32 バンザッタ

 ノックの音で眼を覚ました。ためらいがちに三度、空気を慎重になぞるような小さな音だったけれど、僕にとっては十分すぎる音量だった。


「アシュタヤでしょ? 鍵、空いてるよ」

「……失礼、します」


 ゆっくりと扉が開く。寝間着のままの彼女が崩れかけた崖の上を歩くような速度で僕の方へ向かってくる。僕は身を起こしてベッドに腰掛け、手を差しのばした。

 アシュタヤの冷たい指先が手のひらに触れる。

 震えていた。

 寒さに、ではないことはわかっている。ありもしない幻覚に怯えているのだ。カーテンの隙間から漏れる光が一条、小さな女の子のように身を竦める彼女の顔に当たる。灰色の瞳の真ん中、瞳孔が開いているのが見えた。


「……座りなよ」

「うん」


 彼女は僕の手を握ったまま、左にそっと腰を下ろした。呼吸が揺れている。今日はいつもよりひどいな、とぼんやり思った。

 アシュタヤの発作は不規則に、ときに前触れもなく彼女を苛んだ。多くが悪夢として現れるが、それだけに限らず、例えば食事中であったり、木々の中を散歩しているときであったり、状況など考慮されている様子はなかった。三日、間を開けることもあれば、一日のうちに何度も繰り返されることもある。

 ヤクバたちと魔獣を狩りにいったときは本当に幸運だった。あのときは偶然に、本当に偶然、発作が起きなかっただけだ。


 バンザッタで人知れず起こった事件から二十日と少し経っていた。

 PTSDという単語が黒々と、また重々しく脳裏に浮かんだ。もしかしたら、彼女が軍の前線部隊から退くきっかけになった出来事も関係しているのかもしれない。燃えさかる炎、血液、悲鳴、死の間際の苦悶。彼女の記憶の中にある穢れた、おぞましい部分。アシュタヤの心はその部分を切り取ることもできず、侵されている。

 僕の世界でも、症例だけで見れば珍しいものではない。戦争の頻度は劇的に少なくなっているし、投薬治療も進歩を遂げている。だが、戦いが頻繁に行われているこの世界には、症状を改善するための薬なども存在しない。僕にできることはこうやって手を握り、寄り添うことくらいしかなかった。


「ニール、ごめん、ごめんね」


 かすれた声。

 もう何度下手な慰めをして、その効果のなさに絶望したことか、分からない。千の言葉をかけるより、強く手を握りしめる方がずっと意味があることを僕はそろそろ気がついていた。

 体温を分け与えるようにアシュタヤの手を握る。

 彼女が聞いている音のない怨嗟の声も、彼女が触れている生暖かい血の温度も、彼女が見ている怨念に満ちた亡霊の目つきも、彼女が嗅いでいる肉の腐る臭いも、彼女が味わっている苦しみも、本質的には僕には届かない。人が持つ物質性は、僕たちの魂が寄り添う妨げとなる。せめて隣にいることを知らしめるように、身体の端で体温を混ぜ合うのが僕には精一杯だった。

 しばらくするとアシュタヤは長く息を吐いて、ぎこちない笑みを作った。


「ありがとう、ニール……ちょっと落ち着いた」

「そっか、よかった」

「……今日は訓練だけ?」

「そうだね、怪我も治ったし、時間もない」


 主張するように、右腕をぐるぐると回す。違和感はまだ残っているが、痛みはもう消え去っていた。医者からもお墨付きをもらっている。遅れを取り戻すべく、僕はフェンと、彼が忙しいときは例の三人と毎日のように戦闘訓練を行っていた。

 いつかフェンに幾度となく転がされた、城の地下にある訓練場が主な場所だった。魔法阻害の術がかけられた訓練場では僕が圧倒的に有利な状況ではあったけれど、数え切れないほど地面とキスをさせられた。こてんぱん、というやつだ。


 右腕と〈腕〉の連動に気付いたことで操作の正確性は増したが、その一方で攻撃のタイミングが計りやすくなったのも事実だった。無理矢理身体の動きを押さえると、やはり〈腕〉は以前のように従順さを失う。あちらを立てればこちらが立たない。戦闘経験が豊富な彼らと比べたら僕は生まれたての赤子のようなものだった。

 魔法を使用できる場所で訓練を行うともっと凄惨な結果が待っている。レクシナに風で持ち上げられ、ヤクバに望まぬ水浴びをさせられ、セイクに背後から羽交い締めにされる。

 彼らは「普通の刺客相手だったら戦える」と僕を慰めたが、そんな悠長な気分でいられるわけがなかった。


「アシュタヤは? 勉強?」

「たぶんね。できることはそれくらい」

「じゃあさ、午前の訓練終わったらごはんでも食べに行こうか。イルマが早くアシュタヤをつれて来い、ってうるさいんだ。もしかしたらあの三人もついてくるかもしれないから……そっちの方がうるさいかもだけど」

「別に構わないわ、悪い人たちじゃないしね。それにあの人たちが騒いでるのを見るの、好きよ」

「それならありがたい。……じゃあ、また昼に」

「ええ、ニール、がんばってね」


 アシュタヤは立ち上がり、一度微笑みを向けて、去って行った。そろそろフェンが下で準備を始めている頃だろう。僕は急いで身支度を調えて、訓練場へと走った。


      〇


 朝の訓練を終え、ヤクバたちに見つからないようにそっと訓練場を後にしたはずなのに僕とアシュタヤの後ろには彼らがいる。全員がにやけ、じろじろと視線を向けてきていた。彼らは僕がアシュタヤに思慕の情を抱いていることを知っている。アシュタヤにはあの夜に気持ちを伝えていたから関係性が壊れる心配こそなかったが、からかわれるのではないかと彼らの見つめている背筋が冷えた。

 イルマはアシュタヤを目にして綻ばせた顔を、後ろにいる三人を見た瞬間に引き攣らせた。代金は払ったし、迷惑料としてデギ・グーを渡したから事態は決着しているが、それと感情は別らしい。歯を剥き出しにして「あんたら金持ってるんでしょうね」と険しい声を出した。


「オネーサン、そんな邪険にすんなよ」

「ああ、金ならある」

「怒ったっていいことないよお」

「食い逃げしてなきゃにこやかに対応するわよ。あんたらだけ前金だからね」


 イルマは注文と引き替えに金をふんだくるようにして受け取る。こわーい、とレクシナが揶揄するように言うものだから、イルマの怒りの水位が目に見えて上がっていった。


「アシュタヤさまはゆっくりしていってくださいね。ニールも」

「えー、あたしたちはー?」

「あんたらは食べたらさっさと帰って」

「おいおい、このネーチャンこええな」とセイクは僕に耳打ちをする。耳ざとくそれを聞きとがめたイルマは「何か言った?」と冷たくセイクを睨めつけた。矯めつ眇めつメニューを眺めていたヤクバは「これ、大盛りにできるのか」と量のことばかりを気にしている。

 アシュタヤが楽しそうに笑っているから、僕は何も言わない。

 こういうのもいい、とは思う。

 店内がにわかに騒がしくなったのは食事を食べ終わる頃だった。

 僕たちのせいではない。二人の女性を侍らせた豪奢な男が現れたからだ。ブラウンの髪の毛に、精悍な顔つき。三十代くらいだろうか。僕の美醜の価値観から判断しても男前で、気品があったものの、どことなくきざな目つきはあまり気に入らなかった。昼間だというのに両脇の女の腰に手を回しまさぐっている。服装も華美で鼻につき、大きな商館の跡取りであるとか、貴族の御曹子だとかそういったような趣があった。


「なんだ、ありゃあ」仰け反りながらだらだらと水を飲んでいたセイクが眉間に皺を寄せる。「いいご身分だな」

「どうかしたんですか?」


 アシュタヤの位置からはその姿が見えないらしい。首を伸ばして覗こうとしていたが、あまり彼女が好むような光景でもないように思え、僕は小さな声で警告した。


「あまり見ない方がいいよ、目の毒だ」

「しかし、収穫祭が終わってからあの恰好をしても大して女を引っかけられないだろうに」

「むしろ終わったのにお金持ってる雰囲気出してるからじゃない?」


 レクシナもああいったタイプの男はあまり好きじゃないのだろうか、つまらなさそうに舌を出した。まじまじと見つめる趣味もなく、目を逸らしたが、男の歯の浮くような台詞は客の喧噪に邪魔されずに届く。

 きゃあきゃあと艶めかしい嬌声が絶え間なく響き、居心地が悪い。僕は立ち上がってイルマに店を出ることを伝えた。会計は以前渡したデギ・グーの売り上げからさっ引いてもらう。アシュタヤは代金を払おうとしたが、これ以上この場に留まりたくはなかったため、手を引いてさっさと席を立った。

 カウンター席に座る男の目がこちらを向く。値踏みするような目つきでヤクバとセイクを見て、僕と視線がぶつかる。それも束の間で、彼の目は最後尾にいたレクシナとアシュタヤへと走った。


「あら、カクロさま」

「え」


 僕の足が止まる。背中にレクシナがぶつかる。ふぎゅっ、と珍妙な悲鳴を上げた彼女は「急に止まらないでよ」と僕の肩を叩いた。

 カクロ?

 聞き覚えがある名前だった。聞き覚え、というか、新しい領主の名前だ。

 この男が? 若い女を二人連れ、歩けばチャラチャラと音が鳴るほどに装身具で身を固めた、きざな男が?


 僕の疑いをよそに、男は髪をかき上げて、きっとそれは見る人からしたら優雅な振る舞いなのだろうけど、あまり好ましいものとは思えず、ああ、とにかくアシュタヤに応えた。


「ああ、奇遇だね。これも運命かな」


 一挙手一投足に光が舞っているような気さえする。いや、錯覚ではない。身体の至る所を飾り付ける装身具が光を反射して煌めいているのだ。

 ……バンザッタは大丈夫なのだろうか?


      〇


 午後からも訓練の予定だったけれど、ウェンビアノに呼び出され、僕は政務室に向かっていた。嫌な予感がして気が進まなかったが、無視するわけにもいかない。

 別れる間際、レクシナは「なんだろね、ウェンビアノくん、呼び出したりして」と首を傾げていたが、僕は薄々勘づいている。

 政務室の扉をノックすると「入りなさい」というカンパルツォの声が聞こえた。

 一瞬躊躇したが、意を決し、ドアノブを捻る。

 まず目に入ったのは正面のデスク座っているカンパルツォの大きな身体だった。その右でウェンビアノがぴんと背筋を伸ばして立っている。デスクの手前にはローテーブルと二つの長椅子が向かい合うように置かれている。右にアシュタヤとベルメイアが座り、そして、彼女たちの正面には、膝を組み、陶器のカップを片手に紅茶を嗜む例のカクロの姿があった。


「さて、ニールにはまだ紹介してなかったな。短い間とはいえ、城内で顔を合わせることもあるだろう。こちらがバンザッタ領主代理を務める、カクロ伯爵家長男のツルーブだ。ツルーブ、彼が」

「ニールくん、ですね」


 ツルーブ・カクロは立ち上がり、僕に握手を求める。その仕草も流麗だ。貴族の立ち居振る舞いの見本のようでもあり、簡単に手を握っていいものか悩んだが、領主代理になるということはカンパルツォの息がかかっているのは間違いない。おずおずと手を伸ばすとまるで捕獲するかのような勢いで握られた。


「ふうん、護衛、のわりにはしなやかな手だね。魔術師じゃないようだけど」

「え、あの、それは」

「この手でどうやって私のアシュタヤを守ったというのか、気になるね」

「え」私の、ってどういう――

「カクロさま、いつ私があなたのものになったのでしょう」

「え」

「つれないな。あれだけ求婚したのに」

「ベルにも求婚してたじゃありませんか」

「え」

「綺麗な女性をみるとつい、ね」


 思考がついていかない。僕は壊れたおもちゃのように「え、え」と繰り返した。カンパルツォが身体を揺らして笑いを堪えている。ウェンビアノも同じだ。

 これは僕を騙す悪戯か何かなのか?

 もちろんそうでないことくらいは理解していた。わざわざ貴重な時間を割いてまで行うことではない。


「あの、これは、えっと」

「ああ、すまないね、ニールくん。私だけ楽しんでしまって」

「あ、いえ、別に構わないんですが」


 僕はカンパルツォの顔を窺う。紹介のためだけに呼んだのならば、もう用事は済んでいる。この場にいると頭が痛くなりそうだったから、早く帰して欲しい、と目で訴えたが、彼には伝わっていないようだった。


「それでだ、ニール、頼みがある。……ツルーブは何度かバンザッタに足を運んだことがあるのだがな、感想を聞いても女のことしか喋らない」

「バンザッタの女性は美しいひとばかりですからね」

 カンパルツォはカクロを無視して続ける。「だから、一度街を見て回らせようと思ってな……、引き受けてくれるか」


 引き受ける? なんの話だ?


「お前に、バンザッタの案内をして欲しい」

「よろしく頼むよ! 女性じゃないのは不満だけどね!」


 勢いに負け、と意志に反した「はい」が口から出ていく。

 やはり僕を騙してからかう何らかの遊びなのかもしれない。


     〇


 馬に乗った僕とカクロは連れだってバンザッタを巡っていく。肩肘を張らないでくれよ、と彼は言ったが、無理な話だ。領主代理という要人を連れ歩くのに、バンザッタへ来てまだ二ヶ月も経っていない僕一人なのだ。緊張しない方がおかしい。

 どこから案内していいものかわからず、僕は以前イルマに連れられて歩いた道順で進んでいくことにした。北門から出て、反時計回りに馬を走らせる。数分も走ると商業地区の忙しなさは消え、西の農業地区に入る。水路を両脇に、放射状に広がった農業地区はのどかで、冬の風が染みるように吹いていた。


「寒いなあ、もっと厚着をしてくればよかったよ」

「いったん戻りますか?」

「……いや、いいよ。きみの話を聞かせてくれ」


 ここは僕がウェンビアノに出会った日、つまり、バンザッタに入ったその日、フェンの過去を聞いた場所だ。そばに見える木陰に座り、彼の操る魔法を見た。あのときは驚いたものだ。土が独りでに渦を巻くのを目にして歓声を上げたのを覚えている。

 確か、ベルメイアたちと魔法劇を鑑賞したのもこの地区だったはずだ。舞台は撤去され、面影もないが、横から見た城の形を覚えている。遠くに目をやれば西門が小さく見える。あそこを出て進んでいくと大岩を撤去した村がある。


「そこをずっと街道に沿って海まで出るとメイトリンって街があるんだ」

「酒と女性が集まる街らしいですね」

「貿易の拠点だからね。船乗りたちの止まり木さ。君も羽目を外しすぎないようにしないといけないよ」

「……気をつけます」


 農業地区を抜けると軍部地区に入る。城塞都市バンザッタには大規模な軍隊が常駐していて大きな訓練場であるとか宿舎がそびえ立っている。僕とアシュタヤが囚われた客人用の邸宅もこの地区にあった。カクロに請われて前を通ったが、あれから随分経っているせいか、残っているものは何もなかった。焼け落ちた木材を運び出す際にこすれたのか、塀の一部に黒ずみが残っている程度だ。かすかに血と灰の臭いがしたような気がしたが、きっとそれは僕の脳が作り出した幻に違いない。

 自警団の訓練もこの地区で行っていた。体格のよい中年たちに投げ飛ばされたのが遠い昔に感じる。今やればどうだろうか? 純粋な体術のみで敵うかどうかは自信がない。そういえばもう七日もすれば彼らともお別れだ。一度、挨拶に行っておいた方がいいだろう。


「ここは男しかいないね」

「軍部地区ですからね」

「いやいや、意外と女性で従軍しているのも多いよ。皆凜々しくてほれぼれするほどさ……私としてはあまり女性を矢面に出すのは好まないけどね」


 堀に沿ってさらに進むと東部農業地区に入る。穀物の生産は主にこちらで行われている。

 ヤクバたちと魔獣の狩りに赴いた際はこの地区を通っていった。魔獣を載せた筏を引き摺ってきたのもこの地区だ。魔力がないと嘆いたレクシナのせいで僕が筏を押さなければいけなかったのは記憶に新しい。

 門を出て東南に進むと国境である山脈が聳え、真東に進むとアノゴヨという森がある。僕がこの世界に迷い込んだ森だ。思えばあの頃は言葉もわからなかった。まるで赤子に教えるようにウラグが大袈裟なジェスチャをしていたのを思い出すと笑いが漏れかけた。

 彼らと出会えてよかった。もし、タイミングがずれていたら、僕は彼らには会えず、途方に暮れていただろう。


「そういえば、君はどこか別の世界から来た、と聞いたんだけど、本当かい?」


 馬上でカクロがアノゴヨの森の方角を見ながら訊ねた。知られているならば隠す必要はない。僕は小さく頷く。


「こことはまったく異なる世界でした。もう遠い昔のようにも思えます」

「ふうん……、どういう場所だったのか聞いてもいいかい?」

「そうですね……、馬のない荷馬車が独りでに進むのは想像できますか? 空を飛んだりもしていました。あるいはずっと遠く離れた人と顔を見ながら話をできたりもします」


 以前、アシュタヤに語った話が脳裏を過ぎる。彼女はおとぎ話を聞くように目を輝かせていた。いずれ、数百年という時間をかけてこの世界も科学という力を手に入れるかも知れないが、考えても栓のないことだった。

 カクロは僕の話を興味深そうに聞き、へえ、とかそれは便利だ、と感嘆した。特に馬よりもずっと早く遠くに行けたり、物理的距離を無視してコミュニケーションを取れるシステムがあることを羨んでいるようで、「そんなものがあったら僕の女性遍歴が大変なことになるね」と自慢げに笑った。


「色々議論はありましたよ。あまりに発達したものだから、自然に帰ろう、って主張する団体も多かったですし」

「それこそ信じられないね。そんな素晴らしい仕組みから僕は離れられないと思うよ」

「ほとんどの人がそう思っていたはずです」

「それはきみもかい、ニールくん?」

「え」

「きみだってそちらから来たんだろう? きみからしたらこの世界は恐ろしく不便だったはずだ……帰りたい、とは思わないのかい?」

「それは」と僕は詰まる。


 二ヶ月――それは決して長い時間ではないだろう。僕が生きてきた二百六ヶ月の中の、たった二ヶ月だ。十七年あまりを細かく刻んでいくと、その感覚は増していく。月、日、時間、分、秒。分母の数字が大きくなっていくほど僕がこの世界で過ごした時間が短くなっていくような気がした。

 職業斡旋所で過ごしていたとき、この世界が僕の居場所になるのではないか、という期待を抱いていた。いつの間にかそんな思いを忘れていた。忘れるほどにここに慣れてしまっている。

 この世界にはワームホール生成器は存在しない。だからおそらく帰ることなどできやしないだろう。人を転移させる魔法があるらしいけれど、僕の世界まで繋がるとは思えなかった。つまり、それは僕がこの世界で骨を埋めるということに他ならない。


 それでいいのか? 帰りたくはないのか?

 自問する。

 内側から答えが返ってきたのは自問した瞬間だった。


「……帰りたくない、というより、僕はここにいたいと思っています」

「そうかい」

「なんだか、カクロさまは僕の話ばかり聞きますね。……案内しているというより、僕の自己紹介をしているような気分です」


 この一時間ほど、ずっとそうだった。ウラグからこの街の仕組みを教わっていて、釈迦に説法かもしれないが、その話を交えようとしたらカクロは拒絶した。代わりに僕の思い出を語るように指示してきた。

 初めは訝しんだ。街の領主が市民の政治に対する印象などを語るのを拒否し、思い出を語るように要求するのは普通ではない、と。だが、よく考えたら普通でないのはカンパルツォも同様で、きっとバンザッタの領主になるにはそういうずれた感性が必要なのだろうと一人で合点して語ることにしたわけだ。


「新参者の僕よりフェンとか、そうでなくても他の兵士の方々のほうがよっぽど深い思い出があると思うのですが」

「私自身もきみに興味があったし、それに伯爵に頼まれたからね」

「え」と僕は固まる。「何を、ですか」

「確認だよ」

「確認?」

「ああ、きみがこの世界を、この街をどう思っているのか、ね。素敵な言葉を聞けてよかった。口説き文句にも使えそうだよ」


 彼は、帰りたくないと言うよりきみのそばにいたい、と情感たっぷりに、空に向かって僕の言葉を改変する。急に恥ずかしくなって耳の裏側が燃えるように熱くなった。


「でも、どうして、そんなことを」

「人には帰るべき場所が必要だからだよ。人が本当に安らぎを必要としたとき、あるいはどうにもならなくなったとき、帰る場所がなければ膝を抱えて己か周囲を呪うことしかできなくなる。そうならないために……男は女性の元へと帰り、女性は男の元へと帰る。バンザッタの民はバンザッタに帰る。でも、君は別の世界の住人だ。この世界には帰るべき場所がない」

「それは、そう、ですが……」

「でも、そうじゃなかった。きみはこの街によい記憶を残している。きみにとって、この街は帰るべき場所になっていた。伯爵はそれを確認したかったんだ。今まで関わりのなかった僕を使ってね」


 じわり、と暖かい気持ちが滲んだ。そっと周囲の風景を見回す。

 この二ヶ月の間にいろんなことがあった。己の足で地面を踏みしめて様々な場所に行った。草の匂いが満ちる草原に寝たことなどなかった。人が土を掘り返して作物を収穫するのを初めて見た。破れた服を繕うなんて知らなかった。電気がなくともまともな生活を送れるなど考えもしなかった。

 こんなに無邪気に笑える自分も、それを受け入れてくれる人も向こうの世界にはいなかった。

 いつの間にか、ここは僕の街になっていたらしい。

 その実感に、どうしてか、照れくさくなって僕は頭を掻く。


「でも、どうして、カクロさまがこの役を担ったんですか? それこそ、カクロさまじゃなくてもよかったと思うのですが」

「ああ、それは私が頼んだからだよ」

「カクロさまが?」さっきは頼まれた、と言わなかったか?

「この街がどんな街か知りたい、と伯爵にお願いしたんだ。社会的な仕組みじゃなくて、人々がどう思っているか、知りたかったんだ。街を知るには老人よりも子どもに聞いた方が良い、という言葉があってね……古くから住む人が街を好いているのは当たり前だ。だが、新しく住み始めた者が好いているかどうかはわからない。だから新しい住人である君に聞きたかったんだ。――女性でないのは残念だけどね」


 大袈裟に肩を竦めたカクロの仕草に、思わず笑いが漏れた。為政者としては軽薄かもしれないが、悪い人間ではないようにも思える。


「それで、どうでした? この街は」

「素晴らしい街だね。これから私が守っていく街がこの街でよかったと心から思うよ」


 ぴゅう、と風が吹く。その冷たさにカクロは震え、それじゃ行こうか、と馬の手綱を握った。商業地区にはもっと思い出が詰まっている。喧しい朝市、職業斡旋所、イルマの店、それらを語れば彼も喜ぶだろうか。


「どうしたんだい、ニールくん。早く行こう」

「……ええ」


 僕は馬の横腹を足で叩く。ぶるる、と馬は息を吐き出し、進み始める。すぐさまカクロに並び、蹄鉄の音が重なった。


「商業地区に行ったら女性に声をかけて温かい物でも食べようか。私には及ばないけど、きみもなかなかいい物を持っている。引く手数多だよ」

「それはちょっと」

「アシュタヤには秘密にするからさ」

「え、な、なんでそれを」

「私に見抜けない愛情はないんだ」

「……冗談に聞こえないですね」

「冗談ではないからね。気をつけたまえよ。女性はしっかりと捕まえておかなければどこかへ行ってしまう。離れたくないならちゃんと掴んでおくんだ。女性を守るのは男の役目だからね」

「……肝に銘じておきます」


 僕とカクロはバンザッタの街を駆け抜けていく。

 城塞都市、紅葉する街、バンザッタを形容する言葉はたくさんある。今日、それが一つ、増えた。

 僕の過ごした街。

 どこへ行っても僕はこの街を忘れないだろう。バンザッタこそが、僕の帰るべき場所だ。様々な人と出会い、苦しみ、そして生まれて初めての恋をした街。

 バンザッタは僕の街だ。

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