90「一度ご挨拶しないと」

 抱きついて涙を流す僕の頭を、アシュタヤは優しく撫でた。あまりの幸福に恥ずかしいと感じる余地もなかった。

 立ち上がる彼女に腕を引かれて、地面から膝を離す。彼女は僕の手を握ったまま、視線を男の方に向け、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます、マーロゥさん。まさか本当に連れてきていただけるとは思いませんでした」


 ああ、そうだった。

 そばに人がいることを思い出し、僕は慌てて涙を拭う。羞恥心が頬へと昇ってくる。熱の塊が耳まで浸透した。


「いや、大したことしてねえです、頭を下げないでくださいよ」


 マーロゥ――キーンが話していた男の名だ。セムークからカンパルツォの旅に同行した元傭兵。なら、彼の雇い主とはカンパルツォやアシュタヤということになるのだろう。つまり、ギルデンスの名を出したのは僕をここに留まらせるための方便だったに違いない。

 木の葉を隠すなら森の中、ということだろうか。

 彼の振る舞いには演技的な部分が多く、気付くことができなかった。

 マーロゥは頭を掻きながら、歩み寄ってくる。彼は照れくさそうにしながら僕へと手を差し伸べた。


「お前が勝ったら、って約束だったけどもういいか。……俺の名前はマーロゥ、今は護衛としてアシュタヤさんについてきてる。お前のことはセイクさんたちから色々聞いてるよ」


 剣胼胝で硬くなっている彼の手を握る。痛いほどの力で握り返されたが、それほど嫌な気分ではなかった。


「僕はニール、……よろしく」

「お前と会ったら一つ言おうと思ってたことがあるんだ」

「……何?」


 警戒と罪悪感で眉を顰める。

 マーロゥが吐き出す言葉など大体の想像がついた。彼が護衛として過ごしていた二年半、その間、アシュタヤは滅多に笑わなくなっていたという。

 彼が吐き出すべきは、アシュタヤの笑顔を奪ったことへの罵倒だ。

 僕は覚悟し、俯きかける。その速度より早く、マーロゥの頭が下がった。


「悪かった」

「え」


 初対面のマーロゥから飛び出た謝罪に反応できない。


「……俺、お前のことを何も知らずに『化け物』って言っちまったんだ。それでアシュタヤさんとかウェンビアノさんに怒られてな。ようやくすっきりした」

「そんなことで謝られても……だいいち、黙ってれば知らなかったし」

「そんなこと、じゃあねえだろ。人をよく知らないまま蔑むのは男のやることじゃねえ」


 彼の目は真剣だった。そんなことで、と再び思う。戦場を回る間に「化け物」は僕の渾名になっている。怒りなど湧くはずもなく、むしろ戸惑いだけが胸の中で浮いていた。マーロゥは僕の言葉を窺うように、頭を下げたまま顔を上げた。

 真面目、というより馬鹿正直な態度がおかしくなり、僕は苦笑しながら意地の悪い質問をする。


「……知ってたら蔑んでもいいの?」

「……まあ、それは」

 アシュタヤも悪戯っぽく笑った。「女の人でも他人を蔑むのはよくないことですよ」

「あ、いや、それは言葉の綾ってやつで」


 本気で狼狽するマーロゥに僕とアシュタヤは声を合わせて笑った。つられたのか、上体を起こしたマーロゥの口元も緩む。


「ね」とアシュタヤはマーロゥに微笑みかけた。「いいひとでしょう?」

「そうっすね」彼は僕を見つめる。「アシュタヤさんが好きになったのも頷ける」

「でしょう?」


 アシュタヤの表情には照れも動揺も一切なかった。自慢げな態度に僕の方が恥ずかしくなる。でも、それを表に出すとさらに恥ずかしい事態になってしまうのではないか、と危惧して顔を引き締めた。

 夏の温度を纏った風が吹く。今し方目覚めたかのような、穏やかな朝の風は草の上を滑り、さざめきを生んだ。


「……不思議だな、お前のことを聞きすぎてて、初めて会った気がしねえんだ」

「それは、なんというか……どうも」

「まあ、俺のことはこれから知ってくれればいい。ニール、お前、アシュタヤさんの元に戻るんだろ?」


 僕はアシュタヤを一瞥する。もはや否定するつもりなどなかった。


「そうだね、そうさせてもらいたい」

「嫌でもそうさせるから」

「……うん、じゃあ、そうする」


 そう答えてから、「あ」と声が漏れた。

 ヨムギのことをすっかり忘れていた。「どうしたの」と隣でアシュタヤが首を傾げている。


「実は連れが、あー、連れっていうか、妹ができたんだ」

「妹?」


 まさか僕の親がこの世界にやってきて小さな子どもを預けた、とは考えたわけはないだろうが、アシュタヤは訝しげに視線を送ってきた。僕は誤解を生まないよう、慎重に言葉を選別する。


「えっと……お世話になった傭兵団の頭領の娘さんなんだけど」

「じゃあ、妹じゃねえだろ、それ」マーロゥの指摘はもっともだ。

「なんというか、家族同然に暮らしてて」

「その人たちもバンザッタに来てるの?」

「いや、他の人たちはラ・ウォルホルに残ってる。その子だけがバンザッタについてきたんだ。転移術士の女の子と馬が合ったっていうのもあるかもしれない」


 やはりあの年齢で転移術士として活躍している人間は少ないのだろう、アシュタヤは「ディアルタさまのこと?」とすぐに思い立ったようだった。僕は首肯し、「まあ、とにかく」と続ける。


「まあ、とにかく、その娘と一緒に来てて……危なっかしい子なんだ。魔法の才能はあるみたいだけど傭兵ってあまり魔法を使えないから教えられる人もいなくて」

「分かった」アシュタヤが胸の前で手を合わせる。「つまり、ニールが戻るとなるとその子が一人になってしまう、って心配なのね?」

「平たく言うと……そうだね。傭兵はやめろって忠告はしたんだけど、本人にそのつもりはないし、今、寝泊まりしているところで一緒の人たちは彼女のことを煙たがっている感じもするし」

「どちらにしてもひとまず会いに行きましょうか。ニールの妹なら一度ご挨拶しないと」

 マーロゥも頷く。「傭兵の中に女を放り込むとろくなことにならないんだよな」


 まるで経験があるような口ぶりに僕は顔を歪める。詳細を聞くにはあまりにも嫌な予感がする話題で、追及する気にはなれなかった。


「今その人は? 傭兵の方々の宿舎にいるの?」

「いや、軍部地区の厩舎で働いてる。イルマの店に連れて行ったら衝撃を受けたみたいでね、傭兵の仕事もないし日銭を稼いでるんだ」

「ああ、イルマさんのお店、久しぶりに行きたいな」

「……一緒に行こう。きっと驚くし、喜ぶよ。イルマ、子どもを産んだんだ」

「え」アシュタヤの表情がぱっと輝いた。「本当に?」

「うん、もう彼女も母親だ」


 アシュタヤは自分のことのように嬉しそうにした。話に入ってこられないマーロゥが焦れったそうに手を叩く。「ほら、早く行きましょうや」と僕の背中を押した彼は、そのまま、アシュタヤに聞こえないような声で囁いてきた。


「なあ、その妹ってかわいいのか?」

「……それ、重要かな」

「重要だろ!」


 熱が入った反論は囁くというにはあまりに大きな声で、アシュタヤは「何が重要なんですか」と目を白黒させている。マーロゥはしどろもどろになり、下手なごまかしをしてから再び僕の耳元に口を寄せた。


「で、どうなんだよ」

「まあ、顔は悪くないけど」

「胸と尻は?」

「……すごいな、きみは。興味の示し方が露骨だ」

「お前はアシュタヤさんがいるから別にいいだろうが。で、どうなんだよ」

「まじまじと見たことないけど……小さくはないよ」


 それを聞いた途端、マーロゥは「そうかそうか」と鼻を膨らませた。何を考えているのか、その表情が雄弁に語っている。

 彼も元とはいえ傭兵だ。傭兵は――というのは少しずるいかもしれないけど、傭兵の多くは好色である。ヤクバやセイクも娼館の話ばかりをしていた。その二人と付き合いがあるのなら、宜なるかな、彼が女性を求めるのは疑問にすらならない。

 なるほど、頭領たちは僕を迎えたとき、こんな気持ちだったのかもしれない。小さく嘆息し、マーロゥに忠告した。


「期待するのは勝手だけど、彼女、昔襲ってきた男を噛み殺したんだよね」

「へ」

「だから、おいそれと近づかない方がいいよ」


 襲われる、と噛み殺す、が連鎖的に反応し、マーロゥはかつての僕と同じ想像をしたようだ。下腹部に圧力とむず痒さを感じたのか、腰が引けている。

 アシュタヤは立ち止まった彼の様子を不思議そうに眺めていた。どんな話をしてたのか、と訊ねられる前に話題を変えることにする。とってつけたような「そういえば」を駆使し、僕は伝え忘れていたことを彼女に伝える。


「そういえば、アシュタヤ、髪、短いのも似合ってるね」


 たったそれだけの言葉でアシュタヤの頬がわずかに紅潮した。


     〇


 僕たちは時計回りに南へと進み、軍部地区、ヨムギの働いている厩舎を目指している。

 道中でマーロゥはいかにセイクにしごかれているか、だとか、先ほどの手合わせはどうだったか、だとかを過剰な身振り手振りを用いて語った。セイクとの手合わせは僕も経験があり、彼が時折使う意地汚い技――向かい合っているときにカンパルツォに挨拶する振りなどだ――についての文句で意気投合することになった。

 反対に後者、先ほどの手合わせで負けたのは手を抜いていたからだ、という主張には何一つ賛成できなかった。それが事実だったとしても、彼が僕に当てたのは傷にもならない投石だけだ。攻撃は躱されていたことは認めるが、マーロゥは近づくことすらできなかった。

 そう指摘すると彼は眉間に皺を寄せて反駁してきた。


「それは手を抜いてたからだっつうの」

「本気でやったって変わらないよ」

「よしわかった。後で証明してやるよ」


 アシュタヤは微笑むばかりで何も言わない。僕たちは堂々巡りの会話を恥ずかしげもなく何度も繰り返した。

 そのやりとりにも飽き、別の話題に移ったところで軍部地区が見えてくる。

 ヨムギの働いている厩舎は軍部地区と東部農業地帯とのちょうど境目あたりにある。ひしめいている数十頭の軍馬の嘶きが幾重にも重なり、離れていても時折耳に届いた。

 近づくにつれ、獣の臭いが強くなる。その臭いは嫌いではなかった。僕が初めて人間以外の哺乳類に触れたのはこの世界に来てから――馬が最初だ。だから、馬には特別な愛着を持っていた。

 厩舎の入り口には時間を持て余したかのように煙草をふかす管理人がいる。頭髪のない男は僕を発見して眉をぴくりと震わせ、その後でアシュタヤの姿を確認したのだろう、慌てて煙草をもみ消した。


「すみません」僕は訊ねる。「ヨムギは中ですか?」

「ああ、あいつなら中で働いている……アシュタヤさま、戻られていたんですか」

「ええ、いつも馬のお世話、ありがとうございます」

「その、そいつとはどういう」

「恋人です。後ろの彼は護衛で……あ、内緒ですよ」


 管理人はアシュタヤの言葉を冗談と受け取ったのか、本気と受け取ったのか、笑みを引き攣らせた。「ヨムギを連れて行くことになっても構わないか」と訊ねると、アシュタヤの手前か、拒否しない。僕たちは礼を言って厩舎へと入っていく。

 濃密な生き物の臭いが漂う中、僕は隣を歩くアシュタヤに、おずおずと話しかけた。


「その、アシュタヤ、恋人って」

「だって、王都に着いたら返事をするって約束してたでしょ、城の上で」

「そうだったかな」僕の意図とは少し違う気がする。「でも、言ってもいいの?」

「内緒って伝えたじゃない」

「そうだけど、ほら人質にされたりとか」

「そのときは助けてね」


 あっけらかんと振る舞うアシュタヤに呆れつつ、喜びも感じていた。マーロゥが茶化してこないかと心配になり一瞥したが、彼は黙ったまま正面を見つめている。どこか戦いに赴くような凜々しい雰囲気があり、嫌な予感がした。

 彼はヨムギに対してどれだけ期待を抱いているのだろう。「迂闊に手を出したら噛み殺されるぞ」と脅していたのに、気にしている様子はなかった。

 扉を通り左右に並んだ馬たちを観察しながら適当に進んでいく。軍馬というだけあって、飼い葉を食んでいる馬はどれも身体が大きく、壮観だった。

 どこから人の声がして、そちらの方向に向き直ったが、声の主は柵の向こうで馬の身体を洗っていて声は届きそうにない。どこかに暇そうな飼育員がいないものか、と見渡したとき、ヨムギの貫くような声が響いた。


「おい、この餌はどこに持って行くんだ?」

「二十番から二十五番だ!」


 僕たちの正面、通路を隔てた先にその数字が列している。手押し車の車輪の回転する音が通路から響いてきていた。マーロゥが唾を飲み込む。

 飼い葉が積まれた手押し車が頭を出し、次にヨムギが現れた。まだその操作に慣れないのか、バランスを崩しそうになり、堪えているのが分かる。四苦八苦しながら顔を上げた彼女の瞳に僕たちが映った。


「……ん、ニール、ここで何してる? なんだ、そいつら――」


 ヨムギが不審げな目で僕の両脇に経つアシュタヤとマーロゥを睨む。この場で今までの経緯を説明するのもどうかと思い、僕は場所を移すことを提案しようと口を開く。

 右にいたマーロゥが膝から崩れ落ちたのはそのときだった。


「……は?」


 その様子に目を疑ったのもあるが、僕の「は?」が飛び出したのは彼が何かぶつぶつと呟いていたからだ。ヨムギに向かってお辞儀をしていたアシュタヤも当惑を目にマーロゥの名前を呼んでいる。

 何を喋っているのだ?

 耳を澄ませて、それから後悔した。

 なんてことはない、彼の口から漏れているのは「今まで生きてきた中でいつがいちばんツイていたんだろう」というとりとめのないことだった。


 マーロゥは歯を食いしばって立ち上がった。僕は次に何が起こるか予測できたため、〈腕〉を展開する。

 彼が地面を蹴った瞬間、僕は〈腕〉を伸ばし、捕まえた。浮き上がった足が空中でばたばたと動く。それにも関わらず、マーロゥは僕のことを振り返りもしなかった。

「あの!」と彼は切羽詰まったような声をヨムギへと投げかける。ヨムギは己の経験から彼の身体を浮き上がらせているのが僕だと気付いたようで、空中でもがいているマーロゥを一瞥した後、「こいつはなんだ?」と冷たく訊ねた。


「紹介するよ、ヨムギ」僕は右にいるアシュタヤに手を向ける。「彼女はアシュタヤ。ほら、きみも聞いただろ?」

「ああ、お前が女々しく名前を呼んでた、例の」

「はじめまして、ヨムギさん」


 アシュタヤが恭しく頭を下げたが、ヨムギはそんなことより吊られたマーロゥが何者なのか知りたがっているようだった。頭上から、「結婚してくれ」だとか「付き合ってくれ」だとかくだらない言葉が聞こえてくる。アシュタヤもようやく状況が掴めたらしく、小さく噴き出した。


「で、この浮いてるのとはさっき知り合ったんだ。気にしなくていいよ」

「そ、そうか」


 初対面でこんな扱い方をしたのはヤクバやセイク、レクシナと出会ったとき以来だ。

 彼らに毒されたのか、それとも元々こういった性格なのか、どちらでもいいが、とにかく僕は空中でマーロゥを握りしめる。そこでようやく「痛えよ!」と愛の言葉以外の叫びが聞こえた。


「さっきここの管理人に許可をもらったんだ。とりあえず話ができる場所に行こう。……それと、マーロゥ、落ち着いた?」


 マーロゥは勢いよく首を縦に振り、早く離せと喚いた。〈腕〉を畳んだ瞬間、身体が落下する。彼はそのわずかな時間で体勢を整え、見事に着地した。


「何すんだよ! 今、大事なとこじゃねえか!」

「きみが喋るとすごいややこしいことになると思ったから……とりあえずヨムギ、外で待ってるよ」

「あ、ああ」


 彼女は律儀に馬の餌桶に飼い葉を放り込んだ後、手押し車を押して通路を逆方向へ戻っていった。「行こう」とアシュタヤに促すと彼女は自嘲的な笑みで頷いた。


「どうしたの?」

「ちょっと嫉妬しちゃって。大事にしてるんだな、って思ったの」

「……いや、どっちかというとお世話になった傭兵団の人たちのためかな。僕一人になった途端、悪い虫がついたら何言われるか分からないからね」

「そういうことにしておいてあげる」


 アシュタヤは意味ありげな視線を向けて、僕に手を差し出す。

 やはり、勝てないな。

 僕は彼女の手を取り、それから〈腕〉を展開して背中から約一メートルの場所に壁を作った。飛びかかってきたマーロゥが弾き返されて呻き声を上げた。

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