罪人のレプリカ

カスイ漁池

第一章 拙い腕と手のひらの温度 

  0 レプリカ

 どこかに行きたい、だとか、何かになりたい、だとか曖昧に夢見ていたのが悪かったのだろうか。


 天井から床までほぼすべてが白で覆われている、だだっ広い空間。清浄さよりも無機質さを強調するその色に実験動物にされたかのような錯覚に陥った。心許なさに身を揺すると露出している手と襟や袖の青だけが動く。学校の制服が白を基調としているせいで胴体の部分が床の色と同化しており、身体の感覚をさらにあやふやにした。


 日常は三十分で消える。

 学校から車でおよそ三十分、今、僕が一人立たされているのは国立超能力研究所の一室だった。舌を出したくなるほど抽象的な名前だが、この国でもっとも重要な機関であるのは間違いなく、そんな気分にもなれなかった。

 聞こえてくるのは心音と空調の低い唸りだけだ。身体の内側から湧いてきた恐怖や緊張がその音と混ざり、心細さの質量が増した。僕は唇を噛みしめ、左の壁へと目を向ける。高さ五メートルほどの地点に窓があり、小部屋の中に三人の姿が見えた。科学者らしき白衣を身につけた男女と、僕をここまで連れてきた政府高官だ。平静を装っているものの、彼らの表情からは隠しきれないほどの興奮が滲み出ていた。


 ああ。

 僕は呻き、自覚する。

 錯覚ではないのだ。彼らにとって僕は器具であり、実験動物に過ぎない。その事実に気付いた瞬間、身体が重くなり、彼らの上擦った笑顔を直視することができなくなった。俯き、目を瞑る。するとどこかにあるスピーカーから擦れるような音が響いた。すぐあとに政府高官の高圧的な声が降ってくる。


「さて、これから瞬間移動実験を開始する。手順は説明したとおりだ」


 説明? あれが、ですか?

 道中で受けた言葉の羅列を思い出し、笑いが漏れそうになった。

 これから出てくる装置に力を流し込む、するとワームホールが生まれる、その中に入ると僕の身体が五キロメートル離れた場所に転移する。

 それだけが、僕に与えられた命令だった。

 たったそれだけ。

 政府高官の説明は出来の悪い絵描き歌のようで、理解する余地など少しもなかった。


 そもそも超能力養成課程へと視察に訪れ、僕を呼び出し、超能力を動力とするリムジンへと乗せるまで、彼は挨拶すら口にしていなかったのだ。拒否の選択肢を取る段階にまで到達しないよう、丁寧に無視を繰り返して意見や疑問を封殺する。そうやって社会的な立場を振りかざせば誰もが黙ることを、きっと彼は十分に承知していた。

 また、車の中でも政府高官が発した言葉は少なかった。その言葉も明確に投げかけられたわけではない。適当に放り捨てられたものを僕が必死になって拾っただけだ。

 説明以外に僕が手に入れられた理解は三つしかない。


 成績ではなく、数値を見て僕を選んだこと。

 超能力を抑制する装置類は取り除かれること。

 超能力養成課程の制服にはさまざまな耐性があり、準備にはそれほど時間はかからないこと。


 以降、隙間を埋めるように彼が述べたこの国の歴史だとかはいきすぎた賛美に塗れ、手に取る気にもなれなかった。世界をリードしてきたこの国は超能力の分野においても先頭を走っている、だとか、瞬間移動を獲得することによってさらなる強固な覇権を握ることができる、だとか、それらはきっと事実ではあって、僕もそのおかげで生まれ育ったのは間違いがないのだけれど、賛同して手を握るほどの感謝はなかった。

 

「レプリカくん」と政府高官は、居丈高に僕を呼んだ。僕の、侮蔑的なミドルネームを、呼んだ。反応はしたくはなかったが、顔を上げる。彼は書類を確認する傍ら、事務的な口調で続けた。


「きみは今日、歴史的な人物になる。世界で初めて瞬間移動を成し遂げた人物としてね……教科書にも載るかもしれない。さあ、こちらの準備は整った。準備はいいね」

「……はい」


 嘘だ、準備などできていない。

 だが、僕に許されている言葉はそれしかなかった。政府高官は満足げに頷き、指示を出す。わずかな空白の後、足下が揺れ始めた。目の前の床が放射状に割れ、人一人以上はある金属製の球体がせり出してくる。目の前、一メートルのところに現れたその装置はたっぷり十秒ほどもかけて上昇し、やがて動きを止めた。

 球体とそれを支える四つの柱。至るところにチューブが蔦のように絡みついている。球体の中央に埋め込まれているのは触媒の入ったガラスシリンダーだ。暗い青色に僕の顔が反射していた。自信なさげな顔も金色の紙も、すべてがその色に同化して揺れていた。


 人工的な不穏さに胸の内側が凍りついていくような気がする。唾を飲み込もうとするが、うまくいかない。

 政府高官は今、「歴史的な人物になり、教科書に載るかもしれない」と言った。だが、僕にはそれが喜ぶべきことには思えなかった。誰がクラスメイトや先生たちにつけられた蔑称を広められて歓迎するというのだろう。サイコキネシスしか使えない出来損ない、超能力者の模造品――力はあっても操作が覚束なくて、いつからか僕自身もそう名乗るようになってしまっていたが、その名前を喜んだことは一度もなかった。


 それに――ここが僕の望んだどこかではないの同様に、僕がなりたかった何かは歴史的な人物などではないのだ。


 そう口にしようとしたとき、冷たい号令が響いた。

 さあ、始めろ。

 僕は溜息を吐き、触媒を睨む。しかし、不安が身体を縛り付けている。力を送った途端、ガラスが砕け、液体に身体を飲み込まれるような気がしてならなかった。質量を増やした液体に閉じ込められ、肌を蝕まれながら毒に溺れる自分の姿がぶわりと想起される。

 根拠のない妄想だ。そんなはずはない。

 けれど、考えるだけで僕の肌は痛覚を伴って溶けていくように感じた。皮膚を爛れさせ、筋肉を分解し、骨を蒸発させる、その姿が目の前に見える。身体の至る所が痒くなり、耐えきれず、必死になって腕を擦った。昼休み、クラスメイトに蹴られた鼻が痛み、顔を伏せる。


「どうした、早く」


 ――ああ、どこかに行きたい。こんなふうに蔑ろにされない場所へ。

 僕は奥歯を噛みしめ、超能力を発動させる。制御装置を外されたサイコキネシスは一度強く暴れたが、吸い込まれるように触媒の中に入り込んでいった。

 光が、爆発する。

 目が眩み、次の瞬間、僕の身体はエネルギーの奔流に吹き飛ばされていた。背中に二度、衝撃が走る。何が起こったか理解できず、必死にもがく。這々の体で顔を上げ、球体を見つめるとそこには黒い穴が生まれていた。

 呆然とする僕へと、気の抜けた歓声が降ってくる。


「起動しました!」

「素晴らしい、レプリカくん! きみは今、私たちの世界を――」

 彼の言葉はそこで途切れた。代わりに女性の、慌てた声が聞こえた。

「計器が異常な数値を示しています! 制御できません!」

「おい、どういうことだ」

「分かりません、避難を――」


 避難?

 その一言で思考が真っ白になった。目の前には歪に膨張を続けている黒い穴がある。僕は必死に立ち上がり、出口へと向けて走った。白い壁の切れ目。そこまで辿りついて、愕然とする。

 機械で制御されている扉には取っ手など、なかった。

 隙間に指を差し込もうとするがびくともしない。爪が剥がれかけ、痛みに手を引く。


「開けてくれ! 僕も――」


 そして、後ろを振り向いたとき、乾いた笑いが漏れた。

 もうそこからは政府高官たちがいる小部屋を見ることはできなかったからだ。目の前にあるのは僕へと向かって触手を伸ばしてくる、巨大なワームホールだけだった。

 スピーカーから勝手な言葉が雪崩のように落ちてくる。

「止めろ、それくらいできるだろう!」「あんた、生まれついての超能力者なんでしょ!」「なんのために今まで学校に通わせてもらってたんだ!」


 やめてくれ、僕は力だけしかない無能な「レプリカ」だ、あなたたちも知っていたじゃないか!

 そう反論しようとしたとき、膝から力が抜け、がくんと視点が下がった。

 いや、違う。足がワームホールに飲み込まれているのだ。ずぶずぶと下半身が沈んでいく。既に腰から下の感覚が消えていた。

 その認識とともに押さえつけていた恐怖が弾けた。僕はめちゃくちゃな声を上げ、助けを求める。なんとか這い出そうと床に手を伸ばしたが、その瞬間、腕すらも黒の中に沈んだ。


 ああ、神さま、どうか僕をお救いください。この、卑しい生まれのニール=レプリカ・オブライエンをどうか――


 呟きすらも飲み込まれる。全身が穴の中に浸る。そして、僕は虫喰い穴の、残酷なまでにあっさりとした収束を目にした。


    〇


 真っ暗な空間の中で、不思議と意識だけははっきりとしていた。周囲には何もない。いるのは僕だけだ。

 もしかしたらあっさりと目標地点に着くかもしれない。

 あまりにも楽観的な考えであると認めながら、僕はそれに縋った。そうしなければ堪えられそうになかったからだ。膝を抱え、何もない場所を眺め続ける。

 変化が訪れたのは間もなくのことだった。

 黒よりも深い闇が分解され、極彩色へと変わっていく。球形の虹が絶え間なく降る光景に、僕は不思議な安堵感を覚え、目を瞑った。

 同時に冷たい風が頬を撫でる。

 瞼を上げ――その瞬間、困惑した。


 僕がいたのは深い暗闇が落ちた、広い草原だった。空には星々が輝いている。空気が澄んでいるのか、やけにはっきりと光が見えた。

 ここが目標地点なのか?

 その考えもすぐに振り払う。移動するのは五キロメートルだけ、という説明はあった。それでは時差など生じるはずがないし、だいいち風の冷たさが春のものではない。露出している顔や手が寒くてたまらなかった。

 そっと立ち上がり、振り向いてみる。どこまで続いているか分からない鬱蒼とした森があり、獣のうなり声が聞こえて恐ろしくなり、思わず離れた。周囲には灯りなどなく、どうしようもない寂寞に声が漏れた。


「どこだ、ここ……」


 応える人など誰もおらず、呟きは風に攪拌されてすぐに消えていってしまった。

 混乱が飽和して、何も考えられなくなる。その場に留まることだけはできそうになく、僕は適当に歩を進めた。すぐに足下の感触が変わる。暗闇で分かりづらく、這いつくばって地面を凝視すると明確な草の切れ目があり、それが遠くへと続いていることがわかった。

 道だ。

 素朴な人工物に心が揺れる。これを辿っていけば人がいるに違いない。あまりの心細さに僕は足を速めた。道を外れそうになって、少しだけ慎重になった。


 ――それからどれだけ歩いただろうか。

 暗闇のせいで周囲の風景は一向に変わらず、僕の心はすっかり萎えていた。一度休んで、日が昇ってからの方がいいかもしれない。脳内に埋め込まれている通信装置を起動させたが応答はなく、さすがに途方に暮れてしまった。

 草の上に大の字になり、空を見上げる。まさかあの中に地球がある、なんてことはないだろう。そんな絶望的な事態などまっぴらごめんだ。

 荒唐無稽な想像を振り払うため、僕は寝返りを打った。地面に耳をつける。すると、規則正しく地面を叩く音が聞こえた。反射的に起き上がり、目を凝らすと闇の中、何か塊が走ってきているのが辛うじて見えた。

 車ではない、むしろ何か生き物のような――そこまで思い当たったところで素っ頓狂な声が漏れる。


「……馬車?」


 ずいぶん時代錯誤な乗り物だ。しかし、幸運であることは間違いない。立ち上がり、手を振って、「おーい」と声を出した。接近してくる馬車は少しずつ速度を落とし、僕の目の前で止まった。御者台に座った、赤い髪の男が訝しげに睨んでくる。


「あの、すみません、ここは――」

「――――」

「え」

「――――――?」


 男が何か言っている。だが、耳にも頭にもその内容は入らなかった。僕はこめかみに手を当て、脳内の翻訳装置の確認をする。翻訳装置は正常に作動していた。

 地球上のあらゆる言語を網羅しているはずの装置が、学習を始めている。

 待ってくれ……ちょっと待ってくれ! 

 狼狽に声が出ない。男がまだ何か喋っている。頭の中にあったのは有名な超能力者が口にした言葉だけだった。


 物理法則なんて表出した「きまり」に過ぎない。

 ちょっと別次元から干渉すれば簡単に覆る。そうなるとこの世界にある理が大きく揺れ動くのだ、と。超能力が発見されて以来、僕たち人間は、この世界が思ったよりもいい加減にできていることに気がついた。

 この世界がいい加減なら――僕は今、どこにいるのだ?

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