六、狂信

タルティーニ神父はティルに言われた事を確かめるために、ハルモニア大聖堂に参じていた。大聖堂の裏側にある聖職者達が住まう宮殿の中で、高位聖職者に充てがわれている一室。そこで鼻筋の通った背の高い司教と話していた。

「ランドルフィ猊下。音狂いが多発しているのはマリユス教が関与しているのではと訝しがる意見があるのですが」

 ランドルフィと呼ばれた男はタルティーニ神父より年下だが高位聖職者である枢機卿の一人だ。タルティーニ神父は役職の権威に怖気づくことなくそのまま訊けるのは年の功

だろうか。

「一体その様な世迷言を誰から聞いたのだ」

 ランドルフィ神父は少し顔を顰めて呆れるように言った。

「音狂いの多さに不安がっている信者からでございます。その場は我が教団の調律師が場を収めのですが、納得のいく理由がないと、このような不安は治まらないのでは」

 ティルの名を伏せるのはタルティーニ神父も心得ている。だが信者が不安がっているのも事実であり、嘘ではない。

「ふむ。貴殿が心配するのは最もだ。だが主神マリユスに仕える使徒たる我々が、そのような冒涜をするようなことがあると思うか?」

「あってはならぬ事だと思います。我々は音楽を愛し、音の乱れを整え、人々に心の安定を与えるために日々尽力しております。そういった不安を持つものが現れると言う事は我々が至らないからであります。故にこの事態についてランドルフィ猊下は何かご存知ではないかと」

「いいや。知っての通り音狂いや聖音域については未知の部分が多すぎる。音狂いの増加についても調べてはいる。とにかくマリユス教が音狂いを誘発している事は断じてない。安心して教えを人々に説きなさい」

「はい」

 タルティーニ神父はこれ以上深く聞けないと判断し、枢機卿の部屋を後にした。

どうしたものかと悩んだが、そのままティルに伝えればいいだろうと思いながらハルモニア大聖堂の回廊を歩いていると、見慣れない司教が目についた。タルティーニ神父は何十年もマリユス教の使徒として教えを説いているので、大抵の顔は覚えていた。気になったのでその者の後をつけることにした。男は少し周囲を気にしながら歩き、宮殿と聖堂の間にある建物の一室に入っていった。

「写本室か」

 タルティーニ神父はノックをしてから静かに中へ入った。

部屋に入っても誰もいない。中を注意深く見まわってみると、本棚と本棚の間に微かな亀裂があった。それを少し押してみると扉のように開いた。

「何時の間にこんな物が」

 中は下へ下る階段が暗闇の中へ続いている。タルティーニ神父は壁を触りながら一段一段確かめるように降りた。

 階段を降り切ると奥に明かりが見える。冷たく淀んだ空気の中を進むと開けた場所にでた。

その中央には円陣が描かれており、古代文字が規則正しく配置されていて鼓動するように赤黒く光っている。

「な……なんだこれは」

「音狂いを現界させるためのものだよ」

 その声に驚いて振り返ると、背後にランドルフィ神父が立っていた。そして威圧するようにタルティーニ神父を見下ろしていた。

「捕らえろ」

 重く響く声が響いた。その命令に従い奥から数人出てきてタルティーニ神父の両手を掴んだ。さっき見た見慣れない司教もそこにいた。タルティーニ神父は年齢的なものもあってこの状況から逃げ出すのは困難と判断し、抵抗せずに掴まれた腕の力を抜いた。

「猊下。いったい何をしようとしておられるのか」

 タルティーニ神父はランドルフィ神父を睨みつけた。その視線にも全く動じずに落ち着いてランドルフィ神父は答えた。

「今言っただろう。音狂いを現界させるのだよ。これは調奏陣と言うものだ。聖音域とこちらの世界を繋げる秘術だ。この本を解読して私が創り上げた。どうだ美しいだろう」

 手に持っている本を開いてタルティーニ神父に見せた。

「聖音域から音狂いを現界させてどうする気ですか」

 ランドルフィ神父は本を閉じてゆっくりと調奏陣の近くまで歩いた。役者が悪役の演技をするように悦に浸った仕草をして、ねっとりと話し始めた。

「人間というのはあまりにも愚かなのだ。その愚かな者達を崇高な音楽で矯正させ、愚かな思想を生み出さないようにせねば。そのためにマリユス教が存在する。賢い我々がいるのだ。信仰に厚き信者達は本当に尊い。規律を守り、マリユス神を敬い、友愛の下で助けあって生きている。それなのにこの国の王はときたら。争いは止めず、マリユス教にも入信せず、軍事を拡大してばかりだ。そしてマリユス教でない人間で調律師団を作る始末だ。その様な愚か者たちに制裁を加えねばなるまい? この音狂いを利用すればそれも容易い」

「黙りなさい! お主の思想は単なる独裁でしかない。音楽の神を冒涜する行為。聖音域を犯し、音狂いの被害を拡大させた罪は重いですぞ」

 ランドルフィ神父は鼻で笑った。

「罪か……。マリユス教の使徒たる貴殿が私を裁くか? 音狂いなど取るに足らない小事にすぎぬ。我が行いはマリユス教の教えに準ずる聖なる徳だ」

「この事は教皇は存じているのか。いいや、お主の独断だな」

「もちろん発端は私だが、私の呼びかけに応じてくれた司教もいるぞ」

 暗がりから更に数人の男たちが現れた。

「何故じゃ。目を覚ますのだ。この様な慢心は主神マリユス様がお許しになる筈がなかろう――むぐぅ」

 司教の一人がタルティーニ神父の口に布を当てた。

「敬虔な使徒を殺したりはせぬ。だが大事な儀式の事を他の者に知られてはならないのでな。暫くじっとしていてもらおう」

 薬を嗅がされたタルティーニ神父の視界は暗転した。


 ティルに言われてから日が暮れるまで、セリアは貧しい人達の音狂いの治療をしていた。休まず調律したお陰でここら辺一帯の音狂いの人を治すことが出来たし経験も積めた。しかしまだ程度の軽い音狂いの人達は沢山いる。

 貧しい区域は犯罪が多発し、陰湿なイメージをセリアは持っていたが、此処の人達は少しガラが悪いだけで人々の結束は固く、義理人情は厚い。セリアの仕事に対して皆が感謝し、良くしてくれた。

 セリアが疲れてるのを見て、今日はもう大丈夫だからと、治療を見ていた人から言われ、セリアとアネットは宿の風見鶏に戻ることにした。

「うぅ疲れた」

(おいらも限界)

(コルも疲れるの?)

(契約したからな。あねごが疲れれば疲れるよ)

 ヨタヨタした足取りで風見鶏まで戻ってきてドアを開けた。

「なんだセリアじゃないか。ティルはどうしたんだ」

「ティルはお城の図書館に居ると思います。取り敢えず此処に宿を取っておいてと」

「はーん。なんだか大変そうだな。アネットって言ってたな。そっちはどうする」

「そうですね……私は一度お城に戻ります」

「分かった。じゃあ通常料金で二人――っと」

「それじゃあ私はこれで。明日またこちらに伺いますので」

 アネットがお辞儀をして出ていこうとした所でティルが風見鶏に入ってきた。

「うぅ……疲れた。あぁセリア、もう宿はとった?」

「ちゃんと取りましたよ。なんです。調べ物するだけでそんなに疲れるんですか」

「まぁね。あっ!アネット、ちょっと待ってて」

ティルはカウンターにある紙とペンを勝手にとって何か書き始めた。

「セリア、何人調律した?」

「え?……確か十人ほど」

「よし。これ、ダリオに渡しておいて」

 書いた紙をアネットに渡した。

「畏まりました」

 アネットはその紙を大事に懐へ仕舞って、再びお辞儀をしてから風見鶏を出ていった。

 セリアは何を書いていたのか少し考えて気がついた。

「あ! ティル、国に請求する気ですね」

「そうだけど、問題ないでしょ。正当な対価さ。そもそも国の調律師だし」

「……まさか自分がやったって事にするつもりですか」

「流石にそこまでしないよ。弟子にも報酬をくれてやれとお願いしただけ。明日も頼むよ」

 セリアは納得がいかなかった。エリクはトントンとカウンターを人差し指で叩いて宿代をティルではなくセリアに頼んでいる。報酬が入るんだから通常料金でも安いもんだろと言いたげだった。

 セリアは溜息を吐いて宿代を支払った。

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