一、初めての仕事
セリアは夢を見た。彼女の最初の記憶の夢だ。時々あの暗闇の前に何があったのか知りたくなると、この夢を見る。そのつど紺色の服を着たティルの背中を見て、暗闇の前の記憶を知りたいと思う気持ちを抑える。何か自分にとって恐ろしい事があったに違いないからだ。あの時の身体の痛みは覚えている。そして恐怖も。
この夢を見た時のセリアの寝起きは最悪で、誰にでも噛み付きそうな目つきをしている。
隣のベッドを見ると、ティルの姿は無い。
手早く服を着替えて、髪を数回梳かしてから後ろで縛る。ベッドの脇に置いてある剣などの装備はどうしようか迷ったが、宿を出る時でいいだろうと置いておく。そしてフード付きのクロークを纏い、フードを目深に被って顔を見え難くする。視界が狭まるから嫌だと思いながらも、厄介事を避ける為にはこうした方がいい。
セリアは目立たないように宿の食堂へ降りた。
傭兵や商人が屯してるテーブルの横をすり抜けて奥のテーブルへ向かう。
とても夢の中の人物と同一人物とは思えない程だらしない人間の背中が見える。
「おはようございます」
セリアは澄ました声で挨拶をしてティルの向かい側に座った。
「おはようセリア。なんだ、今日はご機嫌斜め過ぎるねぇ」
ティルは朝食のパンとハムを頬張りながら喋る。ティルの装いは、紺が色褪せた継ぎ接ぎの服。ボサボサの髪の毛。無精髭。物乞いに見えなくもない。
ティルは宿の女将さんに手で合図をしてセリアの分の食事を頼んだ。
「夢ってなんでしょうね」
「突然なんだい?」
「いえ、夢をみた自分を恥じているのです。脚色されていましたので」
夢は過去を美化させたり理想を具現化させたりする。本当はあのような事実はなかったのではないか……と。目の前でもしゃもしゃ食べているティルをみるとそう思いたい気持ちにもなる。しかしセリアの身体には傷跡があちこちに残っているし、あの時の痛みは忘れようがない。
「そりゃいい。作家になれるかも知れないよ」
「調律師よりかは未来があるかも知れません。ここらで弟子を辞めさせてもらいましょうか?」
「いやいやそれは困るよ。セリアには素質があるから弟子にしたんだから」
女将さんが直ぐにやってきてセリアの前にパンの皿とハムと野菜が乗った皿を置い
た。その後に女将さんの娘らしい小さい娘がコーヒーを二人分運んできた。ティルはニコニコしながら代金とは別にコインをその娘に渡していた。
「何でですか」
「何でって、そりぁ小さいのに感心だと思ってチップをはずんであげたんだよ」
「いや、素質の方です。チップはそんなに奮発しないでください。私達だってお金無いんですから。旅費を稼ぐだけでいっぱいいっぱいなんですよ」
「はいはい。それにしても此処のコーヒー、美味しいねぇ」
「いや、話逸らさないで下さい。素質の話です。素質がある理由がイマイチよく分からないんですけど」
「素質あるじゃん」
当たり前の様に言われてセリアは少し嘆きながら言い返す。
「素質……。人殺しの素質ですか? 一番初めにティルに教えられたのは人の殺し方ですよ。今考えるとおかしいです」
「いやぁ世の中物騒じゃん。一番大事な事なんだって」
「それから盗み方。人の騙し方、脅し方。追われた時の逃げ方などなど。なんですか。私を犯罪者にでも育てているのですか? 肝心の調律について何一つ教わってませんよ」
セリアはイラついてパンを千切って口に入れた。
「そんなに眉間に皺寄せるなよ。あぁ……ほら、あれは? 薬草の知識。あれは役
に立ったよね」
「役に立つ立たないで言ったら……そりゃ、残念なことにティルに教わった事は全て役に立ちました。それはまぁいいんですけど、調律は教えて貰えないんですか」
ティルが行う調律師の仕事をセリアは見ていない訳ではない。ただその調律は特殊で、楽器の音を合わせる訳ではない。
セリアが言う調律は、音狂いと言う病を治す為の調律だ。その調律の仕方は左手で音叉を聞きながら右手を額に当てるだけの動作しかない。見ているだけでは何が起こっているのか分からない。
「う~ん……。教えようとは思ってたんだけどさ~、なかなか踏ん切りがつかなくて。だって失敗したら死んじゃうし」
「え!?」
それは初耳だとセリアは突っ込みを入れたかったが、あまりにも未来が無い話なのでセリアは固まり、持っていたパンは机の上に転がった。
それを見てティルは軽く笑いながら言った。
「大丈夫だよそんなに心配しなくても。――たぶん」
「たぶんって何ですか! たぶんって!」
セリアは少し声を荒げてしまった。ガヤガヤとしていた辺りが「何事か」と少し静かになり、視線を集めたが、「なんでもない。ただの痴話げんかだ」というような手振りでティルが場の空気を戻した。直ぐにそれぞれの会話に戻っていったが、カウンターで朝から酒を飲んでいる男だけは二人を気にしている。
ティルは座りなおしてコーヒーを一口啜った後、懐から黒い革のケースを取り出し、その中から音叉を取り出してセリアに見せた。
「この音叉は特殊でね、人の心開く鍵みたいな物なんだ。身を護るために人を殺すように、人の心も身を護るために不法侵入者を殺そうとするのさ。だから早々に心から退散すれば命を落とすような事はないよ」
セリアはその音叉をまじまじと見つめた。
ティルがセリアの目の前で音叉を見せてくれるのはこれが初めての事である。調律の仕事中でもセリアは遠目で見ていただけだった。
見た目は楽器を調律する音叉とそう違いは無いが、印が彫ってある。見た事のない文字だ。
ティルは音叉を軽く机に叩いて音を出す。
濁りの無い音が全ての物の基準を指し示すように響く。
「これを聞くだけならまったく問題ない。だけどこれを持ちながら人に触れると……。触れると……。ん~、上手く説明できないな。なんかこうパッとなってグチャッとなってヒュゴーって感じなわけ」
「はぁ……。まったく分かりません」
ティルは音叉を指先で弄んでから黒い革のケースにそっと入れて懐にしまった。
「まぁつまり、セリアはそう簡単には死なないだろうって素質かな」
セリアは納得がいかなかった。だけどティルも素質についてそれ以上話すつもりはないらしい。
二人の会話が終わったのを見計らってか、先程からちらちらとセリアとティルを見ていたカウンターで酒を飲んでいた男が立ち上がり、ツカツカと二人が食事をしているテーブルへやってきた。二人を交互に見下ろした後、右手を机に叩くように置いて、ドスを利かせた声でティルに話しかけた。
「あんた、もしかしてあっちの方の調律師かい?」
楽器の方の調律と区別するために、殆どの人は「あっちの方」と言って区別している。別に裏取引があるという訳ではない。
「ええ、そうですよ。依頼ですか?」
ティルにはカウンターで飲んでいた男が話し掛けてくる事はもう分かっていたようで、むしろその男が話しかけやすいように音叉をセリアに見せた節がある。
男はティルの左肩を見て言った。
「あんた教会に所属してねーな」
「そうですねぇ。だけど、流しでやっている人はいますよ。気に食わなければ教会の方に頼むのもありだと思います。その場合マリユス教への入信が条件になるとは思いますが。僕の場合、国王フェリクス二世に調律は認許されています」
教会の調律師の徽章とは違う徽章を懐から出して男に見せた。
「フェリクス王からだと? って事はアストリア国の出身か?――まぁいい。教会所属でなければいいんだ。実は診てもらいてー奴が居る。俺の息子なんだが、医者が言うには音狂いだそうだ。「調律師に頼め」だとさ」
「左様でございますか。しかしながら、私は貴方がおっしゃる通り教会に所属しておりませんので、教会が規定している料金よりも若干お高くなっておりますよ」
ティルはニヤニヤと相手を値踏みするように話しかける。
セリアはやれやれと思いながらもそのやり取りを見ながらパンを食べきり、コーヒーをゆっくり啜っている。ティルの意地悪さは良く知っている。最初に高値を吹っ掛ける。そして相手がたじろいだ後に、教会の不公平な平等よりも平等な値段を言う。ティル流の「平等」は高貴な身なりなら高い賃金を、見窄らしい身なりの者には安い賃金で仕事を請けるのだ。結果はそうなのだが、商売をしている訳ではないので、わざわざ高値を言わなくてもとセリアは何時も思っている。
「いくらだ?」
「銀貨三枚で」
「なに? おい! ふざけてるんじゃねぇだろうな」
男がティルの胸倉を掴んで揺さぶる。
「そもそも貴方の態度がわるいんですよ~。人にお願いする時はちゃんと頭を下げてお願いしないと。そうすればちゃんとした値段でやってあげます」
男は歯を食い縛ってティルから手を離す。そして頭を下げた。
「お、お願、いします。息子を診て下さい」
男の顔を見れば分かる。屈辱に耐え切れず今にも切れそうな表情をしている。
「そうそう。相手を威圧しても良い事なんかありませんよ。分かりました。銀貨二枚で請けましょう」
セリアはおかしいと思った。いつもなら相手をおちょくったあとで銅貨三、四枚ぐらい極端に下げるはず。なのに今回はどうしてだろうと。因みに教会は金持ちもでも貧乏でも一律銅貨七枚と決められている。銀貨は一枚で銅貨三十枚の価値がある。貨幣の単位はゼサで銅貨は一枚ニ千ゼサ。硬貨じゃない場合は木札と小さい鈴の玉を貨幣として使用する。
日常的に使うのは銅貨と鈴玉が殆どだ。
ティルが提案する料金と言い方に男は流石に堪えられなかったようで、ティルに殴りかかった。しかしティルはフッと交わして、男を机に押し付ける。そしてその男の顔をセリアの方へ無理やり向ける。
「まぁまぁ落ち着いてください。良い事を思いつきました。こちらの提案を呑んで頂けるのでしたらお代はいりません。タダでいいですよ、タダで」
男は身動きが取れない。男は細い身体の何処にこんな力があるのかと思った。
「なんだ提案って」
「この娘、私の弟子なんですよ。でもまだ一回も調律をしたことがないのです。だから経験を積むためにこの娘に調律をさせてくれませんかねぇ」
「一回も? ふざけんなよ。他を当たらせて貰う」
「他は後遺症が出たり病状が悪化したりしますよ。超一流の僕が側に付いてますから大丈夫です。――と言う事で提案を呑んで頂けますね?」
「イテテテ。わかった わかったから離せ!」
ティルはパッと手を離して笑顔で言った。
「良かったねセリア。調律のお仕事だよ」
なるほど、さっきのやり取りはこういう風に話を持っていく為か。わざわざ回りくどいことをしなくてもとセリアは思った。
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