第45話 水の関所 5
巨大な堤防の中を移動し、その先の階段を上がれば、見えたのは巨大な貯水池。
そしてこちらにやって来る三人の異界人と一人の少年だった。
腰に差す細剣を確かめる。
斥候の報告通り、光領の追っ手を振り切って逃げてきた彼ら。
ハクメの攻撃もかわして、再び逃げ出した彼ら。
しかしまだ逃げ切れたわけではない。
彼らが目指す、池の奥に架かる連絡橋。その唯一の逃げ道にたどり着くまでに何が起こるか。
これは期待ではなくただの目算だ。
狩人と猟犬……いいや猛獣が後ろから迫る。
獣は双の刃を抜き、地面を蹴立て、弱い者から命を狩ろうとする。
その一撃を逃れたことは評価するが、こちらの有利は変わらない。
対岸から見つめる彼らは必死で。
まるで必死になればこの窮地も脱せると言わんばかりで。
それが哀れだった。
その自信の核になっているのはあの女。リツミだろう。
あの女は特異だ。
ハクメだけではない。光領の幹部の多くが目をつける危険分子。
この身が出向く価値がある。
それでも。
あの一行はとてもこの世界を渡っていけるような構成ではない。
リツミの他は、ぼろ着の少年に痩せこけた異界人の男、そして……。
ふっと目を移せば、そこにはほんの数日前この世界に来たばかりの青年がいた。
乾いた荒野を抜け、光領の基地までたどり着いた彼は、さらに今日までを生き残った。
光領という寄る辺を捨てて、何の希望もない村を選び、それでも生きていた。
驚いたのは、正直一瞬で終わる命と思っていたからだ。
彼は、精神的には決して弱くはない。
目の前で街一つ消し去るこちらの兵力を見て、まだあの村に味方する胆力は認める。
それでも。
彼のような人格がどうなるか、知っているのだ。
この世界でどうなるかを。
そしてそれは今ここで極まるかも知れない。
ハクメ。光領の異界人部隊でも指折りの狂気が、獲物を逃すはずがない。
この閉ざされたダムに猛り狂った獣が一頭放たれているようなものだ。
出口はない。
同種……すなわち異界人を狩るのがあの獣の歓喜だ。
その歓喜で腹を満たすまで、獣は止まらない。
そしてもう一人。
ユシカ。異界人である限り彼も並の軍人ではない。
管理棟から出てきた白髪の女……リツミがユシカの持っていた光線銃を叩き折って捨てる。
どうやら彼は目先の戦いには敗れたようだった。
しかし。
ダムに響く、銃声一発。
管理棟からはいずって出てきたユシカが、懐に隠した第二の銃で標的の足元を撃ち抜いたのだ。
体勢を崩し、この世界に引き込まれたばかりの青年は池の淵を滑り落ちていく。
驚いた仲間が叫ぶ。
高く
運命に抗えない小石のように、飛沫の下の青年は濁りきった水の中へ。
そのまま浮かび上がってこなかった。
呟く名の、その持ち主は恨んでいるだろうか。
「ミヤギくん……」
「ミヤギ!!」
連絡橋の上でその光景を目にしたルイは、欄干から身を乗り出して絶叫した。
足元を撃たれた仲間が、貯水池の水面に叩きつけられる様を。
しかし次のことを考える間もなく、
「人のこと眺めてる場合かよ!」
斬撃が背をかすめる。
転びながら、抱えていた少年を前に押し出した。
「走れ! 走れ、バク!」
「兄ちゃん……!」
そう、バクだけでも逃がさなければいけない状況になった。
走って走って、ルイとバクの二人は連絡橋の半ばまでたどり着いていた。
しかしとうとうハクメとの距離はゼロメートル。追いつかれた。
「兄ちゃん!」
「心配すんな、バク。今度はきっと守るから。こんなやつにどうにかされてたまるか。……ぐっ!?」
「なあにが守るだ!」
後ろから強烈な蹴りが見舞われ、橋の真ん中でルイはうつぶせに倒れた。そのまま思い切り背中を踏まれる。
男のブーツの底に仕掛けられたスパイクが、否応なく肌にめり込んだ。
呻きを上げるルイの胴をめがけ、そのままハクメは短刀を振り下ろす。
しかしそこへ、
「兄ちゃん!」
ハクメの腹を突き飛ばすようにバクが飛びかかった。
人間を踏み付ける不安定な状態から、虚をつかれた男は一瞬体勢を崩す。
しかしすぐに立て直すと、激昂した表情で少年へ向かっていった。
考えている時間はコンマ一秒だった。
少年に向けて疾走する勢いで飛びかかってきた男の腹に、ルイは思い切り棍を突き出す。
思わぬ反撃に、ハクメは初めて体を折った。
その隙にルイはすかさず、男の腕から短刀を叩き落とす。
しかし、
獣の目が血走る。
瞬間、空気が変わった。
思わず、守らなければならない者に向けて叫ぶ。
「逃げろ、バク! できるだけ遠くに! ……がっ!?」
バキリと、嫌な音がした。折れた棍が乾いた音を立て転がる。
倒れた自分の首に絡み付いたものを、男の指だと知るまでには時間がかかった。
「ぐっ……!」
「いい調子で仕掛けてくれるな、ええ? 虫けら。ガキに助けられなきゃ何も出来ねえか、うん?」
骨張った指に一気に力が入る。
見上げれば、真っ赤な光そのもののような目と目が合った。
自分の上に馬乗りになっているハクメの目と。
柄物を折られ、腹を突き返されて仰向けに倒されたのだと、ようやく知った。
首にかかる指の力が強まっていく。
正直異界人のこの体がどれほどの攻撃で壊れるのか見当が付かない。
しかし自分の首を押さえ付けるハクメの力に合わせて、橋面までミシミシへこみ始めているのだ。
橋の鉄骨の隙間から、貯水池の水面が透けて見える。このままでは……。
しかし橋の崩壊を待たず、男はルイの息の根を止めにかかった。腕の筋がビキビキと鳴る。
真っ赤な口が真横に裂けて、おどろおどろしく笑う声が餞別の言葉を刻んだ。
「運命の別れ道だ、異界人。お前が選んだものは、この世界を生き残れるもんじゃなかった。お前は今ここで終わる。光領に味方しとけば、こんなことにはならなかったのになあ」
閉じかけていた目が、思わず開いた。自分でもどうやって出しているのか分からないが、押さえられた喉からかすれた声が出る。
「街一個消したんだぞ……そんなやつらを、そんなやつらを死んでも選べるか!」
貯水池の上に消える、脆弱な叫び。
侮蔑、というにはあまりにも表情のない表情を、男は浮かべた。
「戦じゃどんな些末なことが原因で大攻撃が仕掛けられるか分からない。もし壁の街のやつらに仇がいるとすれば、それはあの攻撃を引き起こしたお前ら自身だ」
「……っ!」
「異界人、お前らがあの村を選ばなければ、壁の街はまだ在ったさ。お前らさえいなければなあ!」
突然、男の力が緩んだ。
自分の手が伸びて、男の腕を掴んだのだと知った。
ハクメの顔に初めて驚きと苦痛の色がさす。
ぎりぎりと、男の腕に自分の指が食い込んでいく。
完全にハクメの腕が首から外れた。
そしてその男の腕を掴んで引き、膝を立てて馬乗りになっている相手の体を浮かせ、そのまま足を思い切り蹴上げる。
ハクメの体が半転して、背から橋面に叩きつけられる。
ルイは解放された喉で大きく息を吸って、それと同時に立ち上がった。
目の前では背をたたき付けられた男が咳込んでいる。
相手の不意を突いた。実感はないがそうらしい。
自分のどこにそんな力が残されていたのか。考える前に、相手も血走った眼で立ち上がった。
「殺す……!」
呟いたハクメが距離をとる。
欄干を蹴って、男が跳んだ。ルイが知る人間の跳躍力ではなかった。
「終いだあ!!」
その着地点が自分であることを、相手が跳んだ瞬間に知っていた。
だから髪の先すれすれでかわしたのだ。
だが……。
轟音とともに、連絡橋が振動する。
真ん中が二つに折れた。
その場にいたルイとハクメの二人を中心に、鉄橋は水面へと落ち始めた。
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