第三章 第二節

 69「頭のおかしなガキ」〈ラ・ウォルホル攻城戦1〉

 ハルイスカ付近に設営された野営所からラ・ウォルホルへと出発するまで、ある諺を耳に胼胝ができるほど聞いた。

「援軍なしの籠城」。

 追い詰められた人は愚かな行動をする、という意味らしい。僕の世界では追い詰められた鼠は猫を噛むし、虫けらですら敵に立ち向かうと言うのになんて情けない、と思ったが、なんてことはなかった。周囲の会話を聞いているとどうやらまったく反対の諺もあるらしい。

 とはいえ、「援軍なしの籠城」は現在進行形で行われており、軍人や傭兵たちが事態を楽観視していられる理由も理解できないわけではなかった。


 この世界における現代戦の基本理念は「圧殺」である。

 いかに威力の高い魔法を多く放てるか。剣を百回振っても殺せる人数はたかが知れているが、多人数で放つ大規模魔法はその一発で百人単位の命を散らすことができる。魔法という物量で相手を圧倒するのが基本であり、極意であるのだ。

 そして、その一発を敵に放たせないための阻害魔法は攻城戦では防衛側より攻撃側に多くの恩恵を与える。

 なぜか。

 魔法は人ではなく空間に効果を及ぼすからである。


 つまり、一箇所に留まり続ける攻城戦は基本的に悪手といえる。攻撃側は狙いを定められないよう小隊に別れ、移動を続けながら阻害魔法を詠唱し続ければほとんど一方的に圧力をかけることが可能なのだ。

 しかしながら、砦というものがある以上、籠城側にもメリットが存在する。高低差や補給経路、防壁もそうだ。だが、もっと根本的なものがある。

 防衛側の最大の懸念である阻害魔法――その影響を受けずに発動する魔法が二種類存在するのだ。その一つが大規模立体魔法陣による魔法の行使である。

 拠点防衛のために用いられるその術式には阻害魔法の効果はない。もっとも分かりやすい例はバンザッタ城の「拒否の堀」だ。あの城の堀には阻害魔法がかけられているが、城の地下にある大規模立体魔法陣によって生み出される「二つの壁」は効果を失っていない。僕が体験したとおり、侵入者を拒み続けている。


 大規模立体魔法陣は単純で強力な魔法を生み出す。ラ・ウォルホルの場合は巨大な火球だった。第一次ラ・ウォルホル戦役でも猛威を奮ったというその魔法は『太陽』と呼ばれ、恐れられていた。

 とはいえ、魔法陣が作成者以外に行使できないのは変わりがない。今回、僕たちがそれを気にかける理由はなかった。

 それが、出発直前に方面総監が僕に与えた言葉だった。「だから安心しろ」と言っているつもりだったのだろうか。僕には「だから何を恐れているのだ、弱虫め」と詰られているように聞こえた。


 馬上で風を感じながら、遠くに聳える砦を見据える。

 確かに敵軍はまともに魔法を使えないだろう。大規模立体魔法陣も火を噴くことはない。また、昨夜のうちに敵軍の多くがボーカンチ方面に逃走した、という斥候の報告も入ってきている。相手は正規軍ではないため、援軍など送られてくるはずもない。

 方面総監が歯を隠そうとしない理由は少なくなかった。矢面に立つことのない、ということもあるのだろう。


 僕は前の馬を駆る彼を一瞥する。……彼の歳はいくつだろうか。

 大隊を率いる人間は見た目から年齢を判別できないことが多い。

 叩き上げの軍人であれば、顔に傷がついていたり、表情を読ませないために髭を伸ばしたりしているからだ。不安も興奮もいたずらに士気を上下させる。戦況を把握するのが使命である指揮官にとって「波」は不必要なものでしかない。

 今回の作戦の指揮を担う方面総監も髭を生やしている。緩みきった身体に似つかわしくない髭は立派であるのは確かだったが、僕には威厳を出すためだけのものに思えた。実力の外で威厳を求めるタイプは貴族の出身が多く、彼らは等しく苦労を知らない。苦労を知らないから顔に年齢が出ない。


 その事実はこの方面総監の実戦経験の少なさを如実に表していた。僕も攻城戦は初めてだ。見落としている重要な事実があってもおかしくはなかった。

 手綱を握る手に力が入る。操作をするために展開している〈腕〉にもぎこちなさがあった。息を吐く。耳元で脈拍を感じる。高揚の高鳴りではなかった。どこかじめっとした鼓動に喉元が詰まる。

 戦う前にこれほど恐怖を感じたことは久しぶりだった。それこそ、二年半前、フーラァタと対峙したとき以来の恐怖が肌に貼りついていた。



 馬は速力をはやめ、進んでいく。


 ラ・ウォルホルは二つの切り立った岩山――勾配の急さと砦自体より小さいことに鑑みると山というより壁と言った方が適切かもしれない――の間に造られた星形要塞と、おおよそ五百メートルほど手前に設置されている補給線を兼ねた居住地区、その二つの地域を総称した名前である。

 国境付近に位置しており、東に少し行くとボーカンチの土地が広がっている。かつては要塞の向こうに商業地区があり、東方諸国との貿易により隆盛していたらしいが、第一次ラ・ウォルホル戦役を契機に多くの住民がラニア領ハルイスカへと移り住んでいる。そのため、今では都市というよりも単なる軍事拠点の様相を呈していた。

 僕たち、ほとんどが軍人で構成された先発隊が進行を止めたのは居住地区が見え始めた頃だった。


 小一時間程度の休息を取り、作戦の確認が行われた。

 僕を先頭に騎兵部隊、歩兵部隊、攻撃魔法部隊、阻害魔法部隊と続いて居住地区を進み、砦に接近したら壁を崩し突入する。

 方面総監はたったそれだけの作戦をまるで名案のように語った。話を聞いていた軍人の間に困惑と狼狽が広がったが、方面総監の性格を全員が把握しているのだろうか、異を唱える者は誰もいなかった。

 軍人たちは口を噤んだまま、僕に哀れみの視線を送ってきている。

 耳を澄ませると囁きが聞こえてきた。


「……気の毒にな、まだ若いのに」

「若いつっても、『化け物』レプリカだろ。八年前の例もある」

「八年前って、ギルデンスか」


 びくり、と身体が震えた。僕は声のした方向をそっと盗み見る。三十歳程度だろうか、日に焼けた軍人二人が顔を伏せながら会話していた。


「確かにあいつもほとんど一人で戦ってたけどよ、あのときとは状況が違う。あいつはラ・ウォルホルを背にしてた」

「まあな。でも、似たようなもんだ。ギルデンスもレプリカも自殺志願者みたいな戦い方をするじゃねえか。結局同じだよ」

「同じっつっても、あのときは、ほら、なんか頭のおかしなガキがいたろ」

「おいおい、貴族の娘だぞ」

「関係あるか、貴族なんざろくなもんじゃねえ。あのガキも――」


 それ以降の声は僕の耳には届かなかった。正確に言えば、届かないようにした。

 ぐるり、と男の頭が捻れる。〈腕〉を彼らのいる方向へと伸ばし、アシュタヤを罵倒しようとした男の顎を殴りつけたのだ。頭蓋骨の中で脳が揺れたのか、男は膝から崩れ落ちた。先ほどまで会話していたもう一人の男は「おいおい」と呆れながら、倒れた男を起こそうとする。

 雑音がうるさい。

 僕をギルデンスと一緒にするな。アシュタヤを「おかしい」と言うな。

 異変にざわめきが生まれ始め、方面総監はヒステリーを起こしたかのように「黙れ」と叫び続ける。

 ここにいる誰もが僕の力の正体を知らない。だから、誰も僕の怒りに気がつくことはないだろう。


 そこで、ふと思った。

 怒りと恐怖はどちらが強いのだろう。

 方面総監はひしゃげた声で怒鳴り散らす。倒れた軍人に明らかな外傷を見つけて隊列の中に恐怖混じりの当惑がじわじわと広がっていく。

 戦いを前に緊張の糸が切れた軍人たちとは対照的に僕の心は凝固していった。

 超能力や魔法があったとしても、つくづく人間とは物質的なものだ。ほとんど条件反射的に僕の脳は神経伝達物質を分泌するように促す。筋肉の緊張、脈拍の増加、血管の拡張、それらのあらゆる肉体的反応は無意識を戦いへと向けて成形していく。

 戦っている間だけは、僕はあらゆる鬱屈とした懊悩から解放される。それを意識すると肌に貼りついていた恐怖の水分が失われ、剥がれ落ちていった。


〈腕〉を振るっていれば、僕は自分の弱さから逃れられる。相対的強者として存在できる。

 仕方がないのだ、ラニア卿。どうすることもできないのだ、頭領、ヨムギ。

 僕は僕の弱さを知っている。二年半前にした、あの選択が誤りだったことも既に認めている。国を守るという題目で戦っていても罪が薄れるとは露ほども思っていない。

 ただ、僕はもう戻れないだけだ。

 戻る恐怖から逃れようとしているだけ。

 それに比べれば、一人で敵地に突っ込んでいくことなんてどうってことない。

 おかしなものだ。笑いが漏れてくる。恐怖の本質は「喪失」だ。人は、すべての生物は失うことを恐れる。なのに僕は、取り戻すことに恐怖を感じている。


     〇


 黒々とした雲が空にこびりついたように残っていたけれど、雨は落ちてこなかった。風は弱く、水はけがいい土地なのか、地面には泥濘もない。

 ラ・ウォルホルの砦の直前にある居住地区の前で、僕は五分ほど立ち尽くしていた。

 敵もエニツィア軍が両の足に戦いを引き摺って訪れることなど承知のはずだ。わざわざ籠城したくらいだから、降伏するような連中ではないだろう。居住地区には人の気配がなかったが、家々に潜み、後ろをとろうとしている可能性もある。


 そう考えた僕は威嚇として、居住地区の前に掲げられていた木の看板を弾き飛ばした。看板は木片となり、建物の壁に叩きつけられてけたたましい音を立てたが、空気が震えただけで、特に何の効果も及ぼさなかった。馬に騎乗したままの方面総監が苛立たしげに舌打ちをしたくらいだ。

 おそらく彼は僕が突撃したらさっさと後ろへと下がるつもりなのだろう。顎で僕を急かした。


「おい、お前、何してる」

「敵が姿を見せないので、おかしいなと思いまして」

「どうでもいい。早くしろ」


 方面総監は焦れったそうに馬の腹を足の横で擦る。くすぐったかったのか、馬が首を振った。


「ああ、それと、できるだけ施設を破壊するなよ。修繕には金も時間もかかるからな」

「……ええ、分かりました、気をつけます」


 ご聡明な方面総監殿のことですからご存じかと思いますが、どれだけ金と時間をかけても人の命は修繕できないんですよ。


 そんな憎まれ口を叩いたところでアヒルの背中に水をかけるようなものだろうから、僕は口を噤んだ。貴族という生き物は得てして腕よりも口の方が達者だ。議論などにもならない口喧嘩ですら勝てる自信はなかった。

 僕は〈腕〉を展開し、魔法で均された足下を何度か叩く。膝を屈伸させ、ゆっくりと息を吐いた。

 いつもと感触が違う。

 それもそのはずだった。本来、戦いというものは日常からの連続で滑らかに始まるものではない。火蓋が切って落とされる、というだけあって、日常と非日常の間に飛び越えなければならない断崖があるものだ。

 だが、これはどうだろう。今、僕の前にあるのはどこまでも平坦な静寂だけだった。


 戦争は音の集合体である。魔法の詠唱、雄叫び、剣や盾がぶつかる金属の悲鳴、魔法の衝突、呻き声、地面を叩く足音。それら一切の音がない。後ろに控える軍勢も飛び越えるべき断崖を見つけられず、どこか虚を突かれているようでもあった。

 僕は慎重に一歩足を踏み出し、線を越える。

 居住地区は物資の運搬や軍の移動をしやすい碁盤の目状に整備されており、中心には重装備の歩兵が三十人は並べる大きな道があった。大隊が進むにはこの道しかなく、つまり、罠を設置するならこの通り以外にはないはずなのだが、どれだけ歩いても罠らしきものを発見できなかった。


 何度も〈腕〉で地面を叩いてみる。先の戦いのように地面の下に接触発動式の魔法陣が埋め込まれているのではないかと疑ったが、響いてくる感触は確かな地面のものだった。

 ちらりと後ろを振り返る。援護という名目でつけられた十人ほどの騎兵部隊は緩慢な速度で進む僕をじっと窺っている。馬すらも早く進めというように鼻息を吐き出していて、僕自身も焦れったくなり、草一つ生えていない地面を蹴った。

 立ち並ぶ建物が流れていく。もっとも懸念すべきは側面からの攻撃だったが、居住地区の中心まで来てもなお、魔法も矢も僕たちに飛んでくることはなかった。


 周囲に視線を巡らすが、等間隔に建てられている宿舎などはどれもが同じ大きさ、同じ形をしており、どうにも視点が定まらない。作戦ではいくつかの小隊が大通りから外れて索敵をすることになっていたが、しかし、彼らからも一切の合図がなかった。

 気勢を削がれた僕は少し蛇行し、通り沿いに並ぶ建物の壁面を強かに叩いた。突如として空気を奮わせた轟音に騎兵たちは一斉に武器を取る。統率の取れた警戒に申し訳なくなり、僕は頭を下げた。


「あ、すみません、今の、僕です」

「……驚かすな」といちばん近くにいた男が長い溜息を吐いた。「何かするならやる前に言ってくれ」

「あまりにも何もなくて、拍子抜けしちゃって」


 そう釈明したものの、やはり今の行動でも状況に変化は起きていなかった。まさか驚いた伏兵が、光を当てられた虫よろしく飛び出してくると考えていたわけもないが、当てが外れてしまった。ごまかすように、男へと愛想笑いを返す。馬上にいる彼は呆れるように眉を上げ、「油断だけはするなよ。何があるか分からないからな」と僕を諫めた。

 何があるか――、もはや考えられることは二つだけだ。

 一つは単純に、居住地区で僕たちを迎え撃てないほどに相手の戦力がない、という可能性だ。士気も戦力もこちらが上回っている以上、伏兵として潜みたがるものは誰もいないだろう。たとえ潜んでいたとしても生半な人数であれば焼け石に水である。

 そして、もう一つも単純な可能性だった。

 罠――どんな策があるのか予想もつかないが、進んでくる僕たちの戦力を大きく削ぐような罠がある場合、だ。


 きっと誰もが同じことを考えている――ただ一人を除いて。

 あまりの何もなさに先頭を走っていた僕や騎兵隊の面々が速度を落としていくと、背後から圧力を感じた。耳を澄ませるまでもなく、方面総監が喚く声が聞こえる。


「どうした、進め」


 その傲慢さに、知らず、舌打ちをしていた。同時にレカルタの職業斡旋所で耳にした情報を思い出す。受付の女性はエニツィア軍が二倍程度の戦力を有していて、優勢な状況にあると言っていた。大袈裟なプロパガンダだと思っていたが、すべてが嘘というわけではなかったのかもしれない。あの方面総監が都合のいい情報ばかりを信じて状況をかき乱したのだとしたら、今の状況になっていることに得心がいった。

 どうするべきか。

 戦争の最中、立ち止まるなど愚の骨頂だ。かといってあの方面総監が撤退の選択をするはずもなく、僕と騎兵隊は顔を見合わせ、前進を再開した。

 異変と突き当たったのは居住地区を抜けた時のことだ。

 砦までぽっかりと空いた五百メートルほどの空間、一人の男が僕たちの進路を阻むように、地面の隆起に腰掛けていた。

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