ニ、音霊

 半ば強引にセリアに依頼するようティルに依頼させられた彼の名はゴッツ。

街道に泊まっていた宿屋からそう遠くない場所にあるロトーノという村に住んでいる。その村の小麦はもう直ぐ収穫を迎えるようで、穂が金色の風を生み出すように靡いていた。

 ティルはその眺めを子供のようにはしゃいで見ている。その横でゴッツは変な野郎だと思いながら自分の家へと二人を案内している。セリアはティルとゴッツを見ながら少し後ろから付いていく。

 ゴッツは歩きながら少し振り返り、セリアに話しかける。

「おい、嬢ちゃん」

「セリアです」

 ゴッツは抑揚なく返されて少々腹を立てながらも宿屋で自己紹介された名前で呼んだ。

「……セリアちゃんよぅ」

「ちゃん付けで呼ばないで下さい」

「このッ! ……まあいい。セリアは見た感じ十四、五に見えるけどよ。その歳で大丈夫なのか? なんでも調律に失敗すると死んじまう事があるらしいぜ」

「私も今朝聞いて驚きました。けれど、まぁ一応弟子ですし、調律を教わるにはいい機会だと思います」

「そりゃ勉強熱心なこった。死ぬかもしれないってのによく落ち着いていられるな」

「驚いたと言いましたよね。ですが何時までも取り乱すわけにはいかないでしょう。ティルから常に落ち着いて行動しろと教わりました。そうすれば生きる確立が高くなるらしいです」

 セリアの言動にゴッツは肩を竦めて溜息をつくように言った。

「調律師も生きるのは大変みてーだな。ただ、おめーのお師匠見てると、落ち付いてるようには見えねーけどな。ほら、見えてきたぜ。あれが俺の家だ」

 ゴッツが指を指した方向に多くの農民の家と同じ木造の平屋があった。しかし他の村民の家よりも基礎は石で出来ていて丈夫な造りになっていた。

「ほほう。割と立派じゃないですか。酒を止めれば銀貨三枚なんて微々たる物かもしれませんね」

「俺らは商人の様に金の中で生きてるわけじゃねーんだよ。現金収入なんて微々たるもんだ。だがここの領主様は農業に対して理解がある。税金も他で聞くより安いしよ、農民から何もかも取り上げるような方じゃあねぇ。それに侵略者や魔物からもしっかりと護ってくれる。おかげで貧しかった暮らしもここ5,6年でだいぶ変わったぜ」

「ここら辺はバルドゥール侯が治めている土地でしたね。なるほど。あの方は他国で名君という噂が流れていましたが、それは事実と言う事でいいみたいですね」

 ティルはゴッツが誇らしげに語る様と周辺の風景を見て、この土地の治世が優れていると納得した。

 この世界では昔から国同士の領地を巡る争いの他に、魔物と呼ばれる異形の物との争いも絶え間なく続いている。そういった混乱の中でも平穏を維持していく事はとても難しく、治める者の力量が問われる。

「おい。帰ったぞ!」

 三人はゴッツの家の前に辿り付き、ゴッツがそう言って家の戸を開けた瞬間中から罵声が轟いた。

「あんた! 朝っぱらから飲みに行くなって言ったじゃないかい! ラルスが苦しんでるって時に」

 大砲が家の中から発射されたかのような怒鳴り声だった。

ゴッツは慣れているみたいだが、ティルとセリアは声圧で二三歩後退した。

「う、うるせー。何処いこうが俺の勝手だろ。それより客だ!」

 ゴッツは頼りなさげに言い返してはみるものの、妻には頭が上がらないようだ。ゴッツに家に入るよう手招きされた二人は、身を縮めながらも戸を潜り前に出た。

「始めまして奥さん。私はティルと申します」

 ティルは深々と礼をしてにこやかな表情を向ける。 

 初対面でもこの低姿勢さと柔和な声で警戒心は解けるかもしれない。そういう声の仕草や立ち振る舞いは生まれつきのものなのか、身に付けていったものなのかは分からない。ただ、その身なりで台無しになってしまうようだ。

 セリアはフードを取り、ティルの影から無愛想に挨拶をした。

 ゴッツの妻はティルを見た後セリアを見て、二人の関係がどのようなものなのか訝しそうな目で見る。だがゴッツの妻は洒洒落落な性格をしていたようで、二人を客としてもてなす為に表情を元に戻した。

「あたしはエッダ。取り合えず席に座っとくれ。今お茶を入れるから」

 エッダは奥にあるテーブルを指差した。テーブルには椅子が四脚置かれている。ティルは入り口寄りの椅子に腰掛け、セリアは奥へ。ゴッツはティルの対面に座り、エッダは奥のキッチンへ入っていった。

 ゴッツの家は中も小奇麗にされており、みすぼらしさは感じられない。

 エッダは食器棚からカップを二つ出して、その横にある両手で包めるぐらいの陶器の箱から、緑色の粉を一匙ずつ掬ってカップに入れる。竈で既に火にかかっていたお湯を注いで混ぜる。マチーヤと呼ばれる東方から伝わったお茶だ。


 キッチンから出てきたエッダはティルとセリアの前にカップを置いた。

 ゴッツは「俺のはねぇのかよ」と、目でエッダに訴えかけたが、エッダのお説教が込められた一睨みで目をそらした。

 エッダはセリアの対面にゆっくりと腰掛けた。

 ティルとセリアは「いただきます」と言った。その声は揃っていて、飲み方も二人同じようにして飲む。ティルは美味しそうに飲んだが、セリアはあまりマチーヤが好きではない様子だ。その様を見てエッダは少し笑ってティルに問いかけた。

「一体こんな農村に何の用だい? 麦の買い手ならもう決まっちゃってるよ」

 ティルがカップを口から放して答えようとすると、横からゴッツがティルの代わりに答えた。

「こいつらは商人じゃねぇ。調律師だ。ラルスの音狂いを診てくれるってよ」

 その言葉を聞いて、エッダはティルに縋るような声で言った。

「あぁ……あんたら調律師だったのかい。それじゃあ早速診ておくれよ」

「その前に少しお話を伺っても宜しいですか」

 ティルはカップを置いて、机の上で手を組んで話し始める。

「症状が出始めたのは何時頃?」

「二週間程前だね。ラルスが……ラルスは私の息子なんだがね、変な音が聞こえるとか言うんで医者に診せたんだよ。でも異常はないで終わっちまったんだ。そんで医者が音狂いかもしれないって」

「なるほど。あとゴッツさん、さっき宿屋で私に話しかけた時、教会じゃなくて良いと言いましたね。確かに入信を嫌がる人は居ますが、他にも理由があるように思えたので」

「教会に頼みたかったけどよ、リメア国ではマリユス教は禁止されたんだ。半年ほど前だったかな。別に死罪になるわけじゃないが、増税されるし、領主様の印象も悪くなるってんなら流しの調律師に頼んだ方がいいと思ってな。しかしまぁあそこまで高値吹っ掛けられるとはよ」

 流しの調律師でもそこまで高値をせびったりしない。

 高値と聞いてエッダが不安そうな顔になってティルを見る。

「安心して下さい奥さん。今回は条件付で無料ですから。教会所属じゃない僕に頼んだ理由は分かりました。あとは……えーっと、患者ですね。この家には居ないようですが……」

「あの中だ」

 ゴッツが窓の外を指差す。その方向には風車が見える。

「感染るかもしれないってんで、あの風車に隔離しているんだよ」

 エッダは俯いて申し訳なさそうに呟く。

「音狂いは人から人へ感染る事はありません。ですが喚いたり暴れたりするので家族

も精神的に参ってしまうことがありましょう。だからと言って地下室などに閉じ込め

ておくよりあの風車は遥かに良い場所です」

 隔離という措置を取らなければならない罪悪感を察して、ティルはエッダの気持ち

に同調するように優しく話しかけた。そしてマチーヤを飲み干してティルは立ち上

がった。

「さてと。行くよ、セリア」

 セリアはマチーヤを少し残してティルの後に続いた。

 二人が行くのをぼーっと見ていたゴッツを「あんたも行くんだ」と言って、エッダ

が叩いて急かした。


 風車は丘の上に造られていた。レンガが円筒状に積み上げられた塔風車という形で、羽がある屋根、帽子屋根と呼ばれている部分が風に合わせて動かす事が出来る仕組みになっている。

外的からの攻撃を防ぐ為に壁は厚く造られ、塔の両側は長い壁が連なっている。

他の村より立派な造りをしているのは、この村がリメア国の国境付近にある為、領主

が要塞の役割も果たせるように造らせたのだろう。

三人は風車の中へと入った。

風車の中は風を動力に変えた歯車の音が低く鳴り響いている。一階には製粉された小麦が備蓄されている。それ以外には農村に似つかわしくない剣や槍、弓矢や盾が置いてある。いざという時に農民も戦えるようにだろうか。それとも駐留する騎士の為だろうか。

その横に急な階段がある。ティルは「患者は上かい?」とゴッツに確認を取ってから踏み外さないよう注意しながら登った。

梯子を上ると篩にかけられた粉の間だった。患者はもう一つ上の階らしい。粉っぽい部屋の奥にある階段を登る。三階は石臼の間となっている。

二つの大きい石臼が置いてある端のスペースにベッドが置いてある。其処に寝ているのは患者のラルスだろう。

ラルスの手を握っているのはラルスの妹だろうか。ティルがそんな事を思いながらその娘に話しかけた。

「やぁお嬢さん」

 娘は介抱するのに疲れていたのか、一度カクンと頭を下げてから声に反応し、虚ろな目でティルを見る。どうやら半分寝ていたようだ。

「おじさん誰」

「おじ……さん……?」

 ティルの後に続いて登ってきたセリアが、たじろいでいるティルを見て、呆れながら助言した。

「髪を切って、無精髭を剃って、もう少し綺麗な身なりをしたらお兄さんと呼ばれますよ」

「そいつは娘のイレーネだ。ラルスにずっと付いて世話をしている」

「お父さん!」

 ゴッツを見てイレーネの顔が明るくなった。

「悪いなイレーネ。ラルスを見ててくれてよ。其処のおじさんは調律師のティル。こっちは弟子のセリアだ」

 ゴッツが「おじさん」を強調して言ったのは宿屋で組み伏せられた細やかなお返しのつもりだったのだろう。その所為でイレーネはティルに対しておじさん呼ばわりした事を悪いなと思った。

「おじさんって言ってごめんね」

「ははは、いいんですよ。でも結構心にダメージを受けますね。髭と髪ぐらいはなんとかしますか。まぁそれは置いときまして、その子がラルスですね?」

 ティルの問いかけにイレーネはこくんと頷いた。

 ティルはイレーネの横に屈み、ラルスの瞑ってる目を少し開けて覗き込む。

「睡眠薬ですか……。これで治る事はないですが、これ以外の措置は思いつきません。寝ていれば叫んで暴れる事もありませんからね。イレーネ、飲ませた薬を見せてくれますか」

 イレーネは小さい窓の横にある棚に手を伸ばし、置いてある薬の袋を取ってティルに見せた。ティルは袋の中から処方箋を取り出した

「ふむ、副作用が少ないレノル草の睡眠薬ですか。飲ませたのは朝ですよね」

ティルは懐から懐中時計を取り出して時刻を確認する。薬の切れる時間を大よそに見当をつけたのだ。

「もう直ぐ正午ですから小一時間ぐらいすれば起きるでしょう。患者が無理矢理睡眠状態にされている時だと音狂いの治療が上手く出来ません。睡眠薬が切れるまで待ちましょう。その間、セリアにやり方を教えておきます」

「俺らは何かする事はあるか」

 ゴッツはティルの雰囲気がさっきと違う事に気づいて、少し真剣に聞いた。

「そうですね、今の所はありません。だけど睡眠薬が切れると恐らく音の混乱で患者が苦しみだすでしょう。治療中はあまり動かれるとやりにくいので、その時はラルスを抑えていてもらいましょうか。ゴッツさんは足を。僕は両肩を抑え付けてますから。イレーネは、手を握ってあげてください」

 ゴッツとイレーネは頷いた。

 ティルは立ち上がって、後ろで静かに見ていたセリアに話しかけた。

「さてと、セリア。下の階に来て下さい」

「ここだとまずいんですか?」

「まずいですよ~。門外不出の極意ですから」

 ティルはクスリと笑って下の階に降りて行った。

「調律ってのは門外不出なのか?」

 ゴッツが真剣にセリアに聞いた。

「たぶん門外不出でもなんでもないと思いますよ。楽しんでるだけです」

セリアはゴッツの真剣な質問を適当に返してティルに続いて粉の間に降りた。

ティルはなんでも特別であるかのように言うのが好きらしい。そういうティルにセリアは少し気だるそうだった。


 粉の間では、厳粛な立ち姿をしたティルがセリアを見下ろすように見て言った。

「音の源を聴き、我等に福音をもたらしたマリユスから授かりし知恵と技術の結晶を汝に授ける。教会に誓約し、マリユスの教えに共鳴する者達を導きなさい」

 ティルは両手で音叉を持ち、それを頭上に掲げ、そしてゆっくりと手を下ろした。

「跪いて音叉に接吻を」

「教会の茶番は結構です。なので端的にお願いします」

 セリアは腰に手を当てて言い放った。

「ノリ悪いな~。気持ちは大事だよ。教会のパフォーマンスだけど、意外と気に入ってたりするんだ」

 ティルは音叉をぽいっとセリアの方へ放り投げた。

 受け取ったセリアの手に音叉から不思議な感触が伝わってくる。

「やり方は宿屋で教えた通り。そして患者の心に入る前の聖音域に居る音霊を見つける」

「聖音域? 音霊?」

「なんて言えばいいかな。人の心に入る前に、広~~い空間が広がってるんだよ。其処を人が勝手に聖音域って名づけたの。其処に住んでるのが音霊」

「で、音霊をみつけてどうするんです?」

「一匹と契約を交わす。そして音狂いの所へ連れてってもらうのさ」

「その音霊が音狂いの原因なんじゃ……」

「それ言うと怒るよ。彼らは其処に住んでるだけなんだから。音霊達も音狂いは不快なんだよ。でも彼らは音狂いを治す術を持っていない。だから人間に治してもらうわけさ。そいつらが住んでる向こうら辺に音狂いに苦しんでる者の心がある」

「何で人間の心はその先にあるんでしょう」

「……そうだね。いろいろ考えられてはいるんだけどね、理屈では分からない。人の心は聖音域で繋がっているのか……、とか思ったりもするけど、考えたら切が無いよ」

「そうですか……。契約は、具体的にどうすれば」

「僕の時は軽いノリで『ねぇ。契約してよ』ってな感じで音霊に言ったかな。承諾してもらうには名前を付けてあげるのさ。僕と契約した音霊はコロル。聖音域に入ったらそいつに訊くと良いよ。因みに聖音域には、音叉を鳴らして、耳に当てれば行けるんだ。もちろん行く意志がないと駄目だよ。契約だけなら今しても問題ないから、ちょっとやってごらん。あぁ……契約できたら一度ここに戻ってきてね」

 セリアは音叉の節を軽く柱に当てて音を鳴らす。そして恐る恐る柄の部分を外耳に当てた。

 セリアの身体全体に純音が浸透していく。その感覚に合わせて視界が暗くなり、暗闇の中心部から光が徐々に広がっていく。その光の方へ一歩踏み出したら三百六十度、真昼のような世界が広がった。

(ここが聖音域……)

 セリアはその領域の美しさに見惚れ、言葉を失った。

 しばらくしてからセリアは自分がやるべき事を思い出してハッとする。まずはティルに言われたコロルと言う音霊を探さなくてはならないと歩みを進めた。しかし、聖音域に地面と言うものがなく、身体がふわふわして思うように動けない。

 辺りに見える淡い光の玉が音霊と呼ばれる者達だろうか。セリアはその中にティルが名づけたコロルという音霊が居ないか呼びかけてみた。

(コロル!)

 セリアの声は響かず、水中で声を出したようにぼやける。今度はもっと大きな声で叫ん

でみようと息を吸い込んだ時に、ふわふわセリアの下にやってくる音霊が居た。

 その音霊は、人の手の上に乗る位の大きさで、人間の女の様に見える。ただ、背中に蝶の様な翅が付いており、透明に近い白色で、その羽の筋には虹色に輝く光が見える。

 目の前に来た音霊の足元にセリアは手を広げてみた。その行為に遠慮しながら音霊は静かに降りた。

(こんにちは、私がコロルです。でも貴方は私の契約者ではありませんね。ティルはどうしたの?)

(ティルは目の前に居ます。いえあの、聖音域の外で私の前に)

(そう……。――もしかしてあなたがセリア?)

(はい。――でもどうして)

 その質問にコロルは笑顔で答えた

(ティルからいつもセリアの話は聞いています。おっちょこちょいだとか、融通が利かないとか――)

 セリアはそれを聞いて、ティルは影でこんな事を愚痴っていた事実を知った。なんとなく自分でも分かっていた事なだけにムッとした。

(今日は調律をする為にここへ来たのですね?)

(そうです。音霊と契約するやり方は貴方に訊きなさいとティルに)

(事情は分かりました。ティルの事だから大雑把な事しかセリアに説明しなかったでしょうね。契約の対価は命という事も聞いていないでしょう?)

(えっ……)

 調律に失敗すると死んでしまうという事を朝に聞いて、まさか音霊と契約するのにも命が関わるとは。

 狼狽するセリアを見てコロルは安心させるように言った。

(命を失うわけではなくて共有という事です。死ぬ時はお互い一緒という事です。ただ、音霊には死という概念が無いので、音霊が先に死ぬということはありません。契約者が死んだあと、音霊の自我が無くなります)

 その言葉でかなりほっとした。しかし、命が関わるという事実は変わらない。

(コロルはそれでよくティルと契約しましたね)

(音霊は、契約をしていない状態だと自然現象の様な物なのです。なんとなく意識があるだけですので、音の穢れが無い人であれば、その人の意思に引き寄せられてしまうんです。

人と契約する事によって、その人の意識が私達の性格や形を作りだすのです)

(それでじゃあコロルの姿とか話し方は、ティルの意識によって作られたと言うことですか?)

(断言は出来ませんが、私達はそのように考えています)

(なるほど。音霊についてはなんとなく分かりました。意思があれば音霊を引き寄せられるという事ですね)

(私達も契約の仕組みがどうなっているのかはわからないのです。なんとなく調律師に引き寄せられて、名前を与えられた時に確かな私が作られたのです。……感覚的な事しか教えられずにごめんなさい)

(いえ、適当なティルの説明よりありがたいです。早速やってみますね)

 コロルはセリアの手の平から飛び立ち、セリアの後ろの方へ下がった。契約の様子を見届けてくれるようだ。

 セリアは安心して契約への思いを強く念じてみた。

 ――強く。 契約をして音狂いを治す為に。

 その意思に引き寄せられるように、ぼやけた光の玉が一つ、ふわふわとセリアの下へやってきた。コロルのように形があるわけではない。それは、どの調律師とも契約をしていない音霊だということを意味している。

 セリアはそれを両手で包み込む。

 その中でふわふわと浮かんでいる。まるで名付けられるのを待っているかのように。

(名前……どうしよう)

 セリアはコロルの名のイメージからコルという名をその音霊につけた。

(あなたはコル。私と契約して!)

 コルと名付けられた音霊は、光の玉から徐々に形を変えていく。人の様でもあるが、獣のようにも見える。猫のような耳が付いていて、犬の様なふさふさの尻尾がある。背中には紫水晶の様な石が翼のように付いていて、顔は中庸で雌雄の判断は付かない。目は閉じられていて、額には小さい紅玉の様な物が埋め込まれている。そして、祭服にも似ているが、見た事のない服を纏っていた。袖口は広く、腰は広めの布で結ばれて、小さな飾りが付いている。形作られても光は失わないようで、周囲が淡く光ったままだ。

 コロルの話によれば、音霊がこのような形になったのは、セリアの意識に感応して作られた姿ということになる。

 小さくかわいらしいとセリアは思ったが、直ぐにその思いは打ち破られる。

(プッハーーー!)

 コルは閉じていた目を見開き、大きく息を吐き出した。

(おおぅ! これが契約か。最高だぜ)

 コルは自分の両手を交互に見てからそこら辺を飛び回った。セリアはその様子を見て言葉を失った。

(おょ? あんたが俺の契約者かヨロシクな)

(…………)

(なんだよ~。 挨拶も無しか?)

 コルがこのようにはっちゃけた性格という事は、言うなればセリア自身もそのような内面があるという事を意味している。その現実を見なかったようにセリアはコロルに話しかけた。

(コロル、ティルとの契約を破棄して私と契約してください)

(えぇ~~っ なんだよ! 今契約したばっかじゃんよー)

 コロルは二人を見て、困ったように笑って答える。

(セリア、申し出は嬉しいのですが――契約はちょっと……)

 それを聞いてセリアは頭を抱えて嘆くように首を左右に振った。

(あぁ……私の意識がこんな性格を作ってしまうなんて……)

(『こんな』とはなんだ『こんな』とは! 大体あんたは音霊の俺らに何期待してたんだよ)

 コルは腕を組んでセリアを見下ろす。

(もっと礼儀正しくコロルのような音霊を期待していました)

 セリアは睨みあげて少々酷い言葉をコルに言った。だがコルはまったく動じずへらへらと笑っていた。

(そっかそっか 俺はコロルじゃなくてコルだからな。お前がそう言ったんだぜ。しょーがないしょーがない! んじゃ改めてよろしくな、あねご)

(あ……姐御?)

 コルはセリアの手を取って握手をした。握手しながら踊るように動き回る。

 セリアはもうどうでもいいような感じになってきた。この際音狂いが治せるならなんでもいいと。

(そうだ。速く音狂い何とかしてくれよあねご。五月蝿くてしかたねーからさ)

 握手していた手をそのままコルは引っ張っていこうとする。

(ちょっと待って。取り合えず契約だけして来いって話だから一度戻らないと)

(なんだよ。だったら早くしてくれ)

 コルがいきなりパッと手を離したのでセリアはよろけた。

(わかったわよ! ……あれ、もとの世界に戻るのってどうすれば。コロル)

(私がティルに聞いた話では、夢から覚めるような感じを自分で強く意識すると、パッと戻れるんだそうです)

(強く――ね)

 セリアは目を強く瞑り、手をギュッと握った。

 すると後ろの襟首を誰かに強く引っ張られて、地面に倒されそうになった。勿論誰か居た訳ではなく、感覚的なものだが、セリアは後頭部を守ろうと反射的に首を前にやった。

恐らくそれが聖音域から普段の世界へ戻る時の感覚なのだろう。

 セリアの周りの景色が暗転し、その暗闇を上塗りするように遠くからセリアが居る世界の景色が広がっていく。

 目を開けていれば、自分の所在が分からなくなってしまうような、それ程不可思議な光景だった。

 セリアは恐る恐る片目を開いた。その瞬間、聖音域では重さを感じなかった肉体の重みが一気に加わり、その場に膝をついてしまった。

 空気と言う物がこんなに重苦しいのかと思いながら呼吸をする。柱に手を付けて、身体を支えながらゆっくりと立ち上がる。

普段気にも留めないような柱の木の質感や、風車の中に立ち込めている粉っぽい匂い。自分の重さ。聖音域から帰ってきて、それらがとても大事な物のように思えた。

 そういう風に感じているセリアの気持ちを分かっているのだろうか。いや、調律師の多くはそういう風に思うのだとティルは知っている。親心なのか意地が悪いのか分からないが、ハイハイから二本足で立ち上がろうとする幼児のようなセリアを少しニヤついて見ていた。

「おかえり。どうだった?」

「一応……契約はしてきました」

「それはおめでとう」

 ティルは疲れて息切れしているセリアにパチパチと乾いた拍手を送った。セリアは軽い屈辱を感じてイラついたが、おちょくられるのはいつもの事なので、直ぐに呼吸を整えて姿勢を正した。

「で、どんな音霊?」

「ものすっごい無礼な奴でした」

(おい! 無礼ってなんだよ)

「――ッ? どうして? 聖音域から出てきたのに音霊の声が聞こえるの?」

 セリアは耳に手を当てて狼狽し、ティルに問いかけた。

「あー…… それはねぇ。契約した音霊とは、聖音域に居なくても音叉の近くに居れば話せるんだよ。頭ん中で話しかけてみると、声に出さなくても向こうに話し掛けることが出来るよ」

 セリアはさっき膝を付いた時に落とした音叉を拾って、ティルの言うとおりに頭の中でコルに話しかけてみた。

(コル。こっちの話を盗み聞きしないで)

(いいじゃんよー。聞きたくないときは聞かないからさ)

(じゃあ私の聞いて欲しくない感情は関係ないわけ?)

(聞いて欲しくないような会話じゃねーだろ)

 切りがなさそうな会話にセリアはため息が出た。

「言う事を聞かない奴なので、話し合いは無駄だと思います」

「なかなか楽しそうな奴じゃないか。その音霊にはなんて名前を付けたんだい」

「コロルに似た名前でコルって名付けました」

「ふぅん……いい響きだね。フラギス国の古い通貨単位だよ」

「知りませんでした。じゃあコロルもお金の単位ですか?」

「いや、コロルはその国のお菓子。コルを象った形で、サクッとしてトロッっていう舌触りがするんだ。甘くてめちゃくちゃ美味しいんだよ~」

「……なんかもっと格好良い意味の名前が良かったと少し後悔しています」

(意味なんてどうだっていいじゃん。そいつの言った通り、俺も結構コルって響きは気に入ったぜ)

(意味は大事よ。まぁコルがそれでいいならいいけれど)

 頭の中と実際に声に出す会話とを両方こなすのは疲れるようだ。セリアはまた溜息をついて柱にもたれた。しかしセリアをすんなりと休ませてはくれないようで、上の階から大きい声が響きわたる。なんとも苦しみにまみれた悲痛な声だ。

「どうやらラルスがもう起きてしまったようだね。睡眠薬の効きが弱くなってるんだ。行くよ、セリア」

「でもティル。音霊との契約は出来ましたが、肝心の音狂いの治し方が……」

「いいから速く」

 ティルはセリアの横を通って直ぐに上に上ってしまった。セリアはどうするつもりなのか心配しながらも、苦しんでいるラルスを待たせるわけにはいかないと、直ぐにティルの後に続いた。


 ラルスはベッドの上で耳を塞いで苦しそうに暴れていた。ティルが思っていたより音狂いは進行していたらしい。それでも精神までは犯されておらず、イレーネとゴッツが近くに居ることを理解している。しかしいくら精神が犯されていないと言っても、こんな状態が後一月でも続けば死んでしまうだろう。

 暴れているラルスをゴッツが抑えて、イレーネはどうしたらいいのか分からずにあたふたしている。

「おい、速く何とかしてくれよ。セリアにはもう教えたんだろ?」

「まだ途中ですけど、僕も少し手伝いますから大丈夫です」

 ティルは続いて上って来たセリアの右手を引っ張って、それをそのままラルスの額に乗せる。その後にあたふたとしているイレーネを落ち着かせようと優しく話しかけた。

「大丈夫ですからイレーネ。……はい。イレーネはラルスの手を握ってあげてくださいね」

 イレーネの頷きを見てから、ティルは耳を塞いでいたラルスの左手を取ってイレーネに掴ませた。

 そしてセリアが左手に持っていた音叉を引ったくった。

「ちょっと裏技を」

 音叉をベッドの角に叩いて鳴らし、セリアの耳に無理やり当てる

「一体何を――ッ」

 音叉を挟むようにティルが耳を押し付けてきた。

 反射的にティルをど突こうとしたが、セリアの意識は再び聖音域へと入ってしまった。


(ふぅ。これで二人同時に聖音域に入れ……)

 言い終わらない内にセリアの右フックがティルの頬を捉えた。吹きとんだティルをコロルが受け止める。

(気持ち悪い顔を押し付けないで下さい。今度やったら殺します)

(あいてててて。痛くないけど心が痛い)

 聖音域では物質の感触が違う。セリアも綿を殴ったような感じで、殴った気がしない。

それに聖音域じゃなかったら、コロルもあの小さい身体ではティルを受け止められずに潰されてしまうだろう。

 ティルが頬を摩りながら上を見るとコルがふわふわ浮いている。

(おぉ。コイツがコルか。セリアを頼むよ)

(任せときな、あんちゃん)

 コルは偉ぶって胸を二回叩いた。その様子を見てなんとなく似た物同士だなとセリアは思った。

(あの、早く教えてくれませんか)

(そうだった)

 ティルはふわっと身体の姿勢を正した。

(えっとね、まず楽器の調律を思い出してごらん。ペグ回したりチューニングハンマーを回したりするでしょ? それを自分の手でやる。こんな感じで)

 ティルがその場で手を漂わせる。

(それで大丈夫なのですか) 

 セリアが疑わしそうに見ている。だが、心なしかティルが動かしている手の周囲の渦巻いている気流が整ったように思えた。

(やるのは難しいよ。実際音狂いの中は、こうしてる間に自分も気が狂ってくるように感じるから。踏ん張らないと死ぬからね。あと、元の世界で聞いている基準音がここにも聞こえてくるだろ? 音狂いの場所まで行ったらそれに合わせるようにやるんだよ)

(ティルの説明はいつもアバウトで不安なんですよ。もう少し具体的にならないですか)

(具体的にって言われてもなぁ~。これ以上説明しようがないよ。コツみたいなものなら一応あるけれど……)

(お願いします)

(音狂いで苦しんでいる人の心を聴く事。なるべくその部分に基準音を繋げるようにしてからやると、調律しやすいかなぁ)

 セリアはティルの説明を頭の中でイメージしてみる。そしてその動作を試しにやってみた。

(ありがとうございます。たぶん、きっと、……なんとなく出来るような気がします)

(じゃあまぁ気をつけて行ってらっしゃい。コル、セリアを案内してやってね)

(ガッテン。それじゃ、あねご)

(え!?)

 コルはセリアの手をガシッと掴んで聖音域の中を飛んでいってしまった。

 その様子をコロルとティルは静かに眺めていた。二人が見えなくなってから、コロルはティルの方を向かずに話しかけた。

(ずいぶん信頼しているようですね)

(そう見える? もしかして嫉妬とか?)

 とぼけて訊くティルの質問を、コロルは澄ました顔で聞き流した。

(てっきり音狂いの場所まで一緒に行くのかと)

(セリアの為にならないよ。それに、セリアを信頼と言うより、彼女が音狂いを治せると確信している――と言う感じかな)

(そうですか…………。先ほど嫉妬と仰いましたが、嫉妬と言うよりも、お二人の関係がただ羨ましいと思いました。妬みと言うのとは違う気がします。憧れ……でしょうか。わかりません。私には、そういうのはないと思いますから)

(…………)

 ティルは口を噤み、聖音域の彼方を眺めた。


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