えた。
「昨日、贈り物を渡すの忘れてて」
正面に立つ彼女は、両手に持った何かを自身の身体に隠すように、背中へと回している。
「贈り物?」
「うん、ほら、ニール、……右腕ないでしょ?」
「……そうだね」
切り落とした右腕を発見したのはアシュタヤだとキーンから聞いていただけに胸の奥が重くなる。だが、アシュタヤは顔を綻ばせて、言った。
「不便だと思って、腕、持ってきたの」
「え」胸の奥で重量を増したはずの塊が跳ねる。「ごめん、どういうこと?」
「いらないかもと思ってたけど、昨日、一緒に食事をしてたとき不便そうだったから」
質問の答えになっていない。
小さな恐怖を感じた。アシュタヤが笑顔で腐った僕の右腕を差し出してくるのではないか、とあり得ない想像が頭の中で暴れる。昨夜から頭の中を占拠していたギルデンスの話など吹き飛んでいた。
いやいやいや、と身の毛もよだつ光景を追い出すために頭を振る。まさかアシュタヤがそんなネクロフィリア的性的倒錯を持っているはずがない。彼女は八年前のラ・ウォルホル戦役で死を目の当たりにしていた。死体を見て「慣れている」とは口にしていたが、そんな意味ではないだろう。
「どうしたの?」と声をかけられて、我に返る。目の前に袋があり、ほとんど反射的に悲鳴を上げそうになった。「はい」と手渡されたそれを受け取り、その形と重さに安堵する。
白く、平べったい袋は放り投げても遠くに飛ばないと予想できるくらいに軽かった。僕は口を縛っている赤い紐を片手で解き、中に入っているものを取り出す。
出てきたのは畳まれている黒い布だった。開くとそれが長手袋であることが分かる。肘までのドレスグローブは目にしたことがあったが、肩口にまで届くほど長いものを見るのは初めてだった。絹だろうか、滑らかな手触りがする。
「夏なのに手袋? ……っていうか、これ、片方しかないけど」
僕はもう一度袋の中を漁る。しかし、右手に相当する片方の手袋以外、何も入っていなかった。
「それでいいの。ね、嵌めてみて」
「嵌めろって言ったって、僕には右腕が」
「あるでしょ?」
アシュタヤは僕の右肩甲骨へと手を回す。まるで見えているかのように肩から幽界へと伸びている黒い〈糸〉をなぞった。
「これからはそれが新しい右腕。……本当は白か若草色がいいかなって思ってたんだけど、普段から使うなら変色が気になったから」
アシュタヤの神妙な顔に堪えきれず、僕は噴き出した。どうしてか、笑いが止められない。「なに笑ってるの」と頬を膨らませる彼女に、息も絶え絶えに謝った。
「ごめん」左腕で涙を拭う。「まさかこんないいものを貰えるとは思えなかったんだ」
「それならいいんだけど。……ね、ほら」
促され、僕は〈腕〉を展開する。肩から伸びた〈腕〉を、左手を観察してそれらしく整えた。
「……〈腕〉、黒いのね」
「え」思わず顔を上げる。「見えるの?」
二年半前まで彼女は僕の〈腕〉を見ることはできなかったはずだ。一緒にいる間は僕が〈糸〉を認識する方法を教えていたが、セムークへ到着するまでにその努力は結実しなかった。
驚きに目を瞠ると、彼女はそっと頷く。どこか悔しそうな顔をしていた。
「うっすらと、だけどね。目を細めてもはっきりしない」
「……眼球で見ているわけじゃないから」
「もっと早く、はっきり見えてたらよかったのに」
そうしたらあなたはいなくならなかった、と言いたげに彼女は苦笑する。
それでも、と思った。それでも僕が見ている景色を、朧気とは言え、アシュタヤも目にしている。彼女と共有するものが増えたようで、堪らなく嬉しかった。
照れくささにはにかみながら、僕は〈腕〉を手袋の中へと入れていく。丈が少し長すぎて、左腕と同じ長さでは肩口に布が溜まってしまった。かといって〈腕〉を伸ばすのはどこか風情がなく、半袖を引っ張って隠すことにした。
「ちょっと長かったかな」とアシュタヤは唸る。「……どう?」
頷き、新しい右腕を動かしてみる。
なんだかくすぐったい感触がした。超能力とはあくまで実用的なものに過ぎず、僕が暮らしていた世界ではそもそもサイコキネシスを飾り付けようなんて考えを抱く人はいなかったからだ。
バンザッタ城の上で収穫祭のフィナーレを眺めていたときも感じたが、やはりアシュタヤの超能力の捉え方は僕とは違う。
僕にとって超能力とはあくまで人為的なものだ。人類の幸福を目的として科学によって生み出された力である。
だが、アシュタヤは自身の力を神から与えられた奇跡のように楽しんでいた。おかしな話だ。この国の宗教には明確な神はいない。厳格な一神教の中で生きてきた僕が超能力を奇跡として捉えず、彼女がそうするなんて矛盾も甚だしい。
「まだ慣れないけど、これなら作法もきちんとできそうだ」僕は右手を握ったり、開いたりを繰り返し、顔を上げる。「アシュタヤ、ありがとう。大事にする――」
「ニール」
アシュタヤの目が見開かれている。驚愕、という表現がぴったりくるような表情を隠すかのように、彼女は両手で口を覆っていた。
「〈糸〉の色が」
「〈糸〉?」
首を捻り、肩越しに肩甲骨から伸びている〈糸〉を覗く。その瞬間、声を失った。
美しい若草色の光が揺らいでいる。
何が、と考えることもままならない。
「ニール、手袋取って!」
一も二もなく、指示に従う。右腕を顔の前に掲げ、左手で黒い手袋の先端をそっと引っ張った。するすると手袋が脱げていく。次第に現れていく〈腕〉の色は、かつての〈腕〉の色と同様、若草色をしていた。
まるで〈腕〉の黒が手袋に吸着したみたいに消えている。驚きにどう反応すればいいのか、判断がつかない。狼狽しているとアシュタヤが倒れてくるように覆い被さってきた。互いの鼻が触れ合うほどの距離まで顔が近づき、僕たちはベッドに倒れ込む。
「あなたの言っていたとおり!」アシュタヤの声は弾んでいる。「……ようやく見れた。とても綺麗な、夏の草みたいな色なのね……」
僕は言葉を返せない。何が起こったのか、理解できずにいた。
超能力――それを示す〈糸〉だとか〈腕〉が変色する事例は珍しくはない。紙や布が日に焼けるように、年月を経て次第に色が変わっていったという報告は聞いたことがあった。実際、僕の〈腕〉も二年以上かけて黒く染まってしまっている。
だが、今のように一瞬にして、というのは記憶にない。
唾を飲み込む。自分自身に起こった奇跡がゆっくりと現実感を増していく。僕の好きな色が眼前で揺れている。堪らず両手で彼女を抱きしめた。
〇
ヨムギやマーロゥが帰ってくるまで僕たちはいろんな話をした。
離れていた期間をつなぎ合わせるように。
アシュタヤは王都でどのようなことを学んでいるかを語った。軍人であるため、戦術だとかそういった戦争で役立つ知識が主だったものらしいが、話の内容は他の部分に多くを割かれた。例えば最近は手芸が趣味で、僕に贈ってくれた長手袋も自分で作っただとか、メイトリンで学んだ他の国の言語も勉強を続けている、だとか、だ。彼女は口ずさむように異国の詩を諳んじた。
「夢があるの」とアシュタヤは打ち明けてくる。「ニールはここじゃない、別の世界から来たでしょ? それが羨ましくて、私も知らない世界を見てみたいな、って。……だから、外交官になりたいの」
彼女の話が終わると、今度は僕がこれまで何をしてきたか話すようにせがまれた。戦争の話や貴族を殺した事実は適当とは思えなかったため、胸の内に秘めておくことにする。特に後者は明確な殺人であるため、大きなしこりがあるものの懺悔するのも憚られた。
僕が語ったのはやはりともに過ごした傭兵団のことばかりだった。アシュタヤやベルメイアと一緒に作った料理を食べさせた、だとか、ずっと関わらないようにしていたが、ラ・ウォルホルでの戦いを経て考えが変わった、だとかだ。
ハルイスカでアシュタヤの両親に会ったことももちろん口にした。
「きみの母親は本当に怖い。気が気じゃなかった」
「……嘘、お母様はとても優しいけど」
「たぶんきみにだけだよ。ラニアさまもそう言ってたし」
「お父様が?」
「うん。……あの人は不思議な人だね。こっちを見透かしてるみたいな感じだった」
足して二で割ればアシュタヤに近くなるかも、とは思ったが、彼女の母親を「怖い」と言った手前、そう述べることもできない。僕はハルイスカの出来事を思い出し、話題を変えた。
「そういえば、きみがリスを捕まえた花園にも行ったんだ」
「ああ、あそこね……あれ、でも、どうしてそこが分かったの?」
「管理してるおじさんが教えてくれたんだ。なんか気に入られちゃってね、浴びるほどに茶をごちそうしてもらった」
「ずるい!」アシュタヤは幼い子どものように唇を尖らせる。「あそこのお茶、今まででいちばんおいしかったのに」
「何の動物を捕まえたか、って問題を出されて正解したら花束まで作ってもらったよ。すごい驚いてた」
「私たちが一緒に行ったら腰を抜かしちゃうかもね」
「……落ち着いたら一緒に行こうか。――恋人なら挨拶しておかなきゃだろうし」
「お母様、なんて言うかしら」
「考えたくないな」
僕はそれから、ディータと出会い、転移魔法でアノゴヨに寄ってからバンザッタに来たことを伝えた。アシュタヤはアノゴヨには子どもの頃訪れたきりらしく、羨ましそうにした。
「アノゴヨは光に溢れてて綺麗よね」
「少し落ち着かないけどね。……でも、面白かった。魔法石の正体も分かったし」
「正体?」
「あれ、知らない? たぶん、水棲動物の化石なんだけど」
周知の事実であったのか、アシュタヤは特別に驚きもせず、「言ってなかったっけ」と首を傾げた。当たり前すぎて改めて口に出す必要がなかったのだろう。世紀の大発見のように語った僕に申し訳なくなったのか、彼女はおずおずと頭を下げた。それがより羞恥を駆り立てる。
しばらく話していると無遠慮なノックの音が轟いた。返事を待たずに扉を開けられ、マーロゥが飛び込んでくる。彼は息を切らせて「ずっとここにいたことにしてくれねえか」と頼んできた。理由を聞いたが、彼はしどろもどろにはぐらかすばかりだ。
「まあ、別にいいけどさ。ところで、今までどこに行ってたの?」
「あ? 散歩だよ。バンザッタに来てからまだ日が経ってねえしな」
「ふうん、厩舎の臭いが染みついてるけど、軍部地区に行ったんだ?」
「え、マジか。臭うか?」
「いや、嘘だけど」
「……てめえ!」
なるほど、ヤクバたちがマーロゥで遊んでいるのも納得できた。からかい甲斐あるにも甚だしい。僕とアシュタヤが声を上げて笑うとマーロゥは顔を赤くして僕へと飛びかかってくる。
そのうちにヨムギが帰ってきて、部屋の中は再び喧しくなった。同年代の人間とこうしてはしゃぐのなんて初めてだ。超能力養成課程に通っていた頃、級友たちがいつでも群れていたことに疑問を覚えていたが、確かに悪くない。
しばらくするとヨムギが腹が減ったと喚きだし、僕たちは昼食を摂ることにした。ヨムギに任せるとイルマの店にしか行かないから、「たまには別の店に行こう」と提案したが、マーロゥは「ヨムギの意見でいい」と主張する。かといってアシュタヤの好む店はヨムギには不似合いだ。なし崩し的にイルマの店に決定した。
ヨムギもマーロゥも傭兵でいる間に培ったのか、人見知りしない。性格そのものもそれなりに合うようで、会話は弾んだ。ただ、ヨムギはアシュタヤの敬語がまだ慣れないらしく、話しかけられるたびに落ち着かなさそうに身を捩っているのだけが、なんだかおかしかった。
なんだかずっとこの関係が続いてきたかのようにも思え、僕は微笑む。
――その夜、ペルドール軍の進軍が報告された。
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