70「頼む」〈ラ・ウォルホル攻城戦2〉

 様子がおかしい。

 男までの距離は約三十メートルほど、敵であるならば何かしらの行動を起こすべき距離に到達していた。だが、男は項垂れ、頭頂部をこちらへと向けたまま固まっており、動き出す気配はまるでない。

 不穏なものを感じ、立ち止まると、後ろをついてきていた五人の騎兵隊もぴたりと馬を止めた。僕が目を凝らすよりも先に左にいる一人が「あれは」と声を上げる。いちばんそばにいた騎兵が「レプリカ」と僕を窺ってきた。


「……エニツィア軍人、ですかね」

「傍目から見たら、そうだな。だが、偽装の線もある」


 騎兵はそう口にしたものの、思いとは裏腹な言葉であるのは明白だった。震えた声からは怒りのにおいがしている。

 僕は一歩、男へと近づく。

 エニツィアの紋章が入ったローブを身に纏っている男はぴくりとも動かない。

 男には多くの異常があった。ローブは泥と血に汚れ、足を硬く縛られている。手が後ろに回されているのを見ると腕も拘束されているのかもしれない。

 拷問、という単語が頭に浮かんだ。暗い牢獄の中で殴打される長い時間を想起し、口の中に苦い唾が沸く。


「確かめましょう」


 そのまま歩を進め、僕と騎兵隊の面々はおよそ十メートル、〈腕〉が届く位置まで歩み寄った。周囲の地面を叩いてみても陥没するような感触はない。すぐに罠だと判断できるものはなかったが、それ以上接近するのも憚られ、僕はその位置から〈腕〉を伸ばした。

 男の頭を掴み、そっと顔をこちらへと向ける。

 その瞬間、身が竦んだ。

 男の顔に、ではない。確かに彼の顔には目を背けたくなるような拷問の痕跡があったが、それ以上に僕の背筋を硬直させたのは騎兵の叫び声だった。思わず後ろを振り返ると、そばにいた騎兵の右腕が上がっていた。手には鞭が握られている。まずい、と直感が働いた。


「待ってください!」


 僕は男の頭から〈腕〉を離し、駆け出そうとしていた馬を咄嗟に捕まえる。馬が蹴った土が高く舞い上がる。衝撃が〈腕〉に伝わる。

 騎兵は前に進んでいないことに気がついたのか、大きな舌打ちをしてもう一度馬の尻を鞭で叩いた。ぐぐ、と圧力がかかる。僕はもう一度「待ってください!」と叫んだ。

 僕の力のあらましは伝わっているのだろう、彼はそこでようやく平静を取り戻した。肩を大きく震わせながら僕の方へと視線を向けてくる。彼は興奮を押し殺した声で呻いた。


「……レプリカ」

「……知り合い、ですか?」

「あれは、あれは、俺の友人だ。ラ・ウォルホルが落とされたとき、逃げ遅れた友人なんだ! ……頼む、レプリカ、行かせてくれ」


 僕は彼の友人だという男を確認するふりをして、顔を背けた。それ以上彼の表情を目にしていたら、続く言葉を吐き出せそうになかった。


「近づかないでください」と僕は努めて冷たい声を出す。「これは明らかに罠です」

「罠でも!」と騎兵は声を上げたが、軍人としての矜恃なのだろう、それ以降の言葉は飲み込んだ。彼は奥歯が割れるのではないかというほどに歯を食いしばり、細く長い息を吐き出す。「……ただの見せしめ、ということは考えられないか」

「あなただったら勝ち目のない戦いの前に相手を挑発しようと思いますか?」

「そう、だな。……ただ、レプリカ、一ついいか」


 なんでしょう、と訊き返す前に騎兵は続ける。


「どうにかして……あいつの生死を」


 調べられないか、と騎兵は嘆願するように頭を下げた。僕は〈腕〉を伸ばし、項垂れた男の首に触れる。弱々しいが、脈はあった。しかし、そのまま伝えるべきかどうか、悩む。戦場において死人よりも怪我人の方が厄介なのは常識だ。


「調べる前に――」と嘘を吐く。「二つ、約束してくれますか」

「……なんだ? 後ろが追いついてくる前に頼む」


 僕は後ろから追ってくる本隊に目を向ける。引き離してはいたが、距離は縮まってきていた。確かに彼の言うとおり、あの方面総監が追いついてきたらまた訳の分からない事態に陥ってしまうだろう。素早く用を済ませるべきだ。


「まず一つ、もし生きていたとしてもすぐに彼を助けようとしないでください。理由は言わずとも分かっていますよね?」

「……分かった。しかし、お前が持つような――自分の怪我を治癒する力というものでは、他人の傷を治せないものなのか」

「僕の力は他人に対してあまり強く働きません。慰め程度には効くでしょうが」

「そうか、やはりそうなのか……」

「話を進めましょう。もう一つですが、彼が生きていても死んでいても後ろの連中が触れないよう、知らせに行ってください。これ以上近づけば何らかの罠が発動する可能性もある。阻害魔法があったとしても、です」


 その騎兵にとってはきっと事実上の死亡通告だったに違いない。彼の表情はあからさまに歪んでいた。その顔に、僕の心が揺れる。息苦しさが爆発的に広がる。首を鷲づかみにされているような、不快な感触があった。

 十メートル先で放置されているの男の顔を思い出し、声が漏れかける。突き破られた頬、そこに通された縄、滴ったまま凝固したかのような血液。そして、いくつもの火傷と痣が刻みつけられていた首元。

 あれが僕の大切な誰かだったとしたら、僕はどうするだろう。助けに行くな、と命じられて素直に頷くことができるだろうか。


 ああ、僕は頷けるはずがない、と知っている。事実、僕はそれらの忠告を何度も破ってきたからだ。

 アシュタヤの時も、セイクの時も、僕は彼女たちを自分の手で助けようと試みた。それが間違いではない、と信じていただけに、いや、あるいはそれを否定することがあの幸福な日々の否定に繋がるのではないか、と恐れ、僕は騎兵が頷く前に続けた。


「……助けるならあなた一人だ。あの方面総監の命令を無視し、死に至る覚悟があるのなら、僕たちが砦まで辿りついてから勝手にやってください」


 声が震えていたのが自分でも分かった。しかし、その騎兵は僕の声の震えになど気が回らなかったようだ。泣き笑い、みたいな表情をして噛みしめるように頷いた。

 それを見て、僕は表情を隠し、告げた。


「……生きています」

「え」と騎兵は顔を上げる。「今、なんて」

「生きている、と言ったんです。ほら、さっさと知らせに行ってください」


 そう言って僕が手を振ると、騎兵は手綱を思い切り引き、それに反応した馬が前足を高々と掲げた。嘶きが響き渡り、皮膚に痺れが走る。彼は一瞬、小さく頭を下げた後、来た道を引き返していった。

 蹄の音が遠ざかっていく。

 他の騎兵の視線を感じ、目を瞑って息を吐き出した。身体に当たっているのが非難なのか、それともまったく別の意味があるのか、確認したくなくて、僕は逃げ出すように歩を進める。周囲にいる騎兵たちが律儀についてくるのが煩わしく感じ、薄く広げた〈腕〉を身に纏った。


「……十五エクタの外に罠はありませんから、前のアレを迂回して走ってきてください」


 僕はそれだけを伝え、地面を蹴った。鋭角に跳躍する。湿気の強い風が個体のような確かさで顔に当たり、足下を小さくなった男が流れ去っていく。

 二十メートル以上にも及ぶ跳躍の末、僕は着地する。昨日までの雨で地面が湿気っていたおかげか、予想よりも柔らかい感触がした。

 勢いそのまま、奥歯を噛みしめ、〈腕〉を振る。

 ――走れ。余計なことを考えるな。

 僕の芯とも言うべき何かが揺れているのを感じ、それが何よりも恐ろしくて全力で走った。後ろを確認すると反応が遅れていた騎兵隊もようやく馬を前に進めているところだった。


 そのさらに後方では先ほど走り去った騎兵を先頭に歩兵隊が進行してきている。居住地区を抜けるまではかなり遅々とした速度だった上、男の前で長い時間立ち止まっていたから追いつかれてしまったのだろう。

 先ほど伝令に走った騎兵は彼の盟友に辿りつく直前で馬の速度を上げた。地面に刻まれた足跡で判断したのだろうか、十メートルほど離れたところでぴたりと止まる。

 彼の声の切れ端がここまで届いた。どれだけ叫んでいたのか、彼の喉から発せられる声はすり切れ、捻り絞られた雑巾を彷彿とさせた。


「――あろうとも――触れるな」


 既に合意は取れていたようだ、彼を中心に歩兵隊が二つに分かれる。方面総監がほとんど傭兵を組み込んでいないからか、統率の取れた足並みは二つの美しい流れを形作った。


「ああ……」


 呻き声が漏れる。これほどまでに友人から慕われているなんて、きっとあの拷問された男は余程よい男だったのだろう。

 それだけに、僕はこれから起こる出来事が彼にとって不幸ではないことを心から願った。

 二つに分かれた進行、その右側から三つの影が飛び出していたのだ。

 鎧を着た者が一人、ローブを身に纏った者が二人、だ。飛び出してきた位置から鑑みるに、ローブを身に纏っているのはどちらかが阻害魔法の使い手で、どちらかが治癒魔法の使い手かもしれない。

 彼らは一直線に拷問された男の下へと向かっていた。


 右の隊列が乱れ、流れが滞る。異変に気付いた騎兵が叫んでいたが、彼の声はもうほとんど声になっていなかった。

 鎧を着た男が拷問を受けた男にまで辿りつき、後ろを確認してから彼を抱える。

 その瞬間、赤い光が灯った。

 何度も見たことのある、真偽判別などで反応したときの光だ。空気に染みこむような独特な光り方をしており、たとえ遠くからでも肉眼で判別できるくらいの特徴がある。


 ――阻害魔法が影響しないものが二つ、存在する。

 一つは大規模立体魔法陣、そしてもう一つが真偽判別など、ジオールが称するところの「魔法未満」の魔法である。

 彼が魔法未満、と呼ぶだけあってそれらの魔法には大した効果はない。人が嘘を吐いたら光る、だとか気配を隠す、だとかその程度だ。それ以上の複雑な事象は起きない。きっと今灯った赤い光も大した魔法ではないのだろう。そこにいるべき人が動いた、それに反応して光った。きっとそれだけの意味しかない。


 けれど、たったそれだけの出来事で、拷問を受けた男があそこにいた理由が読むことができた。

 あの人はただの目印に過ぎない。ある程度の戦力――阻害魔法を扱える人間や治癒術士を帯同できるほどの軍勢があそこを通ったと示すだけの目印。

 それが意味するのは単純だ。

 今、敵軍にとって奥の手を使っても惜しくはないだけの価値が生まれている、ということ。


 風を切る音に僕は空を見上げた。

 灰色の雲の下、数え切れないほどの黒い塊が飛んでいた。


「投石だ!」と短く鋭い声が地面を這う。


 進行方向に向き直ると、ラ・ウォルホルの砦の端に投石機らしきものが設置されているのがかすかに見えた。緩急などなく、一定のリズムで攻撃が続いている。

 砦から放たれた投石は、僕を飛び越え、放物線を描いて本隊へと襲いかかっている。だが、この程度の攻撃など当初から想定されていたのだろう、魔法隊は一斉に壁を生み出していた。風の壁が飛んでくる石の速度を削りとり、地面と垂直に展開された水の壁が飛び込んできた石を確実に下へと落としている。

 統率の取れた防御は、しかし、拭い去れないほどの違和感を僕にもたらした。

 この程度が、奥の手、だって?

 思考が渦を巻く。


 投石は確かに有効な攻撃手段の一つだ。だが、それは小規模で彼我との距離が近い状況での奇襲に限られる。魔法がある以上、数百メートルという距離は完全に投石という行為を徒労へと変える。せいぜい、相手の進行を止める時間稼ぎくらいの効果しか生み出さないだろう。

 攻撃となるほどの質量を持つ石はいずれ尽き、その無為な行動は来たるべき衝突の瞬間までに己の士気を奪い取る。

 ボーカンチ解放軍が投石をする理由、さらに言えば、投石をするためにわざわざ目印を置いた理由など見当がつかなかった。

 しかし、見当がつかないからこそ、不穏な気配が翻る。


 僕が持っている情報は正しいのか? いや、そもそも、伝えられるべき情報がすべて僕の下へと届いているのか?

 あの方面総監は見栄を張りたいだけの無能だ。自身の面子を保つために情報をねじ曲げたとしても何ら不思議ではない。そもそも、最近はずっと雨続きだった。雲に覆われ、月の出ない夜、暗視装置などない、双眼鏡ですらまとも流通していない世の中で、敵軍が何をしていたかなど詳らかに確認できるはずがない。

 違和感は嫌な予感を引き寄せるが、その正体が分からない。僕は進むに進めず、歩を止めたまま、投石に応戦する本隊の動きを呆然と眺めていた。

 その視界の両端、地面から帯状の光が生まれていた。


 ばちん、と音が鳴る。

 今、阻害魔法はどうなっている? 考えるまでもない、投石を防ぐためには阻害魔法をかけるわけにはいかない。というよりも、誰も発動が始まった帯状の魔法陣のことなど気にかけているようには見えなかった。

 今なら相手が用意していた魔法は打ち消されない。

 わずかに残された猶予、その瞬間、僕の頭の中にあったのは後悔だった。

 もし、もっと有能で信頼のある人間が指揮をしていたら――もし、僕が人の心がない「化け物」と呼ばれていなかったのなら、友人を助けに行った三人は唇を噛みしめて指示を受け入れたかもしれない。

 いや、あの場に僕がいるだけでよかった。離れた場所から彼らを押さえつけることくらいはできたはずだ。


 叫ぶことすら、いや、何と叫べばいいのかすら、思い浮かばなかった。

 その一瞬の逡巡を嘲笑うかのように帯状の魔法陣が発動する。

 せり上がった土の壁は居住地区の出口から砦へと向かって横幅およそ三十メートルというあまりにも細い回廊を作り出した。全長は五十メートルほどで、僕の下までは届いていなかったけれど、三千人近い本隊はその回廊と居住地区に両側を挟まれている形になる。

 何のために――ラ・ウォルホルを視界に入れると同時に二つの疑問が氷解した。


 怒りと恐怖ではどちらか強いのか。

 やはり、人にとってもっとも強い感情は恐怖だ。人がどれだけ勇んでいても、怒っていても、恐怖は黒い絵の具のようにすべての色を塗りつぶす。心に恐怖が染みこんだ人間は決して前進することはない。

 そして、もう一つ、何のために敵はこの回廊を作り出したのか。

 僕の視線の先で、発動するはずのない魔法が発動していた。


 ラ・ウォルホルが誇る絶対の武器、大規模立体魔法陣が生み出す巨大な火球がじりじりと土を焼いている。数百メートル離れていてもじわじわと伝わってくるような熱量に、僕は「本当に太陽みたいだ」と呟いた。呑気な感想であることは自覚していた。

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