第47話 水の関所 7

「ユシカ……一体何をするつもりなの?」


 まだ失神から覚めたばかりで足取りは重いようだが、その足を引きずりながらも堤を走っていく光領の軍人を見て、リツミが目を見開く。


 彼が駆けていく先は、ミヤギ達もその前を通った、堤に迫り出す四角い箱のような建物。


 彼はもう光線銃を持っていなかった。

 代わりに持っていたのは、あれは一体何だろう。

 黒い小箱だ。この場に存在することが不自然なくらいにシンプルな、ただの黒い箱だ。

 大きさは片手で包めるほど。


 そして彼が持つ物を見た瞬間、リツミは、


「記憶回路……!」

「え?」


 リツミの呟いた言葉が分からず、聞き返す。

 しかし彼女は眉間にシワを刻んだまま。今までのどんなときより険しい表情でユシカを見ていた。

 光領の軍人は黒い箱を抱えたまま、堤に張り出した四角い機関の中へ入っていく。


 そこで何が起こっているのかミヤギには計り知れないことだが、ただ嫌な予感がするのは、その機関があるのは放水口の真上だということだ。


 稲光のように、ユシカの入っていった場所が輝いた。

 どこかで規則正しく金属の鎖が巻き取られるような音がした。聞き間違えだろうか。


 そして……。


 巨大な駆動音と、それと同等の軋み音、ゴポゴポと気泡を成して水が漏れ始める音は同時だった。

 何事かと、考える前に扉は開き始めていた。

 それはこのダムの放水口で、腐食しかけた鉛色の戸が開放される瞬間だった。


 目を疑ったのは言うまでもない。


「ユシカ……彼はただの狙撃手じゃない。光領の『技師』だったのね」


 リツミがまたもミヤギの理解を超えた言葉を発する。

 青年の疑問は最高潮に達した。一体このダムで何が起こっている。起ころうとしているのか。

 開いていく放水口は止まらない。


 そうだ、今は早く水から上がって……。


 しかし向こう岸まで渡りきれるだろうか。

 水の流れは徐々に開いた放水口の方へ。そして泳ぐ体もそっちの方へ引き寄せられていく。


 そして慌ててばた足するミヤギを阻むように、次の災厄は降りかかった。


 突如として何かが崩壊する大きな音。

 何かが水をたたき付ける音。それが重なった。


 放水口に目を向けていたリツミとミヤギは一斉にその方向を見て、そして言葉を失った。


「……!!」


 貯水池に架かる連絡橋。それがほぼ半ばで折れて、そこから崩壊を始めているのだ。

 橋の入り口をわずかに残し、鉄骨の塊となって落ちていく鉄橋。

 押し寄せる波からハトムギとミヤギを守るように、リツミは向こう岸を指した。


「早く、早く上に!」

 

 大きな波が、堤体へと叩きつける。池に浮かんでいた倒木が一挙に結集して放水口を押す。


 そして、限界と崩壊がやって来た。


 開いた放水口の、その周りが割れていく。ひび割れがくもの巣のように広がった。

 水の通り道が無理矢理押し開けられるように、白亜の壁が壊れていく。


 堤の真ん中から水が吹き出し、みるまにその上が崩れ始めた。


 堤の崩壊は想定外だったのか、ユシカが四角い機関を出て、慌てた様子で堤を走っていく。

 しかし堤が崩れる速度が早過ぎて、一方に追い詰められる。

 ミヤギ達がもといた管理棟のある岸。そちら側へ後退させられていった。


 いや、見ている場合ではない。

 水の流れはますます速く、その水を真ん中から噴き出す堤は最早数分の猶予もなく崩れ去りそうだった。






 唖然とするルイをめがけ、狂気の男は宙を裂いて蹴りを繰り出す。

 いいや蹴りというより、それは投擲された槍のような鋭さだった。


 間一髪で避けられたのは、ルイの人生に類を見ない奇跡だろう。


 跳びのいたルイの鼻先をかすめ、ハクメの尖ったブーツが鉄骨をくり抜いた。

 青年の目の前で、鉄の橋に穴が開いた。どころで済まされないのはすぐに分かった。


 轟音とともに橋が揺れる。

 ハクメが穴を開けた箇所から鉄骨が折れる。


 折れた橋は重力に任せて、狂気の男を下敷きに貯水池へと。

 ルイが考えなければならなかったのは、それに自分が巻き込まれていたからだった。


「逃がすかあ……!」


 自らが落下することを悟った一瞬。その一瞬のうちに、ハクメは目の前にあるルイの足を掴んだのだ。

 

「何を……!?」


 男の指が足首に食い込む。

 そのままならば、ハクメを重りに、足を掴まれたルイもまた貯水池へと落下していただろう。


 ルイの目に入ったのは、傾いた鉄骨の表面を転がってくる、ハクメに折られた棍の一方だった。

 とっさにそれを男の手に突き刺し自分の足から引きはがす判断は、これもまた人生に類を見ない秒速の行動だった。そしてその次にとった行動も。


 ハクメの手を払い、ルイは目の前を落下していく、斜めに貯水池へと突き刺さっていく橋面を駆けた。

 駆け走り始めた。今はそれしかなかったから。


 わずかに橋の入り口だけを残して、真ん中から折れ沈んでいく橋。

 その宙に投げ出された鉄骨の上を全速力で走り抜ける。


 カンカンカンカンと、流れるように落ちる鉄骨を上っていく。

 人間業じゃない。そんなことを考えてる場合じゃない。

 走らなければ落ちてしまう。


 とにかく全力で走る。落ちる鉄骨の上から見る対岸はすでに遠かった。

 間に合わない。

 最後は跳んだ。


 背中で、落下した橋が水面をたたき付ける轟音がした。


 間一髪で、ルイは橋の残されたわずかな部分に飛びついていた。

 しばらく手だけでそこにぶら下がっていたが、何とか上へとのぼる。


 そしていまだ息は切れたまま、後ろを振り返った。


 さっきまでの鉄橋は最早存在しなかった。

 両岸ともわずかな入り口の部分だけを残して、真ん中から二つに折れたのだ。

 貯水池に架かる連絡橋は破壊されてしまった。


 その上驚くことに、何が起きたのかダムの放水口が開いて水が流れ出し始めている。

 ハクメとの交戦で気付かなかったが、リツミとミヤギに何かあったのだろうか。


 ああそうだ、ハクメ……。

 さっきまで自分の上に馬乗りになっていた男の姿はどこにもない。

 崩壊した橋の下敷きになりながら、水の中に沈んでいったのだ。


 男に与えられた背中の傷に思わずうめく。それと同時に、彼の手に刺した棍の感触もいまだ自分の腕に残っている。

 酷な行いをしたように思えてルイはしばらく男の沈んでいった場所を見ていたが、首を振るとバクを探した。狂った男のことを考えている場合ではない。


 ここは当初目指していた、管理棟の反対側の岸だ。

 ならば先に行かせたはずの少年はどこへいったのだろう。まさか橋の崩落に巻き込まれて……。


「バク!! バク、どこだ!?」


 叫ぶルイは、しかし前方にある人物を見つけて言葉を飲んだ。





 連絡橋が崩れ出したのは、後方を振り返りながら進むバクがその入り口近くまで来たときだった。

 

 ルイの言うように逃げなければ。しかしハクメに襲われる彼をこのまま置いていくのは……。

 そんなことを考えながら橋の入り口付近へと差しかかる。


 そして。


 橋の中央でバキリと音がした。音がしたのは中央だけではなかった。

 見る間に、自分の足元に亀裂が走る。

 真ん中で橋が折れて、重みで入り口まで折れ、そして池に落ちるのだと、思ったときには体が宙に浮いていた。


「…………!」


 落ちる。対岸まであと一歩の所まできていたのに。


 次に来る衝撃に備えて思わず目をつぶる。


 しかし予期していた衝撃はなかった。代わりに、


「!」


 手が、掴まれていた。

 思ってもいなかった所から手が伸びて、落ちゆく少年の手を掴んだのだ。


 わずかに残った橋の入り口。見上げるそこから、誰かが腕を伸ばし、自分の腕をつかまえている。

 その袖が褐色の軍服であることを、バクはただ驚愕の瞳で見つめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る