36 襲撃

 神様、酒が欲しいです、とヤクバが天に向かって叫んだ。

 太陽がまだ顔を見せない朝、遠くの空が紫色に染まっている。夜明け直前の空気は冷たく、ぴんと張り詰めていた。

 御者台の上に僕がいるのは御者を任されたヤクバが掴んで離さなかったからだ。彼は初めセイクやレクシナに声をかけたが、彼らが快く了承するわけもなく、むしろさんざっぱらヤクバを貶して拒否した。寒空の下、一人で馬を御するのが寂しかったのか、それとも同じ苦しみを誰かに味わわせようと意地悪く考えたのか、どちらかは分からないが、とにかく彼は僕を道連れにした。


 頭まで毛布に包まり、遠くの景色を睨む。バンザッタを発ってから六日だ。今日の夜にはメイトリンに到着するだろう。だが、見渡す限りの雪原で、地平線の向こうに海と貿易都市メイトリンがあるのだとはいまいちぴんと来なかった。

 ヤクバは髪の毛がないせいか、僕よりよっぽど寒いらしく、呻き声をたびたび漏らした。


「本当にこの先にメイトリンがあるのか? 雪のせいで街道から逸れてるとか冗談じゃないぞ」

「ヤクバだって立て看板の文字くらい読めるでしょ」

「この速度と気温だぞ? 寒さを堪えるのに必死で看板の字なんて読む気にならん。だいたい周囲一帯真っ白だ。海の青がないとやる気が起きない」


 そうして、彼はまた、「ああ、酒が飲みたい」と呟いた。

 恨むなら自分を恨んでくれ、と思う。そして、とばっちりはやめてくれ、とも。

 ヤクバは、そしてセイクやレクシナも、二言目には酒、だ。三言目にはつまみ、ということはとりあえず置いておこう。

 理に適っているのは承知している。アルコールを摂取して体温を上げるのは一つの常識である。寒くてどうしようもないときは僕も舌を湿らす程度の量を飲んでいた。

 彼らにとって誤算だったのは昨日行われた会議と、今日の出発が早まったことだった。長い会議と早朝の出発のせいで彼らが酒を調達する時間は損なわれてしまったのだ。馬車の中には常に三つ酒瓶が置かれてあったけれど、出発して二日で瓶を三つ空にしてしまったのがフェンの逆鱗に触れ、彼らは「これ以上常備の酒を飲むな」と言いつけられていたのである。


「しかし、地平線しか目に入らんな。いや、この場合、雪平線か」

「こうも同じ景色ばかり続くと飽きるね」

「おい、馬よ、もっと速く走れないか」

「速く走るとそれだけ寒くなるけど」

「馬よ、いい感じの速度で走れ」


 ヤクバは手綱をそっと揺する。すると二頭の馬はぶるるん、と息を吐き出し、忌々しげにこちらを睨んできた。いい感じってなんだよ、うるせえな、と言っているに違いない。

 ――護衛隊のみんなは御者の役回りを請け負うのをとてもいやがる。それこそ、ぶるるん、わかったよ、やればいいんだろ、うるせえな、という具合に。けれど、僕はこの時間が結構好きだった。結構、というか、かなり。


 ――僕の世界では――多くの先進諸国は移動を無駄な時間と切り捨てている。もちろん、観光だとか、そこまで行かなくても散歩だとか、運動としての意味合いだとか、あとは自分の趣味で手動で車を運転するだとか、完全に意味のないもの、として扱っているわけではないけれど、おおよそはできる限り移動に時間を費やさないように、と努力していた。だから小さな街に住む人を都市に流入させ、より速い移動手段を追求し続けていたのだ。例外があるとしたらニホンとかくらいだ。


 それはともかく、つまり、僕にとって長い距離をこうして時間をかけて移動するという経験はとても新鮮だった。ヤクバに「同じ景色が続いていると飽きる」と言ったのは嘘だ。僕の目には同じには見えない。

 時々雪原を駆けていく野生動物であるとか、群れをなして空を飛んでいく鳥であるとか、森、遠くに見える村。点在する様々な風景は等間隔に並ぶビルと比べたらよっぽど「異なる景色」だった。

 御者台から見える景色は十キロメートルにも満たない。はずだ。ここが地球と同じ大きさの惑星だとして、だけれど。

 今も僕たちの進む方向に小さな林が見えてきている。常緑樹なのだろう、白の中に濃い緑が映えていた。それを目にした僕の中にふと疑問が立ち上った。


「ねえ、ヤクバ」

「どうしたニール」

「ヤクバはこの道、通ったこと、ある?」

「あー、あるが、雪道はないな」

「そっか」

「それがどうしたんだ?」

「ほら、温泉の街での話」


 僕はぴんと伸ばした人差し指をくるくると回す。まるで宙にその話が浮いているのではないか、と思ったわけはなかろうが、ヤクバはその指の先をじっと見つめた。


「ああ、お前の顔事件か」

「その言い方だと僕の顔そのものがまるで事件みたいに聞こえる」

「で、それがなんだ?」

「いやさ……、バンザッタからメイトリンまでの道って基本的にこの行程しかないわけでしょ? だから、僕たちはこの街道を進まざるを得ない。警戒して少し出発時間は早まってるけど、その程度だ。だからあの注意のことが気になって」

「たかが占いとか予言だろう? 気にすることはないんじゃないか?」

「神様を信じるくせに占いとか予言は信じないの?」

「神は人里に降りてこない。占いだなんだはただのペテンか慰めだ」

「……まあ、いいけどさ」信仰についてあれこれ言うつもりはない。「……未来視ってのはヤクバが考えてるよりずっと確実なんだ。もちろん超能力者の力量で変わるんだけど」

「つまり、気をつけた方がいい、と」

「そうだね。特に僕たちは行動そのものを変えてないし」

「ふむ……」


 ヤクバは手綱から右手を離し、自らのスキンヘッドを撫でる。まるっきり信じたわけではなさそうだが、頭ごなしに否定しようとしているわけでもなさそうだ。

 警戒は無駄にはならない。――疲れるが。

 そう言いたげに、彼は地平線から頭を出した緑をじっと見つめた。


「ああいうところに潜んでる、って考えてるんだな」


 僕は首肯する。ヤクバは面倒そうに鼻から長い息を吐いた。


「とはいえ、俺も地形を暗記しているわけじゃない。ああいう林はどこにでもある」

「だよね」と僕は右に左に視線を巡らせる。刺客が身を潜められそうな林はヤクバの言うとおりあちこちに散見できたし、平原とはいえ起伏はある。それに辺り一面は雪景色で覆われていて、白い服を来ていたらすぐには見つけられないだろう。

「まあ、襲われるとしたらもっと先だろうな」


 ヤクバの言い方は推測、というより断言に近く、僕を戸惑わせた。なんで、と思わず訊ねると彼は肩を竦めた。


「この寒さだ。昨日の夜から俺たちを待ち構えるのはちょっとがんばりすぎだろう。だからといって後ろから馬のケツを叩いて追ってきたんじゃあ奇襲にならない。フェンさんが魔法を使って追って来られないようにするさ」

「そっか……、じゃあ、あの今日発った街に刺客が大勢、ってことはないんだね」

「そうだったらアシュタヤちゃんが気付いてるはずだ。いちばん現実的なのはメイトリンでぐだぐだやってる奴に、鳥か何かで知らせて、ってのだわな」


 いつもはセイクたちと馬鹿をやっているくせに、こんなときのヤクバの姿は頼もしい。ただ、それを真っ直ぐに誉めると調子に乗るのはこの二ヶ月で知っていたため、心の中に留めておくことにした。

 もしかしたらいるかもしれない、程度の薄い認識で僕たちは雪原を進み、街道沿いにあった林を通り過ぎた。

 結局、警戒の甲斐もなく、敵による襲撃はなかった。僕は胸を撫で下ろし、馬の振動に身を任せ、空を仰ぐ。穏やかな時間が身体の緊張をほぐしていった。


     〇


 太陽が中点へと向かって弧を描き、気温が上がってくると眠気に襲われた。目を瞑ると嫌がらせのようにヤクバが小突いてくる。それが何度も続き、僕はうたた寝を諦め、彼と他愛のない話を続けた。ヤクバは酒の席での失敗談や軍に在籍していた時代の話をいささか以上の脚色を感じさせる口調で語り、僕はそれに対して感想であるとか感嘆であるとか呆れの溜息であるとか、そういったもので応じた。

 ヤクバが小さく「ん」と言って考え込んだのは、ある街で起こった事件に対して軍が出動した、という話をした時だった。

 立て板に水のような語りが突如として収まったのを訝り、ヤクバの顔をじっと見つめる。「どうしたの」と訊くと彼は舌打ちをして、顔を歪めた。


「いやなことを思い出してな」

「いやなこと?」

「ほら、お前、雷に気をつけろ、って言ってただろう? 昔、雷を使う魔道士とやり合ったことがあってな……。雷なんて滅多に使われないから記憶に残ってるんだ」

「そうなの? 雷って便利そうだから意外だ」


 素早く、直接的な攻撃ができる電撃はそれだけで価値があるように思える。かつては僕の世界でも暴徒の制圧や犯人の逮捕の際にも使われていたと聞く。一瞬でも動きを止められる時点でかなりの有用性があるのではないのか?


「操作が難しいんだ。雷の速度は尋常じゃない。魔法で操ろうにもすぐに見当違いの方向に飛んでいく。そのせいで同士討ちになってしまうことも多い」


 ああ、と僕は唸る。

 考えてみると確かに他の魔法と比べて、雷は扱いが難しいのかもしれない。空から降ってきた雷が避雷針に向かってねじ曲がる写真が脳裏に浮かんだ。剣や槍が主な武器である戦場の、敵味方入り乱れる中で狙った場所へ電撃をあてるのは至難の業だろう。

 そんな特性がある雷を使う術士――彼がその術士だと意識したわけではなかったが、ギルデンスの姿が思い浮かんだ。戦いのためなら手段を選ばないあの男、それと同等以上の狂人が敵にいるのかもしれない。


「でもさ」と口にしたのはその想像から逃れるためだった。「でもさ、それなら敵から離れて攻撃してたらいい話なんじゃないの?」

「恐ろしく動きの速い魔装兵だった」


 魔装兵――。軍人じゃないから正確には兵じゃないのかもしれんが、と続けたヤクバに僕は言葉を投げかける。


「それって自分はどうなの? 近距離で電撃なんて使ったら自分も危なそうだけど」

「そういうのはどうでもいい、って奴だったんだ。体質であまり感電しないんじゃないか、って噂もあったが……反吐が出そうなほど気分の悪い男だったな、あれは」


 ヤクバは虚空を睨み、奥歯を噛みしめる。僕の知らない表情だった。いつでも陽気な三人組、その中でもヤクバは特に穏やかでいつも笑っている。そんなイメージを抱いていただけに、身体が勝手に身じろぎした。飲み込んだ唾が困惑を吸って胃の底で弾ける。


「殺人が趣味です、って言わんばかりの気狂いだ。ヨレヨレの長い髪を肩まで伸ばして、二本の短剣を持ってな……名前は、ああ、そうだ、フーラァタとか言ったか」


 その男が襲ってくるわけではない、そう考えつつも、想像が膨らむ。帯電したナイフを振るい、突き刺して、狂ったように笑う男の姿がこびりついたように瞼の裏から離れようとしない。


     〇


「敵がいます」


 御者台から馬車の中へと移り、暖かな微睡みに船を漕いでいたとき、アシュタヤの声が静かに響いた。睡眠と覚醒を行き来していた僕の意識が即座に跳ねる。


「全員、戦闘の準備だ!」


 フェンの声が響く前に身体を覆っていた毛布をのける。馬の嘶きが走る。僕を含めた護衛団が全員外に飛び出した。

 視界に広がる雪原。白に覆われているせいで距離感が掴みにくいが、前方に木々の群れがある。言われるまでもなく敵の位置を理解した。

 二台の馬車がそろそろと進み、僕たちはその周りに展開する。一種の示威行動だった。お前らが潜んでいることなど百も承知だ、と敵の機先を制するための。僕がいる位置は縦に並んだ馬車の右翼、そのちょうど真ん中あたりだ。


「アシュタヤさま、敵は何人ですか」


 先頭で睨みを利かせるフェンが振り向かずに訊ねる。御者台へと繋がる幌の間からアシュタヤが顔を出しているようで、彼女の声は明瞭としたまま耳に届いた。


「九人、ですね」

「ありがとうございます」とフェンは短く言って、僕たちへと続ける。「この前と基本は同じだ! 各自、隊列を崩すことなく、馬車を守れ! レクシナとセイクは遊撃、余裕があるならニールも前に出ろ」


 唾を飲み込む。

 前に――その一言に足が竦みそうになった。

 フェンの意図はわからない。実戦経験を積ませるためかもしれないし、僕の能力が全方向に対して攻撃できるという特性のせいかもしれない。もし、未来視の通り、雷を扱う魔道士がいるとしたら、金属製の武器を持った護衛団はかなりやりにくいだろうから、そこも考慮に入れられているのだろう。


「できるか?」とフェンがちらりと僕を覗く。

「やるよ」


 静かに答え、僕は前方をじっと睨みつける。

 僕たちは馬車とともに遅々とした速度で進んでいたが、あるいはそのせいもあるのだろうが、敵が姿を現す気配はまるでなかった。前方の雑木林にはかなり近づいていて、いくら地面が雪に覆われていると言っても動きがあればすぐに察知できるだろう。じっと目を凝らして雑木林を見つめるが、飛び出してくる者は一人もいなかった。

 後ろにいるパルタは構えた槍を強く握りしめている。いつもの温和な表情はなかったが、僕が不安げな表情をしていたからだろうか、小さく頷いた。


「大丈夫さ、ニール。誰がお前の稽古に付き合ってきたと思ってる」


 ここにいる誰もが――、この国でも有数の手練れであるだろう、護衛団のみんなが僕の鍛錬に付き合ってくれた。

 それと比べたら。

 喉元にせり上がってくる不安を飲み込む。

 その瞬間、「来たぞ!」とフェンが叫んだ。

 雑木林から塊が飛び出している。

 敵の一団の動きは先日の盗賊のものとは比べものにならないほど滑らかで統率が取れていた。無駄に散開もせず、一直線にこちらへと向かってくる。軽装ではあったが、手に持っている武器が雪の反射光を受けてちらちらと輝いていた。

 三列になっているせいで、全員の顔はよく見えない。だが、一人だけ、中央の男が発するおぞましいほどの殺気に僕の身体が震えた。髪の長い男だった。緊迫した状況だというのににやにやと口元に笑みを浮かべている。


「迎え撃つぞ、陣形を整えろ!」


 僕たちは前に出る。前方以外は見通しのいい平原だ、伏兵はいない。もしいたとしてもアシュタヤが気付いているはずだ。

 戦いが始まる。

 息を呑んだ瞬間、一番前で盾を構えていたヤクバの頭上に水の球が生まれた。拳大だった水が回転しながら徐々に量を増やしていく。


「当てろよ!」とセイクが飛び出す。レクシナがほとんど一瞬で詠唱を終え、宙に浮かび上がる。同時に巨大な水球が敵の一団へと向かって放たれた。


 水の球が猛烈な勢いで進んでいく。それを躱そうと敵の一団が弾かれたようにばらける。

 回避された――そう考えた途端、水の球が軌道を変えた。

「ぎゃっ」と短い悲鳴が聞こえた。後方にいた一人の刺客に球がぶつかる。人よりも大きくなった水の質量はいとも容易く男を弾き飛ばし、そして、飲み込んだ。

 やった、と思わず上げそうになった歓声が、ヤクバの叫びによってかき消される。


「おいおい、なんの冗談だ、フーラァタがいるぞ!」


 隣でフェンが舌打ちをする。彼は忌々しそうに顔を歪め、指示を飛ばした。


「セイク、レクシナ! 戦力を削げ! 雷の魔装兵は俺がやる!」


 言い終わったのも束の間、フェンは詠唱を始める。

 敵はもう目の前へと迫ってきていた。


   〇


 無我夢中だった。

 あちこちで金属音が鳴っている。盗賊団とは戦闘力がまるで違う。レクシナやセイクも優勢ではあったが、一撃では決めきれていない。

 フェンの魔法によって前方に生み出された土の壁は人の背丈の二倍ほどもあり、敵を見事に分断していた。四人ずつ別れ、僕たちはそれを迎え撃っている。僕のいる右翼にはフェンとパルタがいて、そして、前方でセイクが暴れ回っていた。

 僕がすべきこと――。離れた場所から味方のサポートをすればいい。足を取るだけでも絶大な効果があるはずだ。

 意を決し、前に出る。まずは一撃、相手の足を止めてしまえば後ろに控えているパルタがすぐに対応してくれるはずだ。

 大外から回り込んでいた男が、与しやすしと考えたのか、武器を持たない僕に向かって一直線に突き進んできている。僕は慌てて〈腕〉を伸ばし、男に向かって右腕を動かした。


「――あ?」


 地面すれすれを這っていった〈腕〉は男の足をすくい取る。

 横向きに回転した男は不可解な表情をしたまま、勢いよく地面に転がった。


「パルタさん!」


 言い終わる前に、横にいたパルタが前に出る。狼狽してもがく男の首元に槍が突き刺さった。濁った断末魔が、傷の隙間から、漏れる。引き抜いた槍から血液が滴り、ぱたぱたと雪を赤く染めた。

 これでいい。

 一人一人、確実に撃破すればいい。相手は大した人数ではない。こちらには一騎当千の戦力が四人もいる。敵の大部分は彼らが始末してくれるはずだ。

 もう一人、片をつけたとき、一際甲高い金属音がフェンのいる方から轟いた。僕は思わず視線を巡らせる。彼は敵の男――フーラァタと鍔迫り合いをし、雷を警戒したのだろう、思い切り飛び退いた。距離が開き、二人は睨み合いを始める。

 応援に行くべきか、ここで応戦すべきか逡巡した瞬間――


「え」


 ――ぎょろり、とフーラァタの眼球がこちらへと向けられた。

 見られている、その感覚に総毛立つ。

 命の奪い合いをしている最中だというのに、フーラァタの顔は嬉しそうに歪められている。

 お前か? と口が動いたような気がした。

 フーラァタの身体が沈み込む。

 来る、と認識する前に、身体が震えた。

 フーラァタはそばにいるフェンを無視して、僕の方へと一直線に地面を蹴った。獲物を狙う野生動物のような速度で向かってくる。白いマントを羽織っているせいか、背景に溶け、見失いそうになった。


「ニール!」フェンが怒号を発する。


 どうして、と疑問が湧くが、気にしている余裕はない。パルタが槍を構えたのを見て、慌てて腰から小さなナイフを引き抜いた。

 ねじの飛んだ笑い声とともにフーラァタが肉薄してくる。

 直線的な動きだ。

 これなら――僕は腕を突き出す。〈腕〉がその動きに追随し、敵の身体を突き飛ばした。


「よくやった!」


 地面を転がる男めがけて、パルタが突進していく。

 だが、雪面を二度ほど跳ねたフーラァタは、パルタが間合いに辿りつく前に、素早く体勢を整えていた。パルタの槍が影だけを貫き、地面に刺さる。


「……なるほどなア」


 フーラァタは奇妙なイントネーションでぽつりと呟いた。同時に彼の腕からばじり、と電気が迸る。


「確かに奇妙な力だなア……まあ、それだけ、だけどよ」


 怪我の具合を確かめるように、フーラァタは小さく垂直に跳ね、ナイフを構えなおした。腕から発せられた電撃がナイフへと流れ込み、帯電を始める。

 それが弾けた瞬間だった。

 パルタの悲鳴が耳に刺さった。「があっ……!」膝から崩れるようにして、パルタが地面に倒れる。

 何が起こったか、理解できなかった。

 ただ、一つ、僕がわかっていたこと――フーラァタの姿が消えている。


「ニール!」とフェンが僕へと走り寄ってきている。「右だ!」


 右――? 慌ててそちらへ、何よりも先に〈腕〉を動かす。〈腕〉の端に何かをかすめたような感触があった。だが、それだけだった。

 動きに視界が追いつく。恐怖が翻る。

 強烈な速度で僕へと襲いかかるナイフがかすかに見えた。

 喉から漏れそうになる恐怖への悲鳴だけ、なんとか堪える。だが、身体の方は僕の意志に反して崩れた。

 同時にナイフが僕の頭上を通り過ぎていく。

 このときばかりは恐怖に感謝するしかなかった。尻餅をついていなければ僕の心臓は貫かれていただろう。


 背中を流れる冷や汗の感覚を覚えたのも束の間、フーラァタが右手のナイフを振り上げていることに気がつく。一瞬先に、ぎょろりとした目が僕の心を刺した。

 まずい――! 自身の右腕を動かすのも忘れ、〈腕〉をめちゃくちゃに振るった。だが、それでは当たるはずもなく、僕の〈腕〉はフーラァタの後ろの空間で虚しく暴れただけに終わった。


「ほォら」とフーラァタが顔を近づける。奇妙に掠れた声に鳥肌が立つ。「こんなに簡単だ。ギルデンスなんかより俺の方が強エ」


 帯電したナイフの切っ先が僕の勇気を殺す。

 迫り来る死に僕の身体は無様に硬直した。目を硬く瞑る。

 だが、次に聞こえてきたのはナイフが肉に突き刺さる音でも自分の叫び声でもなかった。濁った音が眼前で弾け、消える。恐る恐る開けた目に映る視界には、フーラァタの姿はなく、フェンの背中があった。


「ニール! 無事か?」


 めまぐるしく動く戦況に呆然としながら、何度か頷く。フェンはいくらか安堵したようで小さく息を吐いた。そして、数メートルほど先で大袈裟に顔を歪めて脇腹を押さえているフーラァタを睥睨する。


「お前の相手は俺だ」

「……いってェなア」


 フーラァタは不機嫌そうに歯ぎしりする。蹴り飛ばされでもしたのだろうか、忌々しげにフェンを睨んでいた。


「相手、とかどうでもいいんだよ、クソが……。せっかく楽しかったのによオ」

「もう楽しめはしない」


 フェンから殺気としか形容するしかない空気が放たれた。

 僕はフェンと戦闘訓練で何回も向かい合ってきた。少しだけ超能力が成長してからは攻撃を当てたこともある。

 だが、今になってようやく、僕は気付いた。

 彼が今まで僕に対して本当の本気で向かい合ったことなどないのだ、と。

 二本の曲刀を構え、フェンは今にもフーラァタの喉元へと飛び込もうとしている。背中しか見えないのに僕は気圧され、立ち上がることができなかった。空気を凍てつかせる冷たい気配に息までもが苦しくなる。

 チッ、と舌打ちの音が聞こえた。


「別にお前とやり合うつもりはねエんだ。だいたいやり合う、ってのがまずおかしいんだよなア……。連れてきた雑魚も壊滅してるし、もういいや」

「逃げられると思うのか」

「追ってきてみろよ。死人が増えるだけだ。それにこの俺がてめエらノロマどもに追いつかれるはずがねエ」


 フーラァタはけたたましく笑い、それからちらりと僕の方へと目を向けた。


「命拾いしたなア、ガキ。次はしっかり殺してやるからな?」


 なんで、僕を――。

 その言葉を投げかける前にフーラァタは姿を消した。敵が潜んでいた林へと向かう道、その雪の上に足跡だけが続いている。


「立てるか、ニール?」

「うん……」


 差し伸べられた手を掴み、立ち上がる。膝は震えていたが、体重を支えられないほどではなかった。


「あいつ、なんで、僕を……」

「……さあな。だが、お前に対して何かしらのこだわりがあるようにも見えた」

「僕が何をしたっていうんだ!」


 喉から突いて出た言葉にフェンは渋い顔をした。当然だ。あの狂人と僕を繋げる要素などあるはずがない。唯一、あるとしたら――フーラァタが口走ったギルデンスとの、切り離してしまいたい関係性だけだった。


「……考えていても仕方がない」


 フェンは僕の肩を優しく叩き、周囲に視線を巡らせる。

 気を失っただけだったのだろう、パルタが呻きながら身体を起こしている。周囲に鳴り響いていた剣戟の応酬も今や消え去っていた。

 フェンの短い詠唱により進行方向にあった土の壁が崩れていく。

 だが、僕の背骨を這う気味の悪い恐怖は未だ強く残り、聳え立つようにして、安堵感を遮っていた。

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