第46話 水の関所 6
見えていた光は、一瞬にして暗く纏わり付く泡になった。
ミヤギ――青年は一人、落ちた衝撃で背中向きに沈んでいく。
深く暗いところへ。
油断していた。
光線銃の直撃を免れたのは運が良かったが、足元を撃ち抜かれ貯水池に転落したのだ。
唇から絶え間ない気泡がこぼれて、慌てて水をかいた。
しかしどれだけもがいてもなぜか全く浮かび上がれない。
池底に沈んだロープか何かが足に絡んで解けないのだ。
振りほどこうと思い切り足を引けば、ロープの先につながった巨大な瓦礫か何かまで一緒に動いた。
これが浮かび上がれない原因だろう。
「……!」
こんなときでも鈍臭いもがきを、真っ黒な堆積物だらけの水の中で続けた。
しかしどんなにもがいても、それは池の底にたまった泥を巻き上げるだけ。
足をばたつかせても水中を蹴るばかりでうまく力が入らない。
視界はどんどん狭まっていく。ずいぶん深い所まで沈んだのか、水面すらここからは見えない。
のしかかる水圧で頭がぼーっとした。
何も見えない。どこが上か下かも、自分を捕らえている物が何なのかも。
異界人の体にも限界はある。人間であるかぎり、息が続く限界が。
訳も分からず余計にもがいた分、その限界も早まったのだろう。次第に口から漏れる泡も減っていく。
何故かもう水の上には出られないことを、本能のように察していた。
そうだ。これはあのときと同じ……。
ふっと目を閉じると、青年は自分の右手に左手を沿わせた。
自分の腕に爪を引っ掛けて縋り付いていたハトムギを、ゆっくり引きはがす。
落ちたときから、彼がずっと腕にくっついていることは知っていた。
だが、道連れにするためにここまで連れてきたわけではない。
爪を外すと、小さな体が浮力によって水の上へと運ばれていくのを感じた。
つぶらな眼は最後まで青年を見ていたようだが、水の流れには逆らえずに。
これでいい。水底に沈むのはこの身一つで。
今はただ、この目は暗い水中を見つめるだけ。これがあの時と同じなら……。
しかし――。
不意に、目の前に白い光が走った、気がした。
足に絡んでいたロープが切れる。
手が掴まれた。そのまましかっり掴んで、ミヤギを引き上げてくれる。
上へ上へ。
大きく泡を散らして水をかき、その人は水面へと上がっていく。
暗い水底が遠くなる。
ぼんやり見上げる水面。近付いていく。
生ぬるい緑の水が顔を横切っていく感触。それはあのときにはなかった……。
光が見えた。もうすぐだ。
そして水面へと上がっていく途中、ミヤギは白い壁に走る、無数のひび割れを見たのだ。
ここはダムの堤のすぐ側の水中であるらしい。
しかしあのひび割れは確か……。
そしてほどなく、白い光に手を引かれ、ミヤギは緑の水の外へと顔を出した。
「がっは、げっほっ!」
思いっきり肺に空気を取り込んで、青年は久しぶりに激しく咳きこんだ。
水面に叩きつけた背の痛みが、じわじわと来る。しかしどうやらそれだけのようだ。
やはり異界人の体の頑丈さ故か、どこにも傷はない。
「よかった、無事みたいね」
そしてとなりでは、同じく水面に顔を出したリツミが微笑んでいた。
そうだ。助けられたのだ、この人に。
「ほら、相棒も無事だったわ」
さらにリツミは、板切れに乗って浮かぶハトムギを指す。
彼女はハトムギを守り、そしてミヤギを水の底から引き上げに来てくれた。
呼吸の乱れがおさまるのを待って、ミヤギはリツミに礼を言った。
「ありがとう、リツミ……」
「いいのよ。さ、早く岸に上がりましょう」
命を救ったわりにさっぱりした答えが返ってきて、ミヤギはわずかばかり目を見張った。
ただ沈んでいくだけだった自分を思い出す。
白い光は、この人だったのか。
一つ息をついて、呼吸を落ち着かせる。
そうだ、ここにいるのはミヤギ一人ではない。
仲間を助けなければ。
追い詰められた。
このままでは皆このダムで沈められてしまうだろう。
向こうは本気だ。
この窮地を抜けなければならない。
ふっと、肩を下ろして力を抜いた。
そのままリツミに向き直る。
「リツミ、このダムには限界がきてる。堤は、もうすぐ決壊する」
「え?」
リツミが珍しく不意を突かれたような声を出す。慣れた反応だったが、それでも少しだけ痛かった。自分にしか知れないことを誰かに伝えるのは。
もとは堅固だったこのダムも、ここで人が争ううち、取り返せないところまで傷んでしまったのだろう。
堤を壊そうと、爆薬でも使われたのかもしれない。
白い壁に走る、無数のひび。
先ほど突き落とされたときに見えたものを、少し前に夢の中で見た。
異界人が騒いだ所為か、夢で見たときよりもその亀裂は大きくなっていた。
ダムが決壊する場面など巨大な白い壁からは想像だにしないが、この世界より強固にできている異界人がこれ以上暴れれば、もしかしたら。
「ダムはもうすぐ決壊する。その前に、ルイとバクを連れて逃げないと」
「……」
「って、ごめん。突飛なこと言ってるよね。でも……」
「いいえ。ミヤギが言うと、そんな気がする」
「え?」
「急ぎましょう。二人を助けないと」
ミヤギの言葉を否定せず、深く濁った貯水池の水面から、リツミははるか上方に架かる連絡橋を見上げた。
どうして彼女は、この変わり者の言葉を信じるのか。
いや、今はそれどころではない。
「こうなったら泳いで向こうへ渡りましょう。連絡橋の上でハクメを挟み撃ちにできるかも知れないわ」
水に落ちる前にルイの叫び声が聞こえた。おそらくルイとバクがいるのは連絡橋の上だ。
しかしもといた岸にはまだユシカがいる。引き返せば先程のように狙撃されるかも知れない。
だから向こう岸まで渡りきって、そこから連絡橋を目指そうというのだ。
そうするなら急がねばならない。
「リツミは先に行って。大丈夫、金づちじゃないし、もう溺れないよ」
そう言いながらミヤギは浮かんでいた木の板を引き寄せる。ハトムギを自分の頭の上に乗せた。リツミはミヤギの言葉に頷き、向こう岸へと泳ぎ出す。
予想していたが前を行く彼女の泳ぎは速い。波のない池で、ほとんど陸上で走るのと変わらない速度で進んでいく。
このまま、早く二人のもとへ……。
しかしミヤギが先を行くリツミの背を追い、泳いで貯水池の中程まで来たときだった。
「あれは……」
堤の上にある人物が走っていく姿を見つけて、ミヤギは泳ぎを止めた。
リツミも一緒に振り向く。
光領の追っ手である三人の異界人。
そのうちの一人、ユシカが何かを脇に抱え、堤防を進んでいた。
水の上に上がった二人を、唇を噛んでユシカは眺めた。
光領の脅威である三人の異界人はいまだ全員生きている。
どころかリツミによって光線銃は一本折られ、一瞬だがユシカは気を失っていた。
連絡橋の上ではハクメが痩せた異界人相手に手こずっている。
こんなはずではなかった。
ユシカが放ったもう一丁の光線銃の一撃はミヤギとかいう青年を池に落としたが、すでにリツミによって救出されてしまった。
おかげでユシカの武器は二人に届かなくなったのだ。
標的は今貯水池の水の上。水が池の三分の一ほどしか貯まっていないため、水面が低い。
先程リツミは仲間を助けるために躊躇いなく飛び込んだが、岸辺からたやすくその判断ができるような高さではない。
狙撃しようにも懐に隠して使うこの小銃では射程を出ている。
ならば。
武器以外の光領の最新技術、ここで試すか。
服の下からその粋、その結晶を取り出す。
このダムの設計図は頭に入れている。
『これ』をどこにつなげばいいのかも良く分かっていた。
水面に浮かぶ異界人二人を一気に葬る方法。ダムならではの方法があるではないか。
心の内でほくそ笑むと、ユシカは堤へ歩き出した。
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