五、マリユス教

 城下街は相変わらず賑わっている。そしてマリユス教の調律師もそれに紛れて目に入る。

 ティルは然程気にせず街を懐かしむように歩いていた。

「なんでお城に泊まらなかったのですか?」

「堅っ苦しい所は苦手だよ。なに?お城に泊まりたかったの?」

「そういう訳ではありませんが、ただ宿代が浮くなぁ……と思っただけです」

「まぁまぁ。城下の方が都合がいいんだ」

「都合がいい?」

「自由が利くって感じかな。それに宿代だったら唯にしてくれるかも知れないよ」

 当てがあるのだろうか。ティルは大通りから少し外れた通りに入った。暫く行くと小ぢんまりとした宿があった。看板には『風見鶏』と書かれている。扉を開けるとチリリンとベルが鳴った。

「いらっしゃい」

「やぁエリク」

「おー、ティルじゃねーか。久し振りだなぁ。何時戻ってきたんだ?」

「今日の昼頃さ。それより部屋空いてるかい?」

「空いてるよ」

 エリクはそう言った後にセリアに気がついた。

「そっちの人は?」

「あぁ。僕の弟子だよ」

 セリアはフードを上げて自己紹介した。

「セリアです。以後お見知りおきを」

 セリアの容姿を見てエリクは鳩に豆鉄砲を食らったような表情をした。

「驚いた。こんな綺麗な娘は見た事ないな」

 エリクが述べた感想は素直で、クラウスのような下心は無さそうだ。エリクはティルに向き直ってからかった。

「ティル……。お前誘拐とかしてんじゃねーだろうな」

「してないよ。クラウスといいお前といい、変な解釈ばかりしないでよ」

「冗談だって。それよりどのくらい居るんだ?」

「とりあえず一泊で」

「二人で前金五千ゼサ」

「そこはさぁ、昔馴染みと会えたという事で宿代は……」

エリクは腕を組んで深刻な表情をして考えた。自分の中で議論し、納得して頷いた後答えを出した。

「君の可愛い弟子に免じて半額にしといてやろう」

「半額……かぁ~」

「なんだ不満そうだな。そもそもお前は城に自室があるだろう。城にはない庶民的なご馳走を食わせてやるからそれぐらい払え」

「う~」

 ティルが唸ってる横からセリアが銅貨1枚と鈴玉を一つを取り出してカウンターに置いた。

「いいじゃないですか。場所を考えてもかなり安い値段なのに、さらに半額にしていただいたんです。素直に恩を受けましょう」

「あ。綺麗だとか煽てられたからだな」

 セリアはティルの言葉を無視して目を瞑ってすましている。

 エリクは笑顔で「まいど」と言ってお金を鍵のついた引き出しに仕舞った。そしてカウンターの奥に呼びかけた。

「リアナ!」

 名前を呼ばれた女性が奥から出てきた。ティルは雇えるほど繁盛しているのかと思って心配するようにエリクに聞いた。

「人を雇ったのかい?」

「へへ、カミさんだよ。ついこの間結婚したんだ」

 デレデレににやけたエリクが奥さんを紹介した。

 リアナと呼ばれた人は微笑んでお辞儀をした。口数の少ない人の様だ。かえってその美しさが際立つ。セリアはエリクの言葉に変な思いが全く感じなかった事を理解した。この人にとって愛する人こそ最も美しい女性なのだろう。

「結婚おめでとう。僕達悪友同士の中ではお前が一番最初か?」

「そうなるな。彼女のお陰でこの宿が潰れずに済んだようなもんだ。一人で切り盛りするのも限界を感じてた所だったからな。リアナ、二人を部屋に」

「ええ。どうぞこちらへ」

 案内された部屋は二階の奥。思っていたより広い。エリクの謀らいでいい部屋を用意してくれたに違いない。

 ティルはベッドに腰掛けて、セリアは窓際の椅子に腰掛けた。ようやく落ち着けた感じがする。疲れている所為もあるのかも知れないが沈黙が流れた。外からはたまに子供達がはしゃぐ声が聞こえてきたりする。こういう時は大抵沈黙に耐えられないティルの方から話しかけてくるはずなのに、珍しく黙っている。

 少し気まずくなったので、セリアの方から口を開いた。

「そう言えばティルはもともとお城の人みたいでしたね」

「あぁ……。まぁ一応貴族という血に縛られた連中の一員ではあったな」

 貴族の生まれであること自体が罪悪であるような言い方をして、手を後ろについて天井を見た。

「安心して下さい。誰もティルを見て貴族だとは思いませんよ。少し前までは浮浪者にしか見えませんでした。今は唯の調律師にしか見えません」

「そう言って貰えると気が楽になるよ。セリアも立派な調律師に見えるよ。見てくれはね」

「……一言多いです」 

 なんだか会話が続かない。

 ――再び沈黙。

 日は段々傾いて、夕方の陽の光が部屋を赤く染めた。ティルは自分からは喋ろうとしない。セリアはなんとか話題を見つけて話しかけた。

「城の中庭で音叉を聞いていたようですけど、聖音域に入っていたんですか」

「ああ、あそこは落ち着くんだ」

「でも意識は聖音域の中なんですよね。私が近づいた時にティルは私に気づいたみたいですけど」

「慣れると聖音域の外にも意識を保てるんだ。だけど流石に身体を動かすのは難しいから、聖音域に入っている時には注意しないとだめだよ」

「はい……」

 聖音域で何をしていたかと聞こうとしたが会話が終わってしまった。沈黙にならないようセリアは話題を変えた。

「お友達が多いんですね。クラウスさんにエリクさん」

「ああ。悪友同士さ。もう一人フェリクスと四人で小さい頃はよくつるんで遊んださ」

「フェリクスって……王様!?」

「そうだよ。僕と二人で城を抜けだしてね。あっちこっちイタズラをして街をうろついてたらクラウスとエリクに会って、みんなでイタズラをして楽しんでたね」

「イタズラもまずいですけど、王様を連れ出すのはかなりまずいんじゃ……」

「そりゃそうさ。だけど当時は王子だったし、それにスリルがあるんだよ。あいつも楽しそうだった。「見聞を広めるためだ」なんて言ってたな。でもまぁそういう事は子供のうちだけ許されるのかな。成長していくにつれて各々の道を進んでいくことになるわけさ。クラウスは騎士。エリクは親の仕事を継いで宿屋、フェリクスは王位を継ぐためにいろいろと頑張ってたな。そして僕は調律師」

「ティルは……何で調律師になったんですか」

「何で……か。考えてみると理由は沢山々あるなぁ。親を音狂いで亡くした事もあったし、貴族という立場も嫌だった。音楽家でも良かったんだけど音狂いが発生する聖音域に興味が湧いたんだ。音の乱れによって人が混乱する仕組みを解明したくてね。それでマリユス教に入信して調律師に成るために勉強したよ。でも破門されちゃったけどね」

「破門……ですか」

「そう。教団の秘蔵書まで読み漁ってたから。まぁ、破門されても大したことないよ。もともと肌に合わなかったから未練なんてなかったし。流しで調律をやろうと決めた時、先王フェルナンド五世が亡くなって、あいつが王位を継いだんだ。そしたら丁度国直属の調律師団を作ろうとしてるから俺の所に来いって呼ばれたのさ」

「何故王様はマリユス教に調律師が居るのに国直属の調律師団を組織したのですか」

「国民に王の権威が教会より下に見られる訳にはいかない。調律や音狂いについて知っておかないと、それらを理由にマリユス教から何らかの要望が突き付けられるかも知れない。そういった状況を作らないためさ。それにマリユス教の内情が把握し安くなる」

「調律師団と言ってましたけど、国に認められている調律師は他にいたんですね」

「あぁ。僕を含めて5人居るんだけど、殆ど単独で動いているな。なんか諜報部も兼ねている気がする。各自それぞれの命を受けて世界に散ってるよ。僕の命令は音狂いの治療、原因究明と聖音域について。それと辺境の調査。フェリクスの職権乱用ってやつかな。僕の思いを汲んで謀らってもらった」

「なんだか教会の調律師がやることとあまり変わりませんね」

「そうでもないよ。マリユス教に居た頃は音狂いの究明とか正音域について調べることは高位の聖職者にしか許されていなかったんだ」

「何故です?」

「知らないよ。たぶん研究は高尚なものであると言いたいのかもね。ま、それで僕はアストリア国の調律師として放浪する事になったわけさ」

 セリアは今まで弟子としてついていたけれど、ティルが調律師になった経緯は初めて聞いた。

 これを期に自分が覚えている最初の記憶や、ゴッツの家で見た夢の事もティルに聞いみようかと思った。セリアはボロボロで行き倒れていた所をティルが拾って弟子にしたと本人から聞かされてはいるが、記憶が残っている部分と照らし合わしてみても違和感がある。

出会う前の期間、ティルは何をしていたのだろう。その事を聞いてみようと思った時、ティルが何か喋ろうと小さく息を吸った。だがその言葉を発するのを遮るかようにドアのノックが鳴った。

「夕飯をお持ちしました」

 リアナが食事を運んできた。この宿は食事を部屋まで運んで来てくれるようだ。一階には食堂らしいものは見当たらなかったのは構造的なものもあるかも知れない。

ティルはベッドから立ち上がってドアを開けた。

「やぁ。待ってたよ~。お腹ペコペコ」

 さっきまで少ししんみりしていたのに一瞬で元のティルに戻った。

 リアナは持ってきた大きめの鍋をテーブルに置き、腕に掛けていたパンの入ったバスケットを横に置いた。肩に下げていた布の袋から食器を手早く出して食事の用意をした。鍋の蓋を取ると真っ白い湯気が溢れて、それが薄くなると肉や野菜が沢山煮こまれた中身が見える。キャセロールという煮込み料理だ。

「お肉多めに入れておきましたよ。『あいつはよく食うから沢山入れてやれ』ってエリクが」

「気前がいいなぁ。ありがとうって伝えておいてね」

「はい。食べ終わる頃に食器を下げに来ますね」

 リアナは礼をして部屋を出ていった。

 食事中はいつも通りティルからセリアに話しかけた。子供の時にやっていたイタズラの内容やマリユス教に居た頃の教団の仕来たりとかを話してくれた。

 セリアは適当に返しながらも普段通りの会話に安心した。この雰囲気を壊したくはないと思って、自分の過去の事を聞くのは止めておいた。

 食事を終えてほどなくして、リアナが食器を下げに来た。ここまで献身的に仕事をされてしまうと少し申し訳なくなってしまう。

「御飯も食べたし、明日からは調律の仕事が大変になるだろうから今日はもう寝ようか」

「……そうですね」

 ティルは直ぐに布団に潜り込んでしまった。セリアはいくら何でも早過ぎると思ったが、起きていても特にすることがないのでセリアは少し考えて同意した。

「じゃあおやすみ」

「おやすみなさい」

セリアは壁に掛けられているランプの明かりを消した。


 深夜。セリアは微かな物音で目が覚めた。そして毛布の中でナイフを構えた。

その音は賊ではなくティルのようだ。ティルがこっそりと部屋を抜け出したのだ。もう寝ようと言ったのはこの為かとセリアは思ったが、ティルの行き先に見当がつかなかった。考えても仕方ないので再び眠りについた。

 ティルは宿を出ると、城の東側の方へ向かった。ゼーフェルトの中心街は夜でも賑わいを見せている。そこを通り越してさらに入り組んだ通りを進み、所々廃墟がある荒地に出た。ゼーフェルトを囲っている城壁がすぐそこに見える。廃墟が幾つかある中でも壁よりの建物の中に入っていった。


 建物はかなり崩れており、地下室から下水道へ降りられるようだ。ティルは何度も来たことがあるようで、ヒョイッとテンポよく瓦礫を下っていった。

下水道は水の音が聞こえるだけで真っ暗だ。ティルは懐から小型ランプを取り出して火をつけた。水は街の中心から城壁の下を通って外へ流れるようになっている。もちろん外敵の侵入を防ぐために頑丈な鉄格子がしてあったり、所々人が通れないように細くなっていたりする。ティルはそれらを避けながら下水道を進んだ。

 右へ行ったり左へ行ったり幾つもある曲がり角を何度も通り越して、直進が長く続く通路へ出た。その通路の壁を丹念に調べ始めた。何かを探しているようだ。

「あった」

ティルは探していた物を見つけて声を出した。手でその場所を軽く押すと中に鎖が垂れ下がっている。それを下に引くと横の壁の一部が徐々に奥へ開いた。隠し通路だ。中は狭い通路が真っ直ぐに城の方へ向かっている。

 ティルはその中へスルっと入り、中から静かに隠し通路の扉を閉じた。


 王の寝室ではフェリクスニ世がテーブルの上に二人分のグラスを置いて酒を注いでいた。

「そろそろか……」

 そう呟いた後に壁から二回ノックが聞こえ、少し間があって一回鳴った。

 フェリクス二世は部屋の脇にある獅子の彫刻が施された支柱に近づき、獅子の口の中に手を入れた。そして中にあるレバーを捻った。

 すると天蓋付きのベットの裏側の壁が奥側へずれて、中からティルが出てきた。

「やぁ!」

「ふん。呼んだのは俺の方だからな。まったく、隠し通路を私用で使う愚か者はお前ぐらいだ」

「王様に呼ばれたんだから私用じゃないだろ? まぁ呼ばれなくてもここ使って来たけどね。それより子供の時決めた合図、案外使えるね」

 ティルはフェリクス二世が玉座に座っている時、セリアが癖のようなものかと思った仕草を真似た。

「なんとなくやってみたがガキの頃を思い出したぜ。お前が忘れてたらどうしようかと思ったぞ」

 お互い軽く笑ったあと肩を叩き合った。

「久し振りだな」

 そう言ってフェリクス二世がティルに席を勧めようとしたが、ティルは勝手知ったる我が家のようになんの気兼ねもなく席に座った。

「僕のためにいいお酒を用意してくれるなんてね。明日は大雪かも知れない」

「言ってろ」

 フェリクス二世も席について、すでにグラスを掲げているティルに応じて乾杯の音頭を取った。

「友との再会に――乾杯。」

 二人共一気にグラスを空にした。

「おぉ~。これはまた格別だな。芳醇な葡萄の香りと歴史に埋もれた本を読み解く時のような難解な渋みが舌を楽しませてくれるよ」

「詩人みたいな評論はいらん」

 ティルが脇においてあったボトルを取って空になった二つのグラスに波々と注いだ。「ティル。タダで良い酒が飲めると思うなよ。今日は聞きたいことが山ほどあるからな。全部話してもらうぞ。まずは……そうだな。お前に音狂いの原因を突き止めさせる為に国外へやってから五年ぐらいになるが、音狂いの元凶は分かったのか」

「う~ん、どうかな。だけど手がかりは見つけたよ」

「ほぅ」

 ティルは懐から古い本を取り出した。山羊の皮で表紙が作られていて、花柄の金箔押しがしてある豪華な本だ。今では紙が主流だが、当時は羊皮紙やパピ

ルスが主に使われていた。この本はどちらでもなく子牛の革から作られた高級な犢皮

紙を綴じている。

「酒の肴には丁度いい本でしょ。ここからかなり東に行ったラトナ国のルカンで見つけたんだ。城の地下書庫を見させてもらった時にね」

「……お前はよくすんなりとそういう場所へ行けるなぁ」

「フェリクスの証書のおかげさ」

「お前の人柄もあるような気がするが」

「人柄が良いと頼まれ事も多いらしい。音楽の家庭教師や宮廷楽師も兼任したんだよ。結構人使い荒いんだ。まぁその話は置いておいて。とにかく苦労して見つけた本だ。解読したらラトナの歴史書という事が分かった。歴史書と言っても正式な物ではないらしく、かなりぼかして物語風に書かれている。それによると聖音域に何かを封じた云々と書いてある」

「何か――とは何だ」

「悲痛な嘆き。いや、憎悪……と訳せばいいかな。それのせいで世界に乱れが生じて調律師が特別な大調律を行ったと」

「ずいぶんお伽話だな。そんな本を信用するのはどうかと思うんだが」

「新しく書かれた仮説だらけの本よりはマシと思うけどね。お伽話ならそれはそれで楽しめるでしょ。でもさ、いろいろ照らしあわせてみると、結構史実と重なるんだよ。まずは領地。今の国境で落ち着いたのが三百年ほど前。この本が書かれたのはそれより百年前程だろう。ラトナは岸壁に囲われていて他国が侵略しにくく、国の歴史がこの大陸で一番長い。だから客観的に各国の動向が把握できたのかも知れない。各地の領地が移り変わる様子は絵で表されてる。この部分、アストリアが辺境の小国に過ぎないだろ。その時代の領土と一致してるわけさ」


 ティルは楽しそうに地図が書かれたページを開いてフェリクス二世に見せた。フェリクス二世もアストリア国の王として建国当初からの歴史は勉強しているので、その絵と当時の自国の領土が一致している事に納得して頷いた。

「次は所々出てくる王族の名前。これは別に保管されていたラトナ国の家系図と照らし合

わせてみたら、何人か名前が重なる人物がいる」

「ある程度その本が信用出来るのは分かった。その他には? 音狂いの根本的な治療法や聖音域についてなどは書かれておらんのか」

 その言葉に申し訳なさそうにティルが話した。

「……実はまだ翻訳が出来てないんだ」

 ティルは本を閉じて机に置いた。

 フェリクス二世も残念そうに息を深く吐いてグラスの酒を飲み干した。

「仕方ないだろ。解読中にリークラント国が攻めてきたんだから」

 フェリクス二世がグラスに酒を注いでいる手が一瞬止まった。そしてまた注ぎ始めた。

「そうか。丁度その時、お前はその場所に居たわけだな」

「リークラントのラトナ進軍について知っているのかい?」

「いやな、実はその事についてバルドゥール候からの手紙で少し触れられていたんだ」

 ティルは一口酒を飲んでその先を無言で促した。

「もちろん我が国の諜報部から進軍について聞いてはいたが、バルドゥール候の手紙にはその裏でマリユス教が見え隠れしていると書かれていたんだ。現場にいたお前はどう見る?」

「わかんないね。それどころじゃなかったよ。戦乱のなか逃げ出すだけでいっぱいいっぱいさ。助けられたのはセリアだけだった」

「あぁ。それであの娘を弟子にしたわけか」

「弟子にしたのは違う理由だよ。セリアはラトナ国の王女なんだ」

「――なんと」

「もちろんそれだけじゃない。翻訳しきれてないから確かな事は言えないが、さっきの大調律をした部分。セリアがその調律の鍵を握っているらしい」

「と言うと?」

「特別な大調律をするために、調律師の一人サリアと言う人が自分の血に特殊な魔法みたいな術を掛けて調律を行なったとある。その功績を讃えられて彼女は王族に迎えられている。家系図で見たが、セリアはサリアの直系のようなんだ。音狂いの元凶を沈めるには彼女の血の力が必要だと思っている」

「力はラトナ国の王族が代々受け継いでいると言う事か。大調律。封印した何か。マリユス教。音狂いの増加。なんだか全部繋がっているようで嫌な感じだ。セリアは調律や王家に伝わった何かを知らんのか?」

「あの時からセリアは過去の記憶を失っている。行き倒れている所を助けて弟子にしたってことにしてある」

「そうか……。まぁそういう事は隠しておいた方が安全だな」

「話そうとはしたんだけど、なかなか本人に話せなくて。でも何時かはちゃんと伝えなきゃな。……ラトナ国はその後どうなったの?」

「国土は蹂躙され、国王オーレリアンと王妃ルイーズは殺された。難民はフラギス国、ブレドフル国に流れた。現在二国から兵をだして防衛線を張っている。ただ、王都ルカンを落として周辺の村々に出城を築いた後の動きはこの三年間殆ど無い。だが我が国も同盟を結んでいるリメア国と共に兵を出し逆側から帝国に圧力を掛けている。容易には攻め込めないだろう」

「オーレリアン王とルイーズ王妃の死は知っている。良くしてもらっていたからやるせない。戦争は真っ平御免だよ」

「俺だって真っ平だ。だが黙って差し出すほど俺はお人好しじゃねーんだ」

 グラスに写ったフェリクス二世の表情は笑っていた。その笑みには自分の国を犯すものは容赦しない残虐性も垣間見えた。

「アストリアでは一応マリユス教を容認しているだろ。諜報部にも探らせた方がいいんじゃないか?」

「やっているさ。だがそれらしい証拠もないし動向も見られない。もしバルドゥール侯の手紙が事実で、リークラントと裏で手を結んでいるとしたらマリユス教は何が目的だ。信仰か? 権力か? 権威か?」

「どうだろうな。信仰を確かなものにするための力……かな」

「案外この本が奴等の目的だったりするかもしれんな」

 フェリクス二世は空になったグラスの底で本を叩いてからグラスを机に置き、また酒を注ぐ。

「明日はお前がマリユス教に居た時懇意にしてもらったタルティーニ神父を尋ねてみたらどうだ。あの人が裏で動くようなことはまずないだろう。ウェスタリア教会に今も変わらず居るぜ」

「タルティーニ神父か。少し敷居が高いな。でも会ってみるよ」

 大方の話が終わった所で酒のボトルは空になっている。グラスに残った酒の量は雑談の為に使おうとフェリクス二世は話題を探した。

「そういえばダリオに聞いたが、宮殿に泊まらなかったそうだな」

「あぁ。街ではエリクの所に泊まってるよ。宮殿だとあの通路へ続く道が無いからね」

「確かに。エリクは元気だったか?」

「変わらないよ。ただ結婚しててビックリしたな」

「そうかお前は知らなかったな。かく言う俺も事実を知っているだけで久しく会っていないなぁ。子供の時は城を抜け出してばかりいたが、王位を継いでからは流石に城を留守にする訳にはいかない。余程の事がない限りな」

「そうそう僕達の腐れ縁は切れやしないさ。中身も変わってないでしょ」

「ふん。お前の腹黒さも変わってないからな」

 二人は少しだけ残っていた酒を飲み干した。そして同時に空のグラスを置いた事が話の終わりだという合図のようだった。

「それじゃまた」

「ああ。何かあったらダリオに伝えろ」

 フェリクス二世は椅子から立ち上がって隠し扉を開けた。ティルは王のベッドに一回身を預けてから隠し扉へ入っていった。

 フェリクス二世は処刑ものだと思いながらもティルの幼稚さに心が休まった。


 夜が明ける少し前にティルがそっと宿に戻ってきた。セリアはティルの足音で間違いないと判断し、ベッドの中で手にしていたナイフを仕舞った。

 セリアはティルが居ないと警戒を解いて安眠ができなかったようだ。ティルの危機察知能力が優れていると分かっているからだ。調律以外では師として尊敬しているのかも知れない。ティルはティルで王のベッドの寝心地は良かったと思いながら硬いベッドに嘆いていて、セリアの尊敬は伝わってはいないだろう。


 窓から朝の賑わった声が響いてくる。通りから外れていても朝は人通りが多いらしい。

 セリアは身支度を整えているが、ティルはまだ寝ていた。起こそうと二三歩近づいたらむくりと上半身を起こした。

「やっと起きましたか」

「うん。おはよ」

 ティルはベッドからはい出て汲み置きしてある部屋の隅の棚に置いてあった水で顔をサッと洗った。それでも眠気は取れてなさそうで、欠伸をしながら身支度をしている。

「さっきリアナさんが朝ごはんを持ってきてくれましたよ。早く食べて下さい」

 バスケットにパニーノが一つティルの分が残っている。それを取って口に加えてのっそりと部屋を出た。

「まだ眠そうですね。昨夜外出していた所為ですか」

 廊下で後ろから声を掛けた。ティルはセリアが起きていたことには気づいていたが、気づいていない振りをした。

「なんだ、起きてたの。久しぶりに酒場で飲んできたんだ」

「そうですか」

 ティルが帰ってきた時、酒の匂いを漂わせていたから飲んできた事は事実だろう。だがなにか隠しているように思えた。セリアは問い詰めてもどうせはぐらかされるだろうと思って「飲み過ぎないで下さい」と、注意だけはしておいた。

 階段を降りるとエリクが話しかけてきた。

「二人共、おはよーさん。客が来てるぜ」

 宿の入口に立っていたのはアネットだった。

「アネット」

 セリアは嬉しくて思わず駆け寄った。

「またお会いできて嬉しいです」

「私も。でもどうして」

「ダリオ様からお二人の面倒をみなさいと仰せつかりました」

どうやら王が言っていた従者にアネットが選ばれたようだ。街に地理には詳しいと言うこともあり、案内役には最適だろうと王が判断したらしい。悪い意味で仕事に慣れていないアネットを城から厄介払いするための理由も含んでいたかも知れない。城を出る時にセリアは遠目でダリオに叱られている姿を目撃していたからそんな風にも考えてしまった。しかしセリアはアネットにとても親近感が持てて、友人のように思えたので純粋に嬉しかった。

「こちらがセリア様の音叉です」

 アネットは両手で大切に扱いセリアに差し出した。

「ありがとう」

 手に取った瞬間頭の中に声が響いた。

(どこ行ってたんだよ~~あねごぉ~~!)

「うわぁ!」

 いきなり聴こえた声に驚いて音叉を落としてしまった。

「どうしたのですか」

「な、なんでもないです」

 後ろでティルがクスクス笑っている。セリアは聖音域で契約したコルの事をすっかり忘れていた。セリアは音叉を拾って頭の中で話しかけようとしたらコルの声がまた響いてきた。

(契約者が行方不明なんてありえねーよ)

(ごめんごめん。そもそも私は音叉を持ってなかったし、こっちでもいろいろあったのよ)

(いろいろって何さ)

(いろいろは――イロイロよ)

 答えに詰まって音叉から目を外すとアネットがどうしたんだろうという感じでセリアを見ている。アネットからみれば、セリアはただ音叉を無言で見つめているだけだからだ。

 セリアは笑ってごまかして音叉を懐に仕舞った。


三人は宿を出て通りに出る。

「お二人ともどちらに参られますか。この街の案内はお任せ下さい」

アネットはやる気に満ちた声で尋ねた。それにどことなく嬉しそうだ。

セリアは音狂いの治療をするために街を回ると思っていたが、ティルは目的地を指定した。

「取り敢えず、ウェスタリア教会までお願い出来るかな」

「はい。お安い御用です」

 セリアは国の調律師だからマリユス教の教会に用は無いと思っていたが、昨日ティルから元々マリユス教の調律師と聞いていたので、その時に世話になった人にでも会いに行くのだと思った。

 ゼーフェルトにはマリユス教の総本山でもあるディメル市国が城から中心街を挟んで西側にあり、そこにはハルモニア大聖堂が鎮座している。観光が目的なら豪華絢爛なハルモニア大聖堂の方へ参じるのが普通だが、そうではない要望にもアネットは素直に案内した。

 ゼーフェルトの街並みを見て、コルが頭の中で楽しそうに(あれはなんだ?)とか(これはなんだ?)と、セリアに尋ねる。セリアの視覚を通して街の様子がコルにもわかるようだ。目に入ったもの全てセリアに尋ねるつもりらしい。セリアは応えるのが面倒になり(お願いだから少し静かにして)と強く言ったがコルは何かと言い返して言う事を聞いてはくれなかった。


 ウェスタリア教会は街に幾つもある教会の中でも歴史が古く、マリユス教が組織だっていない頃から布教活動の拠点となっている場所だった。今はハルモニア大聖堂がマリユス教の拠点になっている。

 道中ティルは「なつかしぃな~」と言って、こっちには昔隠れんぼした廃屋があったとか、あっちには鬼ごっこをしていた路地があって、他人の家の敷地の中を入ったりしてそこの親父に怒られたとか、嬉々として話していた。もちろんセリアはそういう話はもっと聞きたいとは思ったが、せっかくアネットが案内の役割を担っているのだからティルのお喋りに少しイラッときたので、ティルの背中を軽く小突いた。

「あぁごめんアネット。なんだか僕ばかり話しちゃって」

「いえ、私も中心街の方はよく知っているのですが、こちらの方はあまり詳しくはないので」

 あまり詳しくないと言った割にはティルが話していた街の地理を理解していたし、城の中を不安気に歩いていた足取りより城下を歩いている今の方がしっかりとしている。


 ウェスタリア教会はこのゼーフェルトの中でも比較的貧しい地区に小ぢんまりと建っていた。あっちこっち石が崩れている。木の扉は半分腐っているし、ステンドグラスも所々割れていたり罅が入ったりしていた。

「私は外で待っていますのでごゆっくり」

 アネットはティルがきっとこの教会に思い入れがあるのだと思い、気をきかせてくれたようだ。

 扉を開けると中から穏やかな顔をした年老いた司教が出迎えてくれた。

「おぉティル殿。お久しゅう」

「タルティーニ神父。ご無沙汰しておりました」

 なんだかんだティルは目上への敬意は忘れない。言葉遣いが何時ものだらしない喋り方ではなく語尾がシャンとしている。コルは(白い髭もしゃもしゃ~)と、聖音域ではしゃいでいたのでセリアは心のなかでコルに怒鳴った。

 タルティーニ神父は申し訳なさそうにティルに話しかけた。

「あの時ティル殿の破門を止められなかったこと、今でも悔やんでおります」

「いえ、もう過ぎた事です。僕の方こそ手紙も書かずすみませんでした」

「いや、こうしてこの国に戻って来て、元気な姿を見れただけで嬉しいよ。おや、そちらのお嬢様は」

「僕の弟子です」

「セリアと申します。以後お見知りおきを」

セリアは自己紹介をするのに少し疲れていた。それを隠そうとした為か、何時もより無駄に覇気を込めてしまった。その所為でタルティーニ神父には元気なお弟子さんだと言われてしまい、些細な誤解が恥ずかしかった。

「今日こちらに伺ったのは、最近マリユス教内で何か変わったことなどありませんでしたか。些細な事でも構いません」

「変わった事――でございますか。音狂いが増えて教会の調律師が一人亡くなったと聞かされております。それ以外は特に」

「そうですか。実はマリユス教がその音狂いが増えた事に関係しているという情報を得まして」

 セリアはティルが一体どこでそんな情報を聞いてきたのか驚いた。昨夜の飲み屋……と言う事にはなるのだろうが、こんな重要な情報が流れるわけがない。

「それならば私の方から枢機卿に尋ねてみましょう。明日の夕刻にまた訪ねてきて下さい」

「ええ。お願いします。くれぐれも用心して下さいね」

 ティルの礼に習ってセリアも礼をして二人は教会を後にした。

 アネットが次に何処へ行きたいか尋ねるので、今度はセリアが音狂いの情報を得るために大通りの方の案内をお願いした。


 バザールを歩いていると、ティルにぶつかってきた少年が居た。ティルの懐から何かを盗んだのが見えたので、セリアは物盗りだと思い、瞬時に懐からナイフを取り出し、少年の足へめがけて投げようとした――が、それよりも早くティルがセリアの手を抑えた。

「待った!」

「いいんですか?」

「いやわざとだよ。なんだか狙われてる気がしてね」

 アネットはセリアの一瞬の動作と、それよりも早いティルの制止をみて唖然としていた。

「どうしたの、アネット?」

「いえ、なんでもありません」

 アネットはこの二人は常人ではないと思った。

「取り敢えずあの少年の後を付けよう」

 三人は走って少年が去っていた方向へ進んだ。ふた方向に道が別れている。迷わずティルは右を選んだ。

「こっちだ」

「どうしてわかるんです?」

「なんとなく」

段々周りの景色が見窄らしい建物が目につくようになってきた。街の外れにある貧しい暮らしをする人達が暮らす集落だ。

「王都にもこういう格差があるんですね」

 駆け抜けながらその様子を見てセリアが言った。

「王もなるだけ頑張ってはいるんだけどね。難民なんかも多く来るわけだから、その人達までなかなか手がまわらないんだよ。そういう人達ほどマリユス教が面倒見てやればいいと思うけどね」

 曲がり角の手前で急にティルが足を止めた。

「居た」

 ティルが静かに叫んで物陰に隠れた。その動作にセリアも習った。少年が辺りを気にしながら崩れた建物の中に入っていくのが見えた。

アネットは喋る事ができない程息を切らしている。それを見てセリアが気遣う。

「あ、アネットはここで待っていても……」

「だ――大丈夫です。お二人のお世話をお仰せつかっているのですから、このぐらいでバテたりしません」

 拳を握って強がっているようだが、全然言葉に説得力がなかった。

 ティルはアネットの言葉を信じて少年の追跡を続けた。

 建物の中は下水道へ通じる道がある。ティルが昨夜通った下水道より古い。それにあまり機能していないせいか水が流れていない。なるべく水で足音が響かないように水たまりを避けて進んだ。段々入ってきた所からの光が届かなくなって暗くなる。暫く行くと奥から話し声が聞こえてくる。ランタンの明かりも見えてきた。

 曲がり角からティルが覗き込む。そこにはティルから本を盗んだ少年ともう一人、黒い装束を着た人間が居る。

「ちゃんとやったんだからな。約束は守れよな」

「わかっている」

くぐもった男の声が不気味に響き渡った。

どうやらあの男が少年にスリをさせるよう仕向けたみたいだ。

 ティルが振り返って小声でセリアとアネットに指示を出す。

「セリアは少年をできるだけ無傷で捕縛。僕はあの男を捕らえる。アネットはここで待っててくれ」

 セリアは落ち着いているが、アネットは少し震えていた。

少年がティルから奪った本を渡し、金を貰っている所へティルが男の腕にナイフを投げた。投げると同時に二人は腰を屈めて俊足で間合いを詰めた。

 ナイフは見事男の右手に刺さり「ぐぁっ」と短い悲鳴が漏れて本が宙に浮いた。男は左手でなにか武器のようなものを取り出そうとした瞬間にティルがニ投目のナイフを投げてそれを阻止した。

 ティルは宙に浮いた本を取って男に飛び蹴りを食らわした。男が倒れた所へ剣を抜き、男の左足の太ももに突き刺した。男の悲鳴が下水道に反響する。相手の動きを封じるためにティルは地面まで突き刺さるように力を込めて、剣を杭のようにしたから痛みも数倍だったに違いない。

少年は何が起こったのかわからないまま、セリアの剣の柄で鳩尾を叩かれた。少年が屈み込んだ所でセリアは右手を少年の首に回し、少年の左手を後ろへグイッと引っ張り上げて少年の動きを封じた。

「子供に盗みをやらせるのは感心しないなぁ~」

 突き刺さった剣を軽く左右に揺らしながらティルは男に優しく話しかけた。そしてゆっくりとした口調で尋ねた。

「お前は何者だ」

 男はうつ伏せのままも無言で武器を取ろうと手を動かした。ティルはその武器を取ろうとした右手の肘めがけて力いっぱい踏みつけて骨を外した。さっきよりはくぐもった悲鳴だった。

「素直に答えた方がいいですよ」

 しかし男は応えず、口元で何かを噛み砕いた。そしたら身体がガクガクと痙攣しだした。

 ティルは髪の毛を掴んで男の顔を確認した。男は白目を向いて泡を吹いている。

「あ~あ。毒かぁ。簡単に命を投げ出すなんて善くないなぁ」

 ティルは男の髪の毛を離して刺していた剣を抜き、男の服で血を拭ってから鞘に収めた。

「ティルの拷問よりは死んだ方がマシだと思ったのでしょう」

「死んだら何も聞き出せないじゃないか」

 ティルは男の服の中を探したが武器以外出て来なかった。ため息をついて少年の方を向いた。少年は震えて涙を流している。殺されると思っているらしい。だが瞳は鋭くティルを睨みつけていた。動きを封じているセリアにも震えが伝わってくるので「トラウマにならなければいいな」などと考えていて、コルも(このあんちゃんけっこう怖いんだな)とティルの行動を見てそう呟いていた。

「君はどうしてこの本を盗んだんだい?」

「うるせー。母ちゃんを助けるためだ」

「お母さんを助けるため?」

「音狂いを治す金が無いんだから仕方ねーだろ」

「と言う事は、この男にこの本を盗んだらお金をやると言われたのですね?」

 少年は無言で頷いた。

「じゃあ無料で治してあげますから――弟子が」

「は?」

 セリアは空気が抜けたような声を出した。ティルが無料で、と言う時は調律をセリアに任せる、と言うことらしい。

「危ない橋は渡らない方がいいよ、少年。運が悪かったらこの男みたいに死んじゃうんだから。セリア、離してあげて」

 セリアは鳩尾を殴ったことと羽交い絞めにしていた事を謝って少年を離した。少年は直ぐに二人から距離を取って睨みつけた。

「大丈夫ですから。何もしませんから。だから、お母さんの所へ案内して下さい」

 目の前で人を殺した――厳密には殺さず男の自殺だったが、その人間を早々に信用するものかとセリアは思ったが、案外素直に案内してくれた。もちろん少年は警戒心を解いていないが。

 アネットは曲がり角からずっと一連の光景を覗き込んでいて、気絶しないよう手をギュッと握っていた。ティルが「お待たせ」と明るくアネットに言うので、さっき拷問していた事実がサラっと流れ去ってしまったように思える。


 下水道へ来る途中、走って通り抜けた貧しい人々が暮らしている集落に少年の家はあった。その中でもことさら小さい家の中へ入っていった。

ベッドには母親が耳を塞いで呻いていた。

「セリア、要領は覚えているでしょ?」

「はい。今度は倒れたりしません」

 セリアは強い意志で調律に挑んだ。音叉を壁に叩いて音を鳴らし、耳に当ててその音を辿るように聖音域の中へ入った。

――聖音域に降り立つと直ぐにコルがセリアに突っ込んできた。

(あねご~)

その衝撃でかなりの距離を吹き飛ばされた。

 セリアは胸元に居るコルのほっぺたを抓って引っ張りあげた。

(コル。今度やったら潰すわよ)

(いや~あねごがこっち来るのひっさしぶりだったからさぁー。思わず突っ込んじゃったよ。あ、服変わってる。すごいじゃんすごいじゃん)

 セリアは服を褒められてまんざらでもない気持だったので、抓っていたコルのほっぺたを離した。

 元の世界の違いも聖音域の中のセリアに影響があるらしい。

(それよりも、なんだか前来た時より聖音域が……その、なんか淀んでない?)

(わかる? なんかオカシイんだよ。普通の音狂いじゃなくて、なんか地中深くから溢れ出してくるような感じ?)

 コルが言うように聖音域全体が不穏な気配に満ちている。

(まぁこの現象は置いといて。ほら、あの音狂いを治しに来たんだろ。早く)

(あのってどこよ?)

(もう、あねごは目悪いなぁ)

 セリアの目は相当良いのだが聖音域に住んでいる音霊にとってはそれでも視力が悪いとみなさられるようだ。

 コルはもっと近くで見せるためにセリアの手を掴んで音狂いの場所まで連れていった。

(さぁさぁ。治しちゃってくださいな)

(あなたねぇ。もう少し静かに移動させてくれないかしら。――って言っても無駄か)

 セリアはコルの乱暴なやり方にため息を吐きながら調律を始めた。感覚はラルスの音狂いを治してからかなり経ったが身体が覚えている。

 音狂いは前に直した時よりも早く小さくなって、やがて消えた。

 今度は意識を保てている。

(どうコル。前より上手いでしょ)

(おいらの応援のおかげだな)

(応援って……。まぁいいわ。私は戻るから。またね)

(もっとゆっくりしてけばいいのに)

(あなたの話し声は何時でも聞けるから問題ないでしょ。それじゃ)

 聖音域から戻る感覚にはまだ慣れない。無理やり夢から覚める感覚は、思っていたより身体に力が入ってしまう。もっとすんなり行き来出来るようにならねばとセリアは思った。

聖音域から戻った瞬間フッと気を失いそうになったが、踏ん張って意識を留めた。息を沢山吸って長いこと息を止めていた後のように思いっきり息を吐いた。この重力が伸し掛る感覚も苦手だ。

「おぉ。今度は大丈夫だね」

 ティルは乾いた拍手をセリアに送った。アネットと少年は固唾を呑みながら見守っていたようで、セリアの意識が戻った事にほっとした。

「な、慣れてしまえばこのぐらい平気ですよ」

 セリアは強がりを言って少年の母の顔を見た。静かに寝息を立てている。音狂いは問題なく調律出来たようだ。

「ティル、聖音域がなんだか少し淀んでいたんですけど」

「あぁ、そうなんだ。なんか嫌な予感がする。やはりこの本について早く調べるべきだな」

 セリアはその本を見た時、何処かで見たことがあったような気がした。あの時の夢のなかでティルが見ていたような……だがどんな本なのか思い出せない。

「その本は一体何なのですか」

「なんか凄い本だよ。僕は城の図書館へ行ってくる。セリアは音狂いの人達を引き続き治してくれ」

「私一人でですか?」

「アネットとコルが居るだろ」

「全部無料で?」

「取り敢えず無料で」

「今日泊まる所は?」

「取り敢えずエリクの所。それじゃ任せたよー」

 ティルはセリアに答えながら軽い助走をつけて、質問に答えてからスタートを切った。身体は細いのに運動能力は高い。

「どういたしましょう」

 アネットがセリアに尋ねた。

「仕方ないですね。ティルに言われた通りにしましょう。一応師匠ですから」

(コル、気合入れて行くわよ)

(ガッテン)

 セリアは少年に他に音狂いの人が居ないか訪ねて、周辺の音狂いに侵されている人を片っ端から調律してやろうと言う気構えで向かった。



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