第41話 水の関所 1

 夜明けの襲撃からしばらく。

 そこにたどり着くまでに、陽はすっかり高くなってしまっていた。


 草葉の間から顔を出す。

 そこには話に聞いた貯水池のダムの姿が見てとれた。

 まだ距離はあるが、堤防があまりに巨大なため遠くてもよく分かる。


 切り立った崖の先にあったのは、広い谷を埋める、天高くそびえる白亜の壁。

 ミヤギがいた世界の、コンクリートに近いものだろうか。

 坂のように傾斜のついた堤が、どっしりと森の中に腰を据えている。


 あれがこの山に造られた貯水池の堤防。この辺りに降る雨を貯めておくためのダムだ。


 山の中に突然として巨大な人工物が現れる、その感慨は元の世界と変わらない。

 ミヤギが想像していたものより、その姿はずっと近代的だった。


 ヴァイオレンシアの気候は基本的におかしいらしい。

 この先の荒野はカラカラに乾いているが、ここではときに局地的な大雨が降るという。

 しかし雨はすべてこの辺りで降り尽くして、荒野のほうには滅多に雲がかからないのだ。


 あれはその雨水を街まで供給するために造られた貯水池だというが、今その向こうに水があるかどうかは未知数だ。

 話に聞いていたとおり、ダムからは一滴の水も流れていなかった。

 すべての放水口が閉じられ、白亜の壁はただ静寂に佇んでいる。


 それを見上げながらリツミが口を開いた。


「村に村長たちが住みつくずっと前に、この国の人同士で戦争があったの。そのときに、一方がダムを占領して水を止めた。そして戦いが終わるころには動力を供給する施設も破壊されて、水門を開く術はなくなった。ダムの中がどうなっているかは、もう誰にも分からないわ」


 火力を用いて破壊する計画が持ち上がっていたらしいが、街が光領に囲まれたことでそれも立ち消え。

 戦が人々から水を遠ざけ、そのまま今にいたるのだ。

 打ち捨てられたダムだけが残り、水を必要としていた人々はいなくなってしまった。

 つい数日前にこの世界に来たばかりのミヤギが、それを皮肉だと思うのはおこがましいかも知れないが。


 そんなふうに物思いにふけっていると、となりでルイが焦りを殺して呟くのが聞こえた。


「やっぱり、あそこの他に渡れそうなとこはないな」


 その言葉に、巨大な堤にばかり奪われていた目を下に移す。

 ダムの直下。本来ならそこから流れ出した水が川を成す所を。

 もちろん、今はそこに川などない。

 暗い谷底が口を開けているだけだ。

 

 人が渡ることなど到底不可能だろう。

 こちら側は切り立った崖。対岸は延々と続く絶壁。 

 唯一向こう岸とつながっていると見えるのは、先にたたずむダムの堤だけだ。


「ダムに行ってみるしかない、か」

「ええ。多分このまま行けば堤の上まで登れるわ。あとはそこを伝って向こう岸まで渡れるはず」

「ダムの堤防を渡るなんて、こんな状況じゃなきゃワクワクするところなんだけどな」


 悔しげに地面を蹴ったルイは、ふとその少年を視界におさめて表情を改めた。

 旅の連れの最年少、バクの顔を。


「歩けるか、バク? おぶってやろうか?」

「平気だよ。ありがと、兄ちゃん」

「そ、そっか……」


 少年に差し出しかけていた手を退いて、ルイが視線を落とす。

 確かにバクは顔色もよく、足取りもまだしっかりしている。

 今すぐルイの助けが要るようには見えない。しかし……。


 気を取り直すように、ルイは少年の頭に視線を注いだ。


「それにしても、ミヤギもそうだけど、お前もわりと怖い物知らずだったんだな」

「え?」

「刺客を追っかけるオレたちを追っかけてくるなんて、ものすごい勇気だ。みんなと一緒に橋を渡りたかっただろうに」

「ああ、うん……。でもおれ、見てただけだし」

「子どもはそれでいいんだよ。危ないことは、体が丈夫なオレたちに任せりゃいい」

「…………」


 小さな瞳が見開いた。

 まるでそんな言葉をかけられるとは思わなかったと言わんばかりに。

 いや、実際彼にとってはルイだけなのだろう。頼りにしていいと言ってくれる大人は。


 街を、故郷をなくした彼に、本当に寄り添える者はこの中にはいないかも知れない。

 だが今のところは、ルイがついている。

 本音は口にできないかも知れない。

 それでもバクを一人にしてはいけないのだと、ここにいる若者全員がそう思っていたから。


 先頭を行くリツミと、その後ろを並んで歩くルイとバク。

 そのさらに後ろで、ミヤギはつかの間ほっと息をついた。

 しかし、


「ミヤギ、どうしたんだ?」

「ああ、ううん。行こう」


 ふいに自分たちのはるか後方、暗い針葉の林を振り返ったミヤギにルイが問う。

 空気のざわめきと、運んできた風の生温い温度に、青年はしばらく後ろから目が離せなかった。

 

 



「獲物どもはこの上か。ワクワクするなあ」


 わざとらしく唾液の音を立てて舌なめずりするハクメの声が、白い壁に反射する。

 コウノとユシカは、彼が目を向けるダムの堤防の上を静かに見つめた。


 森の中に真新しい足跡を見つけたのは数刻前。

 それを追ってたどり着いたのは、コウノが口にした崖の向こう岸へと続いているというダムの堤だった。

 この辺りであった内戦の末打ち捨てられたというそれは、針葉の森の中にひっそりとたたずみ、静寂を破って足を踏み入れる者を拒むようだった。


 そしてユシカの双眼鏡で、堤の方へと登っていく人影を見つけたのは十数分前。

 そこから急ぎ足で、コウノ達は堤防のすぐ下までやってきた。

 ただ登っていった人影と違うのは、コウノ達はダムの堤防の中程にあるものを見つけたということだ。


 堤防の表面に設置された、手すりの断ち切れた階段。

 その先に開いている人一人余裕で通れる横穴に。

 それは分厚い堤防の中に入ることのできる道だった。


 横穴の壁に触れて、コウノは感嘆のつぶやきを漏らす。


「古くなっているが、まだ通れそうだな。これは堤防の中を点検するために造られた通路だろう」

「入ろうぜ。さっき見た見取り図通りなら、ここが堤の真ん中のエレベーターまで続いてるんだろ? やつらの前に出られるかも知れねえ」


 コウノに先んじ、ハクメが薄暗い通路の中へ入っていく。

 ユシカが光源を持って辺りを照らし、暗がりに一枚の地図を広げた。


 光領はある筋から手に入れたこのダムの見取り図を持っている。

 それに従い通路をしばらく進んだ堤防の真ん中辺りと思われる場所で、一行は予想通りエレベーターを見つけた。それが堤防の中を真っすぐ上へ、堤の最上部まで続いているというのだ。


 しかしたどり着いたエレベーターはうんともすんとも動かなかった。

 押しても作動しない上階行きのボタンに、ユシカがぼやく。


「駄目だな、電気系統は完全にいかれてますね」

「やはりエレベーターは無理か」

「おい。こっちに階段があるぜ? 早くしねえと、エサどもが逃げちまう」


 少し離れたところで辺りを探っていたハクメがそう叫んだ。

 そのまま軽い足取りで、男は自ら発見した暗い階段を上がっていく。

 おそらくエレベーターと同じ、堤の上へと続いていると思われる階段を。


 しかし勇み足で上を目指すハクメに、コウノはいたって冷静な声音で返した。


「ハクメ、急いでいるようだが、彼らはもう向こう岸に渡っているかもしれないぞ」

「何だよ、コウノ。怖気づいたのか?」

「そういうことじゃない。見取り図を見ても、このダムが造られたのは百年以上前らしい。ここでは大規模な戦闘もあったと聞く。そこから人の手が入っていないとしたら、俺達もあまりここに長居するのは……」

「ごちゃごちゃうるせーやつだな。ここで逃がしたらまた面倒だろうが。せめて異界人三人だけでもここで潰さねえと。お前の好きな、戦略上のなんたらのためにな」


 ユシカも今はハクメに賛成だと、コウノに向き直った。


「彼らに追いつけるなら、また森に入られる前に仕留めた方がいい。ここまで来てあなたは何を躊躇っているのです? 例の青年を村に送っておいて、今さら」

「躊躇っているわけじゃない。誰がこの先にいようと、俺のやることは何も変わらないよ。ただ慎重にいきたいだけだ。彼らは、ただの異界人ではないから」

「……?」

「そいつに何言っても無駄だ、ユシカ。メンタルはあいつらと変わらない“平和主義者”だからな。だからこそ、あのときに間に合わなかったのは大層痛かっただろうな」

「テウバのことか……」

「てめえはあの作戦に居合わせなかったからなあ、コウノ。ありゃ愉快な見世物だったぜ? 上の判断もダントツで早かった。基地の建設も大方終わってたからな。ま、元はと言えばオレがテウバのアホな若者を煽ったのがあの反乱の原因なんだけど」

「…………」

「やつらも災難だったよな。お前がいればあそこまで酷なことにならなかっただろうに」


 ケタケタ笑うハクメの声が、廊下の壁に響く。

 後ろでコウノは、ただ黙ってそれを聞いていた。

 しかしいつまでも笑いやまないハクメをユシカがいさめる。


「そこまでにしておけ、ハクメ。あっちも異界人三人いるんだ。集中しないとやられるぞ」

「やれねえよ、あいつらには。来たばっかのパンピーだ。何の覚悟もねえ」


 笑い顔から一転、そう忌ま忌ましげに言った男の声が、堤の上へと抜けていった。 

 

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