第48話 決着

「ミヤギ!」


 先に対岸にたどり着いて上までのぼったリツミが、岸から呼びかける。

 真ん中から崩れた堤は、今や全体にひびを巡らせ、その崩壊も目前だった。

 貯水池から猛スピードで水が抜けていく。


 池の堆積物から適当な長さのパイプを見つけ、それを岸の側面に刺しながら上へとのぼる。

 最後はリツミの差し伸べた手を掴んで、ミヤギは急いで岸にあがった。

 と同時に、強い波がざっと近くに浮いていた流木をさらっていく。

 

 乱れた呼吸を整えながら貯水池を見渡せば、そこはもうさっきまでいた場所とはまったく違っていた。

 真ん中から崩れた堤。そこへ絶え間なく押し寄せる水。水とともに流され、さらに堤を押す池の浮遊物。

 架かっていた連絡橋はなくなり、それを形作っていた鉄骨だけが池に突き刺さっている。


 こんな状況でルイは? バクはどうなっただろう?

 今聞こえるのは水の流れる音だけで、それ以上のことは分からない。


「行きましょう」


 濡れて重くなった服をものともせず、リツミが連絡橋へと、連絡橋があった方へと走る。ミヤギもそれに続いた。

 そして、


「……!?」

「コウノさん……!」


 連絡橋の残骸の手前でその人物を見つけて、リツミともども立ち止まったのだ。


 コウノ。

 光領の軍人がこちらに背を向けて立っている。


 さらに驚くことに、コウノの側にはバクが。


 そして彼らをはさんでさらに向こう側には、険しい顔のルイがいた。

 どうやら二人ともハクメの追撃をかわして無事にこの岸にたどり着けていたようだが、今はそれを喜べる状況ではない。


 コウノの側にバクがいる。彼の手が届きそうな所に少年が。

 これは一体どうしたことか。


 その二人を見つめるルイも困惑の表情だ。

 この構図はまるで、コウノがバクを人質にしているような……。


 一触即発。

 コウノもリツミもミヤギもルイもバクも、しばらく動かなかった。


 しかし、


「どうやら全員健在のようだな」


 沈黙を破るように放たれた、コウノの言葉。

 彼をはさむリツミとルイが身構えた。


 そんな二人は意に介さないように、コウノはふっと下ろしていた手を上げる。


 その手は腰のサーベルに届きそうで、しかし光領の軍人はそれをバクの肩にポンと乗せた。

 そのまま少年を前へ、ルイの方へと押し出す。いたって丁寧な仕草で。


「こうなってはもう分が悪い。俺一人でなければ殺すつもりだったが」


 ごく普通の会話をするように、青年はそう言った。

 バクはそのままルイの方へと、まっすぐに歩み寄る。


 コウノはただそれを見守っていた。

 どうやら彼はバクだけではなく、ここにいる全員に手を出さないと言いたいようだった。

 しかしどうして。


 光領の英雄の意図が分からず、再びルイとリツミは口をつぐんだ。


 両者が対峙する横で、貯水池の水が抜けていく音だけが聞こえる。

 やがて我に返ったようにリツミが口を開いた。


「あたし達を抹殺するために追ってきたの? あたし達だけを? それとも村のみんなを?」


 リツミの問いに、コウノは最初から答える気がないようだった。

 彼女には背を向けたまま、こう呟く。


「リツミさん、逃亡の果てに得られるものはあるのかい? いたずらに多くの人間を振り回して、最後に残るものもないのに。俺たちはどうやったら元の世界に帰れるかだけ考えていればいい。できるだけ早く、最小限の犠牲で」

「あなたはそれだけを考えてるの?」

「ああ。それだけだ」


 背を向けていても、口調は穏やかでも、まるで冷徹な瞳が透けて見えるように温度のない声。

 彼は今でも、あのガラスのような目をしているのだろうか。


 コウノの冷徹さが伝わっていても、リツミは微動だにしない。

 彼女の髪からポタポタ落ちる雫が、割れたアスファルトのような地面に染みを作る。


 いつぞやも、あの二人はこうして冷たい会話をしていた。

 この世界で、光領とそうでないもの、全く別のものに味方した二人。


 同じ高さの場所に立って、言葉を交わせる距離にいる。手を伸ばせば触れられるだろう。

 それでも遠い。どんな言葉も彼まで届きそうにない。

 彼のどんな言葉も飲み込めそうにない。これが隔たりだろうか。


 すっと、コウノが脇に退く。

 もう話は終わり。早くこの場を去れということらしかった。


「……行きましょう」


 リツミの声に、ルイとバクがこちらに合流する。

 コウノが促すように、四人は彼のもとを後にした。


 光領の軍人は最後まで口を閉じたまま。

 ミヤギは今度も、彼に言える言葉はなかった。


 水が流れていく。

 堤が全て崩れ去る前に、三人の異界人と一人の少年はダムを去った。

 

 




 ダムを離れて森の中に入り、四人は山を下る道を探し始めていた。

 流れる水の音はもう聞こえない。


 先頭のリツミは草を分け、道を切り開いていく。

 今回もまた重傷のルイはバクと一緒に後方だ。先の怪我が治りかけているところへ、あのハクメとかいう男に再び傷を負わされたらしい。


「二度とあの顔は見たくない」


 背中をさすりながら青年がぼやく。

 ハクメに負わされたトラウマがよほど強いのかも知れない。


 確かに二度は追われたくない相手だ。

 最終的に彼は連絡橋の崩落に巻き込まれて貯水池に沈んだようだが、ミヤギでさえ深い水底から帰ってきたのだ。その生死はまったく分からない。


「どうしたの、ルイ?」

「あいつホントに追ってこねえだろうな……」


 ダムを出てから、ルイはしきりに後ろを見てソワソワしている。

 どうやら一人こちらの岸に残っているコウノが追ってこないか気になっているようだ。

 だが、


「あの人は一人で無謀なことはしないよ」

「ミヤギの兄ちゃん、あの兄ちゃんを知ってるの?」

「え……ああ、なんとなくそんな気がしたから」


 何気なく呟いた一言にバクが食いついて、ミヤギは自分でも驚いた。

 確かに彼……コウノは口にしたことを曲げそうな人物ではない。そう思うのはこの世界に来て、最初に会ったときに得た印象によるものだ。

 そうだ、他には何も知らないはずだ。なのに何故そんなことを口にしたのか。


 物思いに沈みかけるミヤギの横で、バクもまた複雑そうな目をする。

 どうやら少年がミヤギの言葉に食いついたのには、何か別の理由があるようだった。


「あの兄ちゃん、おれを助けてくれたんだ。橋から落ちそうになったのを、手を掴んで引き上げてくれた」


 ルイと、それに前を歩いていたリツミが驚いたように振り向く。


 それはそうだ。光領の敵と認識している異界人達の、その連れ歩いている少年を助けることをあの冷徹な軍人が良しとするようには見えない。

 しかしあのときコウノがバクと一緒にいたのは、窮地に陥った少年を保護した故だったのだ。本当に人質にするためではなかったのだ。


「そうだったのか。……あいつ、不思議なやつだな」


 バクと同じく眉間にシワの寄った複雑な表情で、ルイが呟く。

 リツミは何も言わなかった。


 バクにとって、光領は壁の街を、水泥棒の仲間を奪った仇だろう。

 しかしその光領に属すコウノが、バクに手を差し伸べたというのだ。


 少年が複雑な顔をするしかないのも仕方がない。

 大人であるはずのミヤギ達三人にも分からないのだ。彼の考えていることは。

 

 思えばコウノのような切れ者をはじめとする光領の異界人達に追われ、全員生きてここにいるのは奇跡かも知れない。

 しかも池に落ちたとはいえ、リツミとミヤギはほぼ無傷で済んでいる。

 淀んだ水を吸った服は多少重いが。

 

 前を行くリツミの白髪は、まだ水の玉を作っている。

 村で水汲みのときにヘマをして頭から水をかぶっているのを見たが、今回はそれ以上にずぶ濡れだ。


 と、ミヤギの視線に気付いたのか、リツミがこちらを向く。

 思わず目をそらすと、ふふっと苦笑いが返ってきた。


「さすがにあの水は臭うわね」


 濡れたパーカーの袖に鼻を近付けてそう言う。

 これまで何度か思ったが、彼女はミヤギの予想していることは口にしない。

 濡れそぼった姿もそれを他人に見られることも別に気にしていないようだ。


 そしてリツミは少しだけ真剣な顔に返ると、


「ユシカ……油断していたわ。彼が光領の最新技術を持ってるなんて」


 ミヤギ達がずぶ濡れになった原因を作った男のことに言及した。

 あのときダムの放水口が開いたのは、恐らくユシカが持っていた『記憶回路』なる物の作用なのだ。

 リツミはあれを見た瞬間凍りついたような目をした。それだけ危険な物だったということだろうか。


 しかしミヤギがそれについて尋ねる前に、リツミの方が先に口を開いた。


「ミヤギ」

「ん?」

「どうして、あのダムが危険な状態だって分かったの?」

「ああ……。水の中に落ちたとき、堤にひびが入ってるのが見えたんだ、だから」


 そう、と答えるリツミは、やはりそれ以上何も聞いてこなかった。


「本当に危ない状態だった。村のみんなが水源にいるときに崩壊しなくてよかったわ」

「そうだな。麓には水が届いたかも知れないけど、あの量はちょっとな」


 顔をしかめていたルイが、気を取り直すように伸びる。

 伸びた瞬間背中の痛みに気付いて、イタタとうめきを上げた。


「さ、早いとこみんなに追いつかねえと。……無事だといいけどな」


 そうだ。

 目的地まで、先に進んでいる村人達に追いつくこと。

 それがダムまで来た目的だ。


 コウノ達がこれからどう出るかは分からない。

 態勢が整えばまたミヤギ達を追ってくるかも知れない。


 分からない今は、とりあえず当初の目的を達することだ。

 村人達は吊橋を通り、砂の街に向けて先に山を下っているはず。早く追いつかなければ。


 そうだ。目的と言えば……。


 ミヤギはずぶ濡れのポケットの中のハトムギを見た。


 この世界に来て、初めて持った旅の目的。

 それはこの小さな相棒を安全な場所に連れていくことだった。

 それならば、ここは適地ではないだろうか。


 あのとき光領の基地で見た夢の通りなら、ここはハトムギの故郷のはずだ。

 この貯水池は周りを森に囲まれている。針葉の木ばかり生える暗い森だが、まさにあの夢に出てきた場所だ。


 水の中に落ちたとき見た白い壁のひび割れの記憶は、多分ハトムギのものだろう。

 他者の記憶を夢で見るこの変わり者の力が確かなら。


「……? 行かないの?」


 自分と同じく濡れそぼった小動物の背をぽんと押しながら、ミヤギは呟いた。

 

 さっき水の中に落としてしまったから少し心配だが、彼の腹の傷はもう命の危険があるほどではない。

 彼がここでミヤギと別れ元の巣に帰りたいと思うなら、そうするのが最善だろう。


 しかしハトムギはミヤギの指に爪を引っ掛けたまま、まったく動こうとはしない。


「おい、何やってんだミヤギ。置いてくぞ」

「ああ、うん」


 いつの間にかずいぶん先を歩いているルイがミヤギを呼ぶ。

 急いでその後を追いながら、青年は手の中のハトムギにもう一度問い掛けた。


「本当にいいのかい?」


 手の平におさまる相棒はミヤギを見上げたまま、じっとその瞳を見つめるだけだった。





 切れた堤に向けて濁流を作っていく貯水池の岸に立って、コウノは一つ息をついた。


 腕に付けた小型の無線で、ユシカを呼び出す。


「無事か?」

『……すみません。堤の強度があれ程まで弱くなっていたとは』

「いや。それより水が抜けきらなければ合流は難しいだろう。もうしばらくすれば後続部隊がこちらに追いつくはず。お前はその場で彼らを待て」

『ハクメは? やつはどこに行ったのですか?』

「ああ……どこかと言われれば」


 すっと、連絡橋が落ちた場所に目をやる。

 そこもいまだ濁流にのまれたまま。露出した橋の残骸に流木が引っ掛かっている。


「池の中だな。今ごろヘドロと楽しくたわむれてるんじゃないか?」

『そんな……』

「水が抜けきったらどこかから出てくるだろう。生きているとは限らないが」

『……そうですか』

「油断したな。彼らもさすが異界人だったというわけだ」


 そこで無線を切る。青年は静かに太陽の昇りきった空を見上げた。


「小事か大事か……本気で追うべきか」

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