第42話 水の関所 2
「ぶえっくしゅっ!」
「大丈夫? 兄ちゃん」
「おう。く~、なんか今悪寒がしたぜ。光領のやつらが俺達の噂でもしてんのか……」
盛大なくしゃみを放ったルイを、バクが心配そうに見上げる。
鳥肌が立ったのか、青年はそのまま自らの腕をさすった。
光領の兵士がこちらの噂をしているかどうかは定かではないが、水場までやってきて気温が下がったのは確かだ。
そう、ミヤギ達は山の上の貯水池までたどり着いていた。
林を抜けてダムの堤を支える岩肌を伝い、その先に待っていたのは目を奪われるような光景だった。
左右両岸の岩肌に支えられ、白い線を描く堤。
それが守るのは、向こう側がかすむほどの広大な池だ。
水は全体の三分の一ほどしか貯まっていない。
それでも局地的な豪雨を流すことなく貯めてしまう故か、結構な水量があった。
奥には連絡橋だろうか。向こう岸へと簡単な鉄橋が架かっている。
あそこからも向こうへ渡れそうだったが、とりあえずは堤を行くことができそうだった。
それを見てリツミが安堵のため息を漏らす。
「良かった。向こう岸に行けるみたいね」
「うん。立派な道路だね」
ダムの堤はそのまま向こうの崖の上まで続いて、架け橋の役割を果たしている。
さらにその道は平らに舗装され、ミヤギがいた世界の道路と比べても遜色なかった。
戦いの傷跡か老朽の証か、所どころ欠けて破片が落ちているが、通る分には問題なさそうだ。
「昔はこの辺りの街と街をつなぐ道として使われていたらしいわ。車も通っていたって。その街も、すべてなくなってしまったけど……」
リツミの言葉に、ルイはふっと堤の脇に目をやる。
そこには一棟、沈黙にたたずむ四角い無機質な建物があった。
硬そうな植物の蔦が入り口の戸に巻き付いている。
「そこが管理施設か何かか……。機械はどれも動いてないみたいだな」
「エネルギーは遮断されてるはずよ。ここで大きな戦闘があって、施設は完全に停止させられた。残ったのはあの堤だけね」
「例の、この国の人同士で争ったって話か。動力が来て、なんとかしてあの水門が開いてたら、街の連中は水汲みなんか行かなくてすんだのかな」
何気ないルイの言葉に、バクが振り向く。
「兄ちゃん……」
「分かってる。もう遅いってこと。でも……もっと道があったのに」
貯水池の水面は、堤防の一番上にある放流口には届いていないが、そのさらに下部の扉には届いている。おそらく水位が低い場合の放流口だろう。
あそこが開けば、貯水池の水が荒野まで届くかも知れない。
もし、あれが壁の街が存在したとき開いていたら……。
そう思うのはルイだけではないだろう。
水の流れに潤され、壁の街の運命は変わったかも知れない。渇いた土地で必死に生きていた人々の運命は。
ルイはしばらく唇を引き結んで黙っていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「バク、辛いときはいつでも言うんだぞ」
「え?」
「いやオレ何もできないけど、……何もできなかったけど、一緒に沈むくらいはできるからさ」
「ここで沈むは洒落にならないよ」
「ああ、そっか。悪い……」
「ううん。ありがとう、兄ちゃん」
今度はバクは平気だとは言わなかった。
ルイにできる飾らない精一杯を、ようやく受け取ってくれたようだった。
少年の顔にやっと赤みが差した。
その光景に同じく頬を緩めながら、しかしミヤギはふっと、貯まった水に視線を落とした。
流れ出すことなく貯まって干上がってを繰り返し続けているためか、池は深い緑に濁っている。もちろん底など見えない。
水面には朽ちた枝や枯れ葉が浮き、岸辺の所どころに引っかかっていた。
堤には大量の流木が流れ着いている。
この様子では水中にも相当の堆積物がたまっていることだろう。
機械は動かず長い間人の手も入っていない。今すぐ堤が切れることはないだろうが、長居するのも良くないはずだ。
しかし何故だろう。ここは何だか……。
ポケットの中で不意に慌ただしく動き始めたハトムギを、ミヤギはそっと鼻の頭を撫でてなだめた。
それでも。
濁った水に、何故か瞳が吸い寄せられた。何故か……。
濁った緑。
あのときと同じ色。
「……ミヤギ?」
「……!」
ルイの声に思わず顔を上げた。
池の汚泥に、驚いて蹴立てた小石が転がり込む。
ぼちゃんと、遅れて音がした。
それに苦笑いするルイの表情で、ミヤギは現実へと引き戻された。
「お前っていつも明後日の方を向いて考え事してるよな」
「あっはは、ごめん」
そうだ。今は余計なことを考えている場合ではない。
しかし行く先の気配に気付くのが遅れたのは、まだ緑色の水に気をとられていたせいだろうか。……得体の知れない何かにざわめく心を、抑えていたせいだろうか。
一行は堤を進み、その三分の一ほどを通りすぎていた。
ひび割れた道路の先に、目指す向こう岸が迫る。
堤を進んで見えてきたのは、水門を開くための施設だろうか。
下には放水口が見える。その上には管理施設に似た、四角い箱のような建物が道路の脇に張り出していた。
それがこの堤防の真ん中を示している。そうだ、あと半分。あと半分歩けば向こう岸にたどり着く。先へ行っているはずの他の村人達に、早く追いつかなくては。
……しかし酷な運命は、決してミヤギ達を取り逃がそうとはしなかった。
「追われてるってのにアホほど悠長だな」
かかるはずのなかった声。
現れるはずのなかった姿に、ミヤギ達は足を止めざるをえなかった。
いや、予期していなければいけなかったはずだ。
後ろから追ってきている襲撃者に、追いつかれ前をふさがれる危険を。
ざっと、尖ったブーツが音を立てた。
水門の設備の影から現れたその男は、吊り上がった唇をさらに赤く吊り上げて笑った。
逆立つ短髪。口元に刻まれた長い傷痕。
何よりその眼光が見る者に強烈な印象をもたらす。
その瞳が堤を歩いてきたミヤギ達を捉えて、歓喜の色を浮かべていた。
「ずいぶんのんびり歩いてきたもんだ。お陰でオレたちのほうが待たされたぜ」
オレ達……その残りの二人が、狂気の男に続いて姿を現す。
今まで何度か目にしたその姿に、ミヤギは今さら目を見開かなかった。
「コウノさん……」
コウノ。そしてその後ろに付いている体格のいい男。
光領。異界人。追っ手。
それらの言葉が一気に頭を駆け巡った。
三人。ミヤギの目の前で行く手をふさいでいる。
異界人であるコウノがこんな所まで追ってきたのは驚きだが、他の二人もまさか……。
「なんであいつらがここに……!?」
あの二人の男を知っているのか、ルイの表情がこわばる。バクが一歩後ずさりする。
サーベルを下げたコウノもそうだが、あの二人もただ者ではなさそうだった。
まがまがしい気配を纏った前方の男、コウノの後ろにいる男、どちらも玄人向きの武器を帯びている。
前の男は短刀二本。後ろの男は長い弓のような物に、長銃を合わせて負っていた。
近距離と長距離、どちらにも対応できるということだ。
しかし何より、それを使う人間の気迫が凄まじい。
歴然の戦士。しかしレンを目にしたときとは違う威圧感だ。
それは光領という一つの強国に属する、軍人としてのものだろうか。
至近距離で発せられる殺気に、ミヤギは何度目かこの世界をヴァイオレンシアだと感じた。
この三人は決して躊躇しないだろう。ミヤギ達を害することも、手にかけることも。
空気が張りつめる。
その中でリツミはただ、目の前に現れた追っ手に冷静な視線を向けるだけだった。
そしてその内の一人の名をつぶやく。
「ハクメ、久しぶりね」
「リツミちゃん……。ああ……。ああ……! ホントだ! ホントにリツミちゃんだ!」
リツミの姿を肉食獣の目に映して、男は笑いを上げた。
「生きてたんだなあ、リツミちゃん! 良かった! ホントに良かった!」
その声は池の周りの空気をつんざいて、静寂の中に鉄砲のように響いた。
何かを恐れるように、バクがルイの後ろで背を縮こめる。
初対面のミヤギでさえ、耳をふさぎたくなるような狂気の笑い方だった。
「リツミ、知ってるのか? あいつのこと。あいつもリツミのこと知ってるみたいだけど」
眉間に深いしわを刻んだルイの問いに、彼女は冷静なまま、しかし声を低めて返した。
「ええ。彼は強い。この装備で抜くのは難しいわ」
「ああ。俺もひどい目にあった。あいつ異界人だぞ。多分後ろのやつも。確かユシカって呼ばれてたけど」
「それにコウノもいる。そのユシカとかいう人はクロスボウと銃を持ってる。残念だけどあたし達は……」
小さな声で会話する二人に、ニヤついたままの男……ハクメは面白げに近付いてきた。
「おうおうリツミちゃん、せっかくまた会えたってのに無視はひでえなあ。な~にをコソコソ話してんだ? 逃げる算段?」
ふらふらと、ずいぶん隙を見せながら踏み出してきたハクメに、ルイがしかめ面で向き直る。
「なんでこんなとこまで追ってくるんだよ」
「お前らが逃げるのが悪い。逃げなきゃ一発で殺れるのによ」
「殺る……」
「それ以外の何の理由でてめえらをこんなとこまで追いかけてくるんだよ」
当然のように返ってきた答えに、ルイはますます眉間のしわを深めた。
そして、ふっとハクメの後ろに視線を移して、そのまま言葉を飲む。
彼の様子に、一斉にそっちを見たリツミとミヤギも、同じように言葉を失った。
気付いたか、とハクメが楽しそうに笑う。
「てなわけで簡単には逃げられないぜ、お前ら」
ハクメたち三人の後方。
そこには、巨大な溝ができてしまっていた。
向こう岸へ渡ることを阻む、幅数メートルに及ぶ深い亀裂が。
朽ちたわけではない、明らかに砲撃か何かで削られた溝だった。
下から見上げたときはその溝に気付かなかったが、開けた場所でもたもたしていたのは迂闊だったかもしれない。
深い戦いの傷跡が、確かにこのダムには刻まれている。
「さあて、一人ずつこの池に沈めてやるよ。誰からがいい?」
狂気の男の笑いが、もう一度大気を震わせた。
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