75「ぴったりの服」

 傭兵をやっていると見知らぬ人から名を呼ばれることは珍しくなくなる。特に、僕の名は方々に轟いていて、戦場に身を置くものならば知らぬ者はいない。

 けれど、面識のない年下の女の子から名前を呼ばれるのは初めての経験だった。

 僕は少女を観察する。

 傭兵には到底見えない。ヨムギよりも小さく華奢で、肌には柔らかさがあり、戦いに出るには脆弱に感じた。もしかしたら「魔法持ち」かもしれないが、魔法を使える傭兵などそうはいない。魔法は独学で極めるにはあまりに途方もなく、傭兵では学習機会に恵まれないからだ。


 頭領たちは僕の名前など口にしていなかったのだろう、駆け寄ってくる彼女を黙って見つめていた。ヨムギですら驚きで毒気を抜かれたのか、怒りを忘れているかのようだ。


「はじめまして!」と明るく、高い声で彼女は言った。「わたしはディアルタ、ディータでいいよ、よろしくね!」


 ディータは小首を傾げ、左手を差し出してくる。握手を求めているのだろうか。躊躇していると、「どうしたの」と言わんばかりに腕を振って催促され、僕は彼女の手を握った。

 彼女の手には体温を感じなかった。

 アシュタヤの手はどことなくひんやりとしていたし、寝ているヨムギを引っ張って起こしたときは命が燃えているような熱さを感じたものだが、ディータは違う。握り返してくる感触はあったが、それだけだった。


「えっと、どうして僕の名前を?」

「やだなあ、だって有名じゃない。金髪に青い目、隻腕の傭兵なんて海を渡ってもいるかどうか分からないでしょ?」

「それはそうかも……ええと、きみは軍人? どうしてこんなところに」


 若い、というよりも小さな女の子が軍人となるのは稀だが、例はある。アシュタヤもそうだし、溢れるような魔力を見出されて教育されている話も耳にしたことがあった。

 しかし、ディータはぶんぶんと首を横に振る。


「違うよ! お仕事で来たのはそうなんだけど、軍人じゃないの。もちろん、傭兵でもないわよ」

「じゃあ、きみは一体?」

「お世話になってる貴族の人に言われて来たんだ。……わたし」と彼女はそこで一度言葉を句切った。焦れったくなるほどの間を開けてから、自慢げに胸を張る。「転移術士なの」


 静寂の波が彼女を中心に広がった。ヨムギとディータを微笑ましく眺めていた観衆も呆然としている。「転移術士」と「嘘だろ」という言葉がいくつも、凪いだ人の海の水面にぽつぽつと浮かんだ。

 気をよくしたのか、ディータは「どう、驚いた?」と無邪気に飛び跳ねている。


 転移術士とは国家的な要人である。

 これだけ大きな国土を誇るエニツィアでも転移術士は一握りしかいない。ましてや人を移動させられる転移術士となると、数えるほど、だ。そして、国土が広大であるからこそ、エニツィアは新たな転移術士が出現することを待ち望んでいた。喉から手が出る、と表現してもいい。小規模ではあるが、育成を目的としたプロジェクトもあるほどだった。


 虚言、と断ずることは容易ではある。

 偏見の定規を用いて、こんな小さな女の子が転移術士のわけがない、と冷たくあしらうことに何の困難があるだろうか。少なくとも僕以外の、傭兵団の連中だとか、周囲にいた軍人とその家族たちだとか、周囲にいた人々は半信半疑の段階まで到達してすらいないように見えた。彼女の言葉を咀嚼した上で呆れの表情をしている者さえいる。

 しかし――しかし、だ。

 僕はディータの言葉を疑いもなく受け入れていた。


 言語的に理由を説明しろと言われても不可能だ。ほとんど直感に近い。彼女が「転移術士」と口にしたときの雰囲気としか言いようがなかった。

 転移術士を名乗るという行為、その意味と責任。彼女の表情にはそれを理解し、なお誇るだけの覚悟と習慣性があるように感じられた。


「ねえ、レプリカ、びっくりした?」

「……まあ、そうだね。僕の想像の中にいる転移術士ってのは顔の表面がほとんど白い髭で覆われているような、仙人みたいなのだし」

「じゃあ、信じてくれてはいるんだ」ディータはにんまりと口角を上げ、振り返る。「ねえ、ヨムギは? 驚いた?」


 ヨムギは虚を突かれたかのような顔で、少しだけ考えるような素振りをする。とはいえ、彼女の気は短い。沈思黙考などやっていられるか、といったような具合で眉間に皺を寄せた。


「なんだ、その転移術士って」

「へ?」素っ頓狂なディータの声が響く。

「おれは魔法のことなんて分かんないんだ。そんなことより、そうだ、まずレプリカを殴らせろ」

 ディータはヨムギの言葉に「え、でも」と戸惑いを露わにした。「ヨムギ、魔力、結構あるのに魔法知らないってどういうこと?」

「馬鹿にするな、魔法くらい知ってる。なんかむにゃむにゃ言って、火とか水とか出すやつだろ」

「むにゃむにゃ、って……」


 ディータは絶句し、一度、僕の顔を窺った。ヨムギに魔法の素質があることは知っていたが、それはあくまで頭領からの伝聞に過ぎない。肩を竦めると、ディータは大きな声を上げて笑い始めた。


「なにそれ、ヨムギ、面白い」

「……おい、馬鹿にしてるのか」


 ヨムギの怒りの矛先がディータへと向かう。きゃはは、と年相応の声で笑いながら逃げるディータを追いかけ、ヨムギが地面を蹴った。運動能力には大きな差があるらしく、ディータは人垣の向こうに消える前に捕まり、羽交い締めにされる。しかし、彼女は痛い痛い、と呻きながらも笑うことを辞めなかった。

 頭領は二人が戯れる様子を見て、目を細めている。


 親心、なのだろう。

 ヨムギの周囲には同年代、同性の友人などいなかった。それだけに頭領はこの出会いが余程嬉しかったに違いない。人にとって、ときに同性の友人は愛する異性よりも重要になる。歳が近ければ、さらに良い。

 しばらく微笑みを浮かべる頭領を眺めていると、彼はその視線に気付き、小さく咳払いをした。わざとらしく表情を引き締め、「ヨムギ、怪我させたらぶん殴るからな」と低い声で怒鳴った。


「ごまかす必要、ないんじゃないんですか」

「うるせえな、レプリカ。お前も怪我させる前に止めてこい」

「……そうします」


 それ以上茶化すと今度はこちらに拳骨が飛んでくるのではないか、と恐れ、僕は通りの中心で喚く二人の下へと歩み寄る。ヨムギのことだ、言葉で注意しても聞かないだろう。〈腕〉を伸ばし、彼女の胴体を掴んだ。

 徐々に浮遊していくヨムギは狼狽と同時に僕の仕業だと気付いたようだった。首を捻って、「おい、レプリカ、やめろ!」とわめき声を上げた。声色に若干の恐怖が混ざっていて、やはりおかしくなる。


「それ以上しないんだったら離すよ」

「分かった、分かったから!」


〈腕〉を離すと、ヨムギは何とか着地し、盛大な溜息を吐いた。持ち上げられる感覚が気に入らないのか、脇腹の辺りをむず痒そうに擦っている。

 僕は地面に大の字に寝ているディータに左手を差し伸べる。満足そうに顔を輝かせている彼女は僕の手を掴んで立ち上がった。


「ええと、ディータ、ヨムギがごめん」

「ううん、別に。こういうの結構久しぶりだし、楽しかったからいいよ」

「それならいいけど……ああ、お詫びと言ったらなんだけど」僕はふと思いつき、背嚢に手を回す。「これ、あげるよ」


 僕は花束から一輪の花を抜き、ディータに差し出した。彼女は白い花を見て「ふうん」と唸り、くすぐったそうに笑みを漏らした。


「随分、気障ね」

「そんなつもりはないよ。気障だったら全部あげるし」

「それもそうね。……あ、ねえ、レプリカ、もう一輪くれない? その赤いの」

「別にいいけど」


 花束から赤い花を抜き、ディータへと手渡す。彼女はそれを持ってヨムギへと近づいていった。


「ねえ、ヨムギ、これあげる」

「なんだ、これ」

「花」

「花くらい知ってる!」とヨムギは鼻息を漏らした。「こんな食えないものを渡してなんのつもりだ」

 呆れて力が抜けそうになる。「ヨムギ、きみは花を愛でるくらいの落ち着きがあった方がいい、ってことだよ」

「……なんだと? おい、そうなのか?」

「違うってば、レプリカ、茶化さないでよ」ディータはヨムギの手を掴み、花を無理矢理握らせた。「これは友達のしるし。絶対また会おうね。ちゃんと魔法の練習、しなきゃだめだよ」


 ディータは快活にそう言って、ぱっとヨムギの手を離した。彼女は僕と戸惑うヨムギに手を振ってから人垣の向こうへと消えていく。騒ぎの核がいなくなったことで周囲には徐々に元の喧噪が取り戻されていった。

 立ち尽くすヨムギは不思議そうに自分の手にある一輪の花を見つめている。


「なあ、レプリカ」

「どうしたの?」

「……友達、ってなんだ? 仲間と何が違う?」

「そうだなあ」


 僕はしばらく考え、頭領の言葉を思い出しながら訊ねる。


「ヨムギ、きみはディータのことをどう思った?」

「いけ好かないやつだ。うざったいし、偉そうだし」

「じゃあ、もう二度と会いたくないんだ?」

「いや、そこまでは言ってないだろ。腹は立つけど、会ってやってもいい」

「それならもう、きっときみとあの子は友達じゃないかな。オヤジさんがそう言ってたよ」

「……よくわからん。仲間との違いも」

「それはこれからゆっくり確かめて行けばいいんじゃない?」


 僕の返答は彼女が求める答えではなかったに違いない、ヨムギは不服そうに眉を顰める。彼女はじっと花を見つめ、少しだけ心配そうに呟いた。


「もう一つ聞くけど、この花が枯れたら友達ではなくなるのか?」

「そのときは今度はきみから何か贈ればいいんじゃないかな」


     〇


 僕とヨムギは連れだって傭兵団の宿舎へと戻った。軍人の居住地区というだけあって華美な装飾が一切ない内装だ。二階建ての一階部分にキッチンやダイニング、二階に大部屋の寝室があるという造りだった。傭兵団は夜に灯りをつけるという文化を持っていないため、室内は薄暗い。

 城での暮らしを体験したことにある僕にとっては質実剛健、というよりも簡素、という感想の方が強かったが、傭兵団の面々にとってはそれでもとびきり上等な施設のようだ。地面の上と比べると硬いベッドも雲のような柔らかさへと変わるらしい。労働の疲れも相まって既にいびきをかいている者もいた。


 僕が割り当てられたのは端のベッドだった。隣では若い傭兵が魔法石を水につけたり持ち上げたりして遊んでいる。オレンジ色の燐光が緩慢な明滅を繰り返す中、僕は「話があります」と切り出した。


「話?」と起きている傭兵たちが繰り返す。「なんだよ、改まって」

「……言ってみろ」


 頭領の声色は、半ば僕の言葉を知っているような調子だった。促された僕は頷き、口の中で言葉を咀嚼してから、続けた。


「僕はここで皆さんと別れ、バンザッタへと向かいます。早ければ明日にでも出発するでしょう」


「え」と暗闇に声が浮いた。女の声だからか、ヨムギの声がもっとも大きく聞こえた。

 ぽちゃん、と魔法石が器に落ちる音が響き、じわじわと光が染み出す。室内に橙色の光が広がっていく。


「実は今朝、ハルイスカで聞いたんですが、ペルドールが攻めてくるのではないか、という噂があるらしいんです。……バンザッタは僕の『故郷』だ。できればこの手で守りたい、そう思っています」

「ほう」


 頭領の顔を光が舐める。普段は明るい彼の表情も引き締まっていた。


「だから、ここで、皆さんとはお別れになります。……今までお世話になりました。もし皆さんがいなかったら僕はどうなっていたか分かりません。本当に感謝しています」


 ずっと邪険な態度をとっていたけれど、嘘のつもりはなかった。僕が勝手に壁を作っていただけで、彼らはいつでも仲間と思ってくれていたに違いない。

 星空の下で料理を作ったときのことをふと思い出す。

 彼らは僕にせがみ、何度も料理を作らせていた。あのとき、僕は利用されているのだと思っていたが、間違いだった。彼らは僕を利用してわずかな幸福を得ようとしていたのではない、わずかな幸福を得るために僕を頼りにしていたのだ。

 言葉にするとそう違いはないが、その些細な違いこそが、些細な違いに気付けたことが僕にとって素晴らしい教訓だった。


 傭兵たちは口々に声を発する。「おいおい、嘘だろ、レプリカ」と狼狽する者がいれば、「そういうこともあるか」と納得する者もいる。だが、そのほとんどが傭兵には別れがつきものであることを知っていて、僕を引き留めようとした人は少なかった。


「……寂しくなるな」頭領は静かに目を瞑る。「あの雪山の麓でお前に会えてよかったよ」

「ええ、僕もそう思います。……それで、ここからは提案なんですが」

「提案?」

「オヤジさん、みんなを連れて、僕と一緒にバンザッタへ行くつもりはありませんか?」


 薄明かりの中にふわりと僕の声が浮いた。

 傭兵たちはその意味を掴めていない。大半が「どういうことだ?」と互いの顔を見合っていた。

 かつて僕は頭領に「本当の強さは戦いの中にはない」と言った。

 きっと頭領自身、同じようなことを考えていたはずだ。だから今、こうやって戦いではない労働に仲間たちを参加させている。


「バンザッタなら働くための仕組みが整っています。もし、安全な労働を求めていないなら今までのように戦うことで生計を立ててもいい。あそこには自警団もある。この傭兵団はなくなるかもしれないけど、みんなで一緒に住めば関係性は変わらない」

「でもよ、俺たち、まともに働いたことなんてないぜ」

「初めから働いてた人なんていないですよ」


 僕は一人ずつ名前を挙げて言葉をかけていく。


「――さんは手先が器用だから職人になれるかもしれない。――さんは僕が料理を作るとき、手伝ってくれましたよね? 初めは見習いからだろうけど、料理人なんて向いてるかもしれない。――さんは愛想が良くて声が大きいから商売人がよく似合う。――さんは身体が大きくて力が強いから農作業をすればいろんな人が喜ぶでしょう」

「おいおい、レプリカ、随分簡単に言うけどよ、今さらそんなこと、できるかよ」

「できますよ」根拠はなかったが、自信はあった。「もし、自分には向いていないと思ったら別の仕事をすればいいんです。傭兵しかやってられないなら、それは残念だけど、それでもいずれ起きる戦争に参加する選択肢だって残されている」


 そのとき、「ちょっと待て!」と声が響いた。窓際のベッドに腰掛けていた男が立ち上がっている。この傭兵団の中でもっとも古株で、頭領の補佐役として動いている彼は落ち着き払った声で詰め寄ってきた。


「レプリカ、お前はそれっぽく話してるけど、何の証拠があって言ってるんだ? お前の話が正しいかも分からねえ。傭兵団としてここでつるんでるうちは過去なんて気にしねえ。けど、これ以降は話が違う」


 僕の方に傾きかけていた流れが引き戻される。この傭兵団にいる人たちは皆、レカルタの周辺で暮らしていた人間だ。傭兵として戦いに出るのも北か東が多い。最南部に位置するバンザッタに訪れたことのある人間などいないだろう。

 彼の言うことに間違いはない。僕は「他の仕事をしろ」と言った瞬間に、傭兵団の外に立っている。彼らに話を聞いてもらうには相応の言葉が必要だった。

 一瞬、躊躇したが、もう迷いはなかった。


「……皆さん、僕がなぜ、『化け物』と呼ばれているかご存じですよね。僕が『雷獣』フーラァタを殺したからだ。あれは、バンザッタからレカルタに向かう途中の出来事です。……そのとき、僕は貴族の護衛として働いていました」


 ざわ、と室内の空気が動いた。「貴族の護衛?」と戸惑う声が広がる。

 当然だった。貴族の護衛という仕事は本来出自のはっきりとした人間しか就くことができない。規則こそないものの、代々エニツィア軍に従事していた家系でなければならない、という慣習が存在する。


「僕が護衛していたカンパルツォ伯爵は現在、レカルタで国政に携わっていますが、彼の紹介で現領主ツルーブ・カクロさまとも面識があります。街の有力者である職業斡旋所との所長とも懇意にしていました。嘘だと思うなら一緒にラニア伯爵に確認してもいいです。きっとあの方なら時間を割いてくれるでしょう」

「……本当だろうな」

「こんな嘘は言いません。……まあ、僕の言ったとおりになるか、それは皆さんの努力次第ですけど」


 人は老いる。

 今、どれだけ大きな剣を振っていても十年、二十年と経つうちにその剣は単なる重りへと変わってしまうだろう。誰にも戦い続けることなど出来はしないのだ。いつか、決断を迫られる時が来る。

 戦いの中で生き、道ばたで死ぬ、などというのはこの世界では珍しいことではない。生き続けるために人は肉体への敗北を認めなければならないのである。

 補佐役の男はそれを重々承知しているようだった。彼の顔にも皺が刻まれ始めていて、衰えを自覚しているに違いなく、静かに頭領へと視線を向けた。


「オヤジ、どうする」

「……レプリカの過去は置いておくことにしても、そうだな、ずっと考えていたことでもある。傭兵はともかく、盗賊なんていつまでもやっていられないからな」

「オヤジさん」

「だが、レプリカ」薄明かりの中で辛うじて見える頭領の表情には、冗談の色合いは含まれていなかった。「お前と一緒にバンザッタへは行けない」


 ……え?

 思考が真っ白に弾ける。

 納得、してくれていたんじゃないのか? だから、こうやって働いてたのではないのか。以前話したときだって拒否の意志は示していなかったじゃないか。

 僕、か? 僕のせいなのか? 今まで貴族の護衛だったことを隠し、皆を仲間だと認めてこなかったから?

 僕がいるから、バンザッタへは行かないということなのか。

 落胆と絶望が胸の奥で針を形成していく。傭兵団の面々すら頭領に疑問の声をぶつけている。自虐的な思考が視界を覆おうとしたとき、頭領は頬を緩めた。


「なあ、レプリカ、ここの労働を最後までできないような人間が新しい生き方を始められると思うか?」

「――え?」

「お前らも勘違いするなよ。バンザッタには行く。だが、ここで働くっつうことを学んでからだ!」


 そりゃないぜ、と誰かが言った。

 胸の奥の黒く硬い塊が、湯に溶けるようにほぐれていった。じんわりと暖かな喜びを感じる。頭領は僕の忠告を対等な人間からの言葉として受け取ってくれていたのだ。それが堪らなく嬉しかった。


「ということで、レプリカ、ここでお前とは一旦お別れだ。……本当に貴族の護衛だったなら、バンザッタで会ったとき一杯奢れよ。金、あるんだろう?」

「一杯と言わず、浴びるだけ飲んでも構いませんよ」


 乾杯、という言葉を思い出す。

 今なら、この国の乾杯、「友達になろう」を、心から言えるだろう。止まっていた時間が再び動き出すような感覚がした。胸の内に広がる柔らかな感触に目を瞑っていると、頭領が「ところで」と端のベッドで膝を抱えていたヨムギを呼んだ。


「……なんだよ、オヤジ」

「お前はどうするんだ?」

「え、お、おれ?」と彼女は泡を食う。「どうするって……?」

「お前はレプリカと一緒に、先にバンザッタに向かうつもりはないか?」


 まったく予想外の言葉だったのだろう、ヨムギはひどく狼狽えた。「命令じゃないぞ」と頭領が補足したが、彼女の耳に入っているか、定かではない。


「なあ、ヨムギ。お前も今日、分かったろう? 外の人間に『魔法の才能がある』と言われ、友達もできた。普通の格好をしてどう思った? 軍人になるならそれでもいい。どっかの店で給仕になって俺たちを迎えるのもいい。だが、一度、俺たち家族から離れて違う視点から世界を見てみないか?」

「……オヤジ、どうしてそんなこと言うんだ! おれが、おれが邪魔なのか……?」

「邪魔なわけないだろう、馬鹿を言うな」

「じゃあ、どうして」


 頭領はこの傭兵団のことを「家族」と、そう言った。

 きっと彼は真剣にヨムギの未来を心配しているに違いない。彼女は礼儀も作法も知らない。軍人になると決めてレカルタに赴いたというのに数日で逃げ出す始末だ。他の皆と違って彼女は幼少の時から傭兵団の一員として暮らし、家族に甘え続けてきた。

 補佐役の男も頭領の言葉に頷く。


「ヨムギ、俺たちは皆、お前のことを愛している。だからオヤジもこう言っているんだ。……傭兵だとか盗賊の汚い服じゃ歩けない道もある。お前にぴったりの服を探してみないか?」

「……みんな、おれは、おれは……」


 ヨムギは嫌だ、とも、そうする、とも言わなかった。彼女にとっては家族と離れていたあの数日間は辛いものだったのだろう。しかし、おそらく、自分で決めたことから逃げ出した負い目もある。はっきりとした答えを出そうとはしなかった。

 頭領は穏やかな笑みを湛えて、光を消すように指示した。僕の隣の男が慌てて水の入った皿から魔法石を取り出す。濡れた魔法石はしばらくの間燐光を放ち続けていたが、徐々に光を失っていった。

 窓から入ってくる暗闇は焚き火の明かりに薄められていたけれど、表情を覆い隠すには十分なほどだった。沈黙の訪れた部屋の中に呑気ないびきが響いている。


「まあ、少ないが時間は残されてる。お前がどんな決断をしても俺たちは納得するぞ」


 頭領がぽつりと呟いた言葉は目を閉じてもずっとそこに漂っていた。

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