三、音狂い


 セリアとコルは、聖音域の中を高速で移動している。雲や空、陸などは存在しないが、所々抽象的な物体が浮かんでいたりする。

(ちょっと! もう少しスピード緩めなさいよ)

 セリアの左手が今にも引っこ抜かれそうな勢いで引っ張られている。

(もうちょい先だぜ。早く着いた方がいいだろ)

(でも早すぎる!)

 目を細めながら前を見る。その先には、明らかに聖音域とは違う、禍々しい領域が見えてきた。「あれが音狂い」とセリアは呟いた。

 段々とその領域が近くなり、その物の大きさがどれくらいか分かる距離で、コルは急停止した。その反動で肩が逆に引っ張られた。そしてその勢いが完全になくなる前に、ポイと手を放された。その所為でセリアは二三回ぐるぐると回ってしまった。

(ほらよ。おいらが連れてこれるのはここまで。あ~本当に迷惑だぜ、音狂いってやつはよ。気持ち悪くてかなわねー)

 コルが言った事はその通りだとセリアも思った。コルの荒い扱いに文句を言おうとしたが、音狂いを目の前にして、その言葉もかき消されてしまった。

 吐き気を催すような色がどろどろ渦巻いていて、聞くに堪えない悲鳴のような、ガラスを爪で引っ掻くような、そういう音が色と絡み合い、じわじわと聖音域を侵食していっている

 セリアは今からこの強大な物を調律しようというわけだが、だれだって物怖じしてしまうだろう。

(これがラルスの音狂い?)

(んぁ? ラルス? よくわかんねーけど、あねごがこっちに来た所から一番近い音狂いの場所につれてきただけだぜ)

(近くなの? なんだか随分遠くへ来たような気分だわ)

(あねごが居る場所と感覚が違うんだろうな。ぶつくさ言わずにさ、チャチャッと治しちゃってくださいな)

 コルに背中をポンと押されて、セリアは揺ら揺らと音狂いに近づいた。

(コルに言われると、凄くやる気がなくなるわ。チャチャッと治せたらいいんだけど、そうもいかないでしょうね)

 肩を落として目の前の音狂いを見渡す。恐怖感と緊張が段々と大きくなり、逃げ出したくなってきたが、逃げ帰るわけにはいかない。ラルスの苦しみを早く取り除いてあげなければ。

 セリアは腰に手を当てて強く息を吐き、それからゆっくりと息を吸いながら手を前に出して構える。 

 (こんな感じでいいのかな)

 微かに聞こえて来る音叉の音を頼りに、ティルに言われた通りにやってみる。

 セリアが調律を始めると、若干音狂いの浸食が抑えられたように見える。しかし、なかなかそれ以上小さくならない。セリアの額に汗が滲み出る。それでもコツを掴んだのか、徐々にではあるが調律されてきた。このままいけると思った瞬間、音狂いの中から手のような物が無数に飛び出して来て、セリアめがけて向かってきた。

(えっ?)

 セリアは反射的に調律をやめて、両手で身を守った。しかし、向かってきた手が折り重なっていき、セリアを無理やり音狂いの中へ引きずり込もうとする。セリアはその場には留まる事が出来ず、音狂いの中に取り込まれてしまった。

 セリアの身体にノイズが走り、音の波に刻まれて消えてしまいそうになる。

 その苦しみから逃れる為に耳を塞ごうとしたが、ティルの言葉を思い出す。

(基準音。聞き逃さないように……そして、踏ん張る!)

 上下左右分からないが、闇雲に身体中に力をこめた。身体を無理矢理動かして調律を再び始める。その時微かな光が見えた。あれがラルスの心なのだろうか。視界がごちゃごちゃになって目が眩みそうな中、必死に基準音と繋がるように調律をしていく。

 ラルスの心がセリアの事を受け入れたのか、微かな光が徐々に大きくなり音狂いを消していき、そして光が一気に広がった。


 聖音域でセリアが調律をしている時、ティルは元の世界に戻ってきていて、ゴッツとイレーネの三人で二人の様子を見守っていた。

「治まってきたよ。でもセリアお姉ちゃん苦しそう」

 イレーネはラルスの音狂いが落ち着いて嬉しいのだが、セリアが逆に苦しそうな表情をしているのでなんだか複雑だ。横からゴッツもセリアの様子を見る。

「本当だ。セリア、相当ヤバイんじゃねーか」

 セリアの呼吸は荒く。ふらふらとしていて、音叉を聞いていない右耳からほんの少し血が滲み出ている。

「大丈夫……です」

 ティルも若干の不安を覚えたのか少し言葉に間があいてしまった。

「お、おい。なんで間をあけるんだよ」

 三人の不安が増えつつあるなか、ラルスが大きく息をすって、大きく息を吐いた。まるで憑き物が落ちたかのように安らかな表情になった。

「おぉ。やった!」

 ゴッツが声を上げた時、セリアが詰まるような短い悲鳴を上げて仰け反った。ティルがあわてて抱きとめて息を確認する。イレーネとゴッツは息を呑んで見守った。

「大丈夫です。息はあります。音狂いもなんとか治っていますね」

「ふ~、ビックリさせんな。寿命が縮まったぜ」 

 ゴッツは胸を撫で下ろした。イレーネは言葉が出ないほど安堵していた。

 ティルはセリアを「よっこいしょ」と言って持ち上げてゴッツに尋ねた。

「ちょっとゴッツさんの家で、セリアを休ませてくれますか?」

「ああいいぜ。好きなだけ休んでくれ。イレーネも休め。ラルスは俺が見ていてやるから」

「うんわかった。部屋は私とお兄ちゃんの部屋を使うといいよ。私はお母さんのベッド使うから」

 ゴッツに代わってイレーネが二人を部屋まで案内した。



 ――夢。  最初の記憶の夢かと思った。だがいつもと様子が違う。暗いと言う事は同じだが、其処には本棚が沢山あった。書庫だろうか。そこにティルと私がいる。なんだか自分の夢を外から自分で覗き込んでいるような感じだ。夢の中のセリアは今より幼い。と言っても、ティルの弟子になる少し前ぐらいだろうか。だとしたら失った記憶の一部なのかも知れない。

 夢の中のセリアはティルが読んでいる本に興味深々らしく、何か尋ねているように見える。だが、残念な事に声までは聞こえない。

 夢の中のティルは少し困ったような顔をしていたが、脇においてあったランプを書庫の端にある机の上に乗せて本を開き、なにやら得意げに話している。セリアは頼みごとが叶った事が嬉しいのか、ティルの横でその様子を楽しそうに見ていた。

 暫くぼーっと眺めていると、二人の姿がぼんやりとしてきた。しかしランプの炎だけはユラユラとはっきり見える。その暖かい光を見ていると、そこから段々と周りの景色が見えてくる。

――セリアは夢から目を覚ました。

「……ティル?」

「お、気がついた? 丸一日、よくまぁぐっすりと寝ていたね~」

 セリアは少し混乱していて記憶がぼやけている。

 ティルは机に向かって何か書いていたらしく、ペンを横に置いた。窓の所に白い鳩が止まっている。伝書鳩だ。

「手紙ですか?」

「うん。僕の友人から。返事を書いてたんだ」

 書き終わった紙をひらひらさせてインクを乾かし、その紙を丸めて伝書鳩の足に付けられた筒の中へ入れた。そして鳩が飛び立ち、ティルが窓を閉めた。その音でセリアは気を失う前の事をハッと思いだし、少し身体を起こした。

「そうだ、音狂いは?」

「大丈夫。治ってるよ。ラルスは昨日の朝目が覚めてね。ボクも一応聴いてみたが、音狂いの欠片も無かった。どちらかというとセリアの方が少々やばかったかな」

 ラルスが治っていてほっとし、それと同時に気を失った自分が情けなくてベッドに身体を預けた。

「はぁ……。不甲斐なくて申し訳ありません」

「気にする事は無いさ。最初の一人を治せれば後はもう大丈夫。油断しなければね。さて、夜が明けるまでもう一眠りしたら?」

「……そうさせてもらいます」

 セリアは夢の事をティルに話そうかと思ったが、思っていたよりも疲れているらしく、今度は夢も見ずに眠った、


 再び起きるとティルは居なかった。だが、はしゃぐ子供の声とティルの笑い声がドア越しに聞こえて来る。

 ドアを開けると、木で作った小さい人形をティルが糸で操り奇妙に踊らせている。

 ティルは子供っぽい性格をしているからなのか、子供には好かれるようだ。

「ティル……。一体何してるんですか」

「何って、遊んでるんだよ」

 糸で操っている人形をセリアに見せた。ラルスとイレーネは部屋から出てきたセリアを見た。

ラルスが椅子から降りてセリアの下へ来て見上げた。

「セリアお姉ちゃん。治してくれてありがとう」

「あ……いえ、どういたしまして。でも私の方がへばってしまった様です」

 照れながら少し笑った。

 キッチンからエッダが朝食を運んでくる。朝食にしては豪華すぎる。大切な家畜の鳥を捌いてくれたらしい。香草と一緒に焼いた匂いが漂ってくる。

「おはようセリア。あんたのお師匠が直ぐに発つって言うからね。本当は夜にご馳走しようと思ったんだけど、朝急いで支度したのさ」

 ティルは料理に目が行ったまま人形を脇に置いてテーブルの上を片付けた。

「いやぁありがたいです。未熟者の弟子には贅沢な報酬ですよ」

 確かに未熟者だ。こんなに手間を取らせては調律師としてやっていけるか不安になる。どことなく申し訳ない気持ちで立っていると、ラルスがセリアの手を引いてテーブルの席の真ん中へ案内した。

 子供は無意識に人の心情がわかってしまう。大人になれば表層のものしか見えなくなり無邪気な気配りが出来なくなるだろう。セリアはラルスの言葉とその気遣いに、言葉ではない感謝の気持ちで一杯になった。

 皆が席に着いたが一家の主の姿が見えず、セリアはエッダ尋ねた。

「ゴッツさんは?」

「家畜に餌やってから来るからそろそろ……あ、ほら来た」

「よぉ。目が覚めたか」

「おはようございます。二晩もお世話になってしまった様で。ありがとうございます」

「気にするな。ラルスの命の恩人だ。それにこっちは金を払わないで済んだんだ。まぁ鶏は絞めたけどな」

 これぐらいの事はさせてくれと言うゴッツの気持ちが、笑った表情にでている。ゴッツも席に付き、皆で食事の前の祈りを捧げた。何に祈りを捧げるかは国や民族、宗教によって違うだろう。マリユス教なら主神マリユスに祈りを捧げてから食事を始めるが、マリユス教を信仰していない地域で、特定の宗教に捉われなければ、主に自然に祈りを捧げてから食事を始める。マリユス教を禁止しているリメア国ではこの自然信仰が根付いている。

ティルとセリアは特に何も信仰していないが、ゴッツ一家の様式に従った。


 ラルスの音狂いが治り、本来の家庭の明るさに戻った。病の者が家に居ると陰鬱な気持ちになり、家族仲の歯車はどんどん狂っていくが、ラルスが元気になった事で全て元に戻った。その変化を見ただけで調律師としての誇りを少なからずセリアは感じる事ができた。

「痩せてるのによく食うなぁ。お前が治したわけじゃねーのによ」

 ゴッツがパクパクと食べるティルを見て呆れていた。

「食べれる時に食べておかないとね」

「そのずうずうしさは、私も見習った方がいいかもしれませんね」

 セリアもティルに呆れながら呟いた。

 一同の会話は途切れず、終始賑やかな食卓だった。食後にマチーヤが出てきたが、賑やかさのおかげか、セリアもマチーヤを飲み干す事ができた。

「ご馳走様でした」

 ティルがカップを置いて自分の腹を軽く叩いた。ティルの胃袋も満足したようだ。

「さて、それじゃあ直ぐに行くとしますかな。今後も音狂いに悩まされたら、アストリア国の手紙屋へ手紙を送って下さい。僕に届けてくれますから」

「法外な値段を言う奴にゃ頼まねーよ。今度はセリアに頼むさ」

「そんな~。私はその時の気分で値段を決めてるだけです。あれはああいう気分だったんですよ。それにセリアだって法外な値段吹っ掛けるかもしれないじゃないですかぁ」

「私はティルみたいに適当な事は言いません」

「ぐぬぬ、弟子という事を忘れてない?」

「お師匠から早く独立しときな。その方が稼げるし客の信頼も獲得できるさ」

 ティルがうな垂れて、子供達がティルを庇った。冗談のやり取りで笑った後、支度を整えて別れを告げた。

 ゴッツ一家が玄関の前で見送ってくれている。ラルスとイレーネは勢いよく手を振っていた。負けじとティルも両手で大きく手を振っていた。その横でセリアは控えめに手を振った。

 名残惜しい気持ちを押し込めて、セリアはティルの後を少し恥ずかしい思いでついていった。

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