シアの調律師
片喰藤火
プロローグ 始まりの記憶
この人の背中が、私の一番古い記憶。
暗闇の中から薄っすらと見えた物は、ゆらゆらと揺れる紺色の布。それが人が着ている服だと理解した時に、全身が圧迫されるような痛みが襲ってきた。痛みに耐えかねて座ろうと思ったけれど、右手が引っ張られる。紺色の服の人に右手を握られ、抵抗する力もなく私はその人に連れられた。
紺色の服を着た人の背中は、とても大きくて、酷く安心したのを覚えている。私は暗闇を振り返るのが恐ろしくて、ずっとその人の背中だけを見て、必死に付いて行った。
冷たい足音が狭い通路に響く。
その音が私の意識を確かなものにしていくと、私は私が今置かれている状況を理解しようとした。だけど分からない。今自分が何故こんなにも傷だらけなのか。今歩いている場所が何処なのか。今私の手を引いている人は誰なのか。今考えている私は誰なのか。私は暗闇の前の記憶がまったく思い出せないことに気が付いた。
私の手を引っ張っている紺色の服の人に「何処へ行くの」と、恐る恐る尋ねた。
「…………」
答えはない。返答に困っているように思えた。
暫く間を置いてから、その人は振り向かずに答えた。
「さて、何処へ行こうか。まだ決めてないんだ。とにかくこの通路は早く出ないとね」
私は続けて尋ねた。この場所や、紺色の服を着た人の名前や、自分がどうして傷だらけなのか、そして自分が誰なのかを。しかしまた答えが返ってこない。答える気がないのか答えを探しているのか、紺色の服を着た人はとにかく黙々と歩き続けていた。
周囲を見渡すと、先程歩いてきた場所よりゴツゴツした石に囲まれた通路になった。
紺色の服の人は右手にカンテラを持っている。炎が冷たい足音を溶かすように先を照
らしていた。
カンテラの炎を見ていたら紺色の服の人が急に止まった。
「別れ道だ。どっちに行きたい? 但し、後戻りはなしだ」
急に離された私の右手が、置いていかれた寂しさに震えている。その手の感情を代弁するように震える声で答えた。
「右……」
「よし」
紺色の服の人はまた私の右手を取って歩き出した。
私は何も分からないのに、どうしてこの人は私に道を尋ねたのだろう。今だに分からないが、その人も「右」と言う答えを期待していたようだった。
暫く進むと階段があった。段差はバラバラで、狭くて押し潰されそうな圧迫感が身体の痛みを増幅させる。登り始めると螺旋状になったり、右へ左へと入り組んだりして、元々分からなかった方向感覚が更におかしくなった。
ひたすらに上へ登って行くと風が流れてきた。そして光が差し込んできて、目の前を歩く紺色の服を着た人の影が光に飲み込まれていく。私はその眩しさに耐えかねて強く目を閉じた。
眩しさで閉じた目をゆっくりと開くと、其処は崖だった。其処からの眺めは今も忘れられない。
何もかもが小さく見えるのに、見えた世界は限りなく大きい。
太陽の光に照らされた紺色の服の人を見上げると、とても壮麗な出で立ちで、太陽の光に輝いている青い目が天藍石のようだった。
その人はゆっくりと私の方を向いて、さっき聞いた質問の一つに答えてくれた。
「僕の名はティル」
その人の左手が、私の頭を優しく撫でた。
「君はセリア。今日から君は……僕の弟子だ」
そう言って笑っていた。ここから見た風景のように。
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