第二章 融解する器
序
番兵と狩人
「開けてくれよ! 開けてくれって!」
恐怖と狼狽にかすれた男の叫びが、鉄扉を叩く音とともに響いている。
それまで小屋の中でうつらうつらと船を漕いでいた番兵は尋常ならざる気配を感じ、慌てて顔を出した。防壁の外は深い暗闇が落ちている。分厚い雲が星明かりを遮り、備え付けられた灯も数歩先を薄く照らしているだけだった。
門を叩く男は「助けてくれ」「開けてくれ」と門を叩き続けていた。番兵は溜息を吐き、槍を手に外へと出る。
「一体、どうしたってんだよ、こんな夜更けに」
「いいから開けろ! 殺されちまう!」
「殺される? 何言ってんだ」
番兵は男の背後を槍で指し示す。その先には深い闇が広がっているばかりだった。忘我して逃げ惑わなければいけないほどのものは内容に思えた。
「おい、一体何がそんなに怖いんだ? お前、夕方に魔獣を狩ってくるって息巻いてた狩人だよな? 狩りの成果もないのにどうした」
「そんなことどうでもいいだろうが! 早く中に入れてくれ!」
番兵は詳らかな説明を何度も求めたが、狩人は取り合おうとはしない。中に入れろ、とそれ以外口にしなかった。痺れを切らした番兵は槍を突きつけ、声を荒らげた。
「いいから説明しろ! 夜中は門を開けられない決まりがあることくらい知ってるだろ」
「化け物だよ!」
「……化け物?」
そのとき、遠くから獣の遠吠えが地を這うようにして届いた。遠雷にも似た音に男は滑稽なほどの怯えを見せた。
番兵の顔色が変わる。近年、魔獣の異常繁殖は著しく、王国も軍備を再編するほどに警戒を強くしている。その事実はエニツィアで暮らすものであれば言葉も覚束ない幼児どころか野犬ですら承知しているはずだった。その中には確かに得体の知れない化け物の噂もある。番兵は捨て置いてもおけなくなり、眉間に深い皺を寄せ、顎をしゃくった。
「……詰め所の中で聞く。まずはそれでいいか?」
その力強い声にいくらか平静を取り戻したのか、狩人は全身を震わせながら、ゆっくりと頷いた。
〇
麦の蒸留酒を垂らした山羊の乳から湯気が立ち上っている。机を挟んで番兵の向かいに座る狩人は恐怖に奥歯を噛みしめながらそれを啜った。油灯の光の下に浮かび上がる汚れた様相が彼の感情を雄弁に物語っていた。衣服のところどころが破れ、泥にまみれている。何度も躓いたのだろう、膝や顔には大きな擦り傷がいくつもついていた。
番兵はもはや急かさない。仮眠を取っていた若い同僚二人を叩き起こし、警戒に当たらせている。早馬の準備もさせた。今、彼がすべきことは狩人から詳しく正確な情報を得ることだ。
油灯の火が煌々と燃えている。迷い込んだ羽虫がそこに飛び込み、灰になった。
狩人は山羊の乳を飲み干してもしばらく震えていたが、待ち続けるといくらか落ち着きを取り戻し、「ああ」と小さく呻いてから蕩々と語り始めた。
「……俺が狙っていた魔獣は夜行性のやつだった。知ってるだろ、あのばかでかい、狼みたいなやつだよ、そこにも覚え書きが描かれてる。徘徊して、夜行する商隊とかをかみ殺してたやつだ。やつら、かもしれねえな――
――あいつらはおびき出しちまえば狩るのは難しくねえ。そのおびき出し方ももう知れ渡ってる。あいつらは人の肉より馬の肉を好んで食うんだ。だから少しずつ馬の血を垂らして狩り場まで連れて行くんだ。一匹になるように慎重にな。で、馬の肉を食わせているところに矢を打ち込んじまえば終いだ――
――俺もそうした。ここから少し行った街道の外れの森の中でその魔獣を見つけたんだよ。運が良かった。軍の狩り漏らしとそんなすぐに出くわすなんてな」
狩人はそこで一度言葉を切った。長い静寂の後、番兵はおもむろに訊ねる。
「……そいつが、お前の言う、化け物か?」
「そうじゃない!」
狩人は頭を抱え、半ば叫ぶようにした。橙の光が当たった顔面はなおも蒼白で、瞳孔が恐怖で開いている。彼は小さく「違う」と首を振り、強く、短く息を吐いた。
「俺が弓に矢をつがえたときだったよ、あの化け物が現れたのは」
「……一体、どんなやつだったんだ」
「男、に見えた」
「男?」番兵は聞き返す。「人間なのか?」
「知らねえよ!」
狩人が机を叩いた拍子に金属製の器が倒れた。甲高い音が転がり、地面を跳ねる。その音に、外で立っていた門番の顔が詰め所の方に向いた気配がした。
「あんなの、人間じゃねえ。人間であるはずがねえ。信じられるか? 素手の人間が、真正面から魔獣を殺したんだ」
「……魔術師だろう、珍しい話じゃない」
番兵は嘆息する。大方襲われた恐怖が頭の中で密度を増しているのだろう。戦で逃げ帰ってきた軍人にはよくある話だった。
そう合点すると狩人の話がくだらない話に思えてくる。
もう一度大きな溜息を吐いて、番兵は立ち上がった。叩き起こしてしまった同僚に申し訳ない。門の番を代わってやらなければ。
そう思って扉に手をかけた瞬間だった。
がたん、と椅子が倒れた。
狩人が足に縋り付いてくる。その必死さに番兵の身体が固まった。
「おいおい、なんだよ、いい加減にしてくれ!」
「違う、違う、違う! あれは魔法じゃない。俺だって隠密の魔法を使える人間だ。魔力を使った攻撃かなんてすぐに分かる! あれには一切の魔法の痕跡はなかった! それどころかあいつには魔力なんて一切なかった! 信じられるか? 人間ならあるはずの魔力が何もなかったんだ!」
「……何をしたんだ?」
番兵は再び狼狽し始めた狩人に目を瞠り、唾を飲み込む。どれだけの恐怖を味わったというのだろうか。暴漢に襲われた処女でもここまで取り乱さないだろう。だというのに、成人した息子がいてもおかしくはないほどの年齢の男が恐怖で涙をこぼしている。
風の音が鳴る。
そのかすかな音にすら、狩人は萎縮し、短い悲鳴を上げた。
番兵はしゃがみ込み、狩人の肩を掴み、揺らした。
「何を、したんだ!」
「……あいつがやったのはただ一つだけさ。腕を振ったんだ」
「腕?」
「そうだよ。あいつは、さっと、顔面に向かって飛んできた虫を払うような仕草で腕を振った。袖が動いたのが見えたんだよ。そうしたらどうなったと思う?」狩人は狂ったかのように小さく笑った。「首がなくなったんだ」
「……なくなった?」
ぞくり、と冷たい刃物を突きつけられた気がして、番兵は横目で外を見た。
深い闇がさざめいている。
「十歩以上離れた魔獣の首が、まるで人形みてえに落ちた。それからあいつは魔獣に近づいて、噴き出した血を浴びたんだ。そしたら、今度は勝手に獣の身体が手の形に抉れた」
そんな魔法は、と番兵は小さく言う。詠唱や魔法陣を使わずに、ただ腕を振るうだけで、しかも直接的に相手を傷つける魔法など存在しない。
遠くから獣のうなり声が響いた。びくり、と番兵の身体が跳ねる。早馬を走らせなければいけない事態なのではないか、と厩舎をちらりと覗く。
腹の底からじわじわと昇ってくる恐怖をごまかそうと、番兵は唾を飲み込んだ。
狩人は奇怪な笑い声を漏らしながら、続ける。
「……あいつはそれだけの所業をガキの使いみてえにこなして、笑ったんだよ。……なあ、あいつはなんなんだ? 俺の知らない魔法を使っていただけか? それとも、人間の形をしただけの魔獣か? 俺にはわからねえんだ。わからねえんだよ……、あれは一体、なんなんだ?」
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