第38話 襲撃 1

 ――黒い森を走る、疾風のような人影。


 彼は短刀をおさめた鞘を腰に帯び、常人ではありえない速度で森の木々をかわしていく。

 それが訓練された兵士の走りだと、すぐに分かった。


 そしてとうとう、走る人影は森の奥に目的のものを見つけた。


 黒い木々の中の開けた場所に、オレンジ色の炎を焚いて休む旅人達。

 彼はそれを見つけると、そのすぐそばの茂みに息をひそめた。


 旅人達は焚火たきびを囲んで談笑し、明日行く道に備えて話し合っている。

 彼らが手にしたカップには、茶か白湯か入っているのだろう。暗い宙に向けてゆったりと湯気が上っていた。


 それを感情の薄い水晶のような瞳で捉えて――。

 黒い人影は林の影に忍んだまま、その者達が寝静まるのを待っていた。

 じっとじっと待っていた。


 そして……。





 寝袋から顔を出して、ミヤギは薄く明けていく空を見た。

 目を開けると同時に急いで起き上がる。


 村人達と一緒に食事をとった後すぐに寝袋に入り、ずいぶん時が経った。

 もう夜明けも近いだろう。夢にうなされたのはその頃だった。


 そう、夢だ。さっきのは。


 しかし夢だが夢ではない。

 この辺りに満ちる黒い気配が教えている。


 予知夢。いいや、過去の夢か。

 時折誰かの記憶が見せる夢は、ミヤギに教えてくれる。


 旅立ってから常にあった不安の種が、今芽を吹いたのだ。


 村人は、ミヤギ達は狙われている。

 このすぐ近くに潜んだ、まるで暗殺者のような格好の誰かに。


 枕元でそわそわ鼻を動かしているハトムギをポケットにしまう。


 どこだ? どこにいる?


 ミヤギが首を巡らして辺りに潜む狂気を探し始めた、その時だった。


「リツミ、どこ行くの!?」


 困惑するレンの声と、慌てた様子で駆け出していく誰かの気配。


 寝袋を抜け出し焚火の前まで出ていって見たのは、吊橋のある崖の方へと走っていくリツミの背だった。


 火の側には、両手に湯の入ったカップを持ったまま立っているレン。

 彼女もまた、呆然とした表情でリツミの行く先を見守っている。


 そしてその先こそが黒い気配の元だと、ミヤギはやっと気付いたのだ。


「ふあ~あ。何だよ、みんなして。一体何が、」


 騒がしさに目を覚ましたらしいルイが、ふらふらと焚火の方まで出てくる。

 そして彼は、リツミを見送るレンとミヤギ二人の顔が青くなっているのを見て、ようやく本当に目を覚ましたのだった。





 ――それはほんの数分前の平穏なひと時のこと。


 昼間に川で汲んでおいて浄水した水を鍋にかけ、ボコボコと湯が沸くのを見守る。

 それを取っ手付きのカップに二つ汲んで、リツミはその一方をレンに差し出した。


「ありがと、リツミ」


 リツミとともに見張りの役についている彼女は、それを笑顔で受け取った。

 今は温かいものと言えば白湯くらいしか飲むことはできないが、それでも深夜の見張りを続ける身は暖まる。


 リツミもまた、白湯のカップを口元へと近付けた。


 前の村人と見張りを交代してしばらく経つ。

 この時間までくると最早起き出してくる者もなく、辺りはしんと静まり返っている。

 今夜はこのまま夜明けを迎えられるだろう。


 途中でレンも見張りに加わって、リツミは眠ってしまわぬよう彼女と話し込んでいた。


 カップを近付ければ、白湯が噴き上げる熱気に白い髪がふわふわ揺れる。

 それを眺めて笑顔が崩れ、なぜかだんだん涙ぐんでいくレンに、慌てたリツミは問うた。


「どうしたの、レン? どこか具合が悪いの?」

「いいや。リツミが変わってなくて良かったって……」


 鼻をぐすぐす鳴らしながら、しみじみとレンは答えた。

 いつもは強気な彼女のその姿に、思わずリツミは笑ってしまう。


「そんなちょっとやそっとで、あたしは変わらないわ」

「ちょっとやそっとじゃなかったんだよ、あたし達にとっては。リツミが帰ってくるまで……」


 その言葉にリツミは「ごめんなさい。待たせて」と笑みを深める。

 そしてしんみりした空気を断ち切るように、そのまま焚火に向き直った。


「火が小さくなってきたわね。まきをくべないと」


 勢いの弱くなった焚火に薪を足そうと、リツミは足元にあるはずの木材を探す。

 しかし一つのことに集中すると他がおろそかになるのが彼女だった。


「リツミ、燃えてる、燃えてる!」

「え? うわあ!」


 レンが叫び、リツミは焚火の中でプスプスと煙を上げている物に気付いた。

 いつの間にか自分の肩に立てかけていた棍が倒れ、炎の中に突っ込んでいる。

 慌ててリツミは自らの柄物を炎から救出した。


「あっつ。これ木製だったのかしら? ああ……ちょっと焦げた」

「あっはは……。そういうとこも変わらないんだね」


 苦笑いするレンが今度こそ本当の薪をくべる。


「やっぱりリツミがいると落ち着くね。旅も今のとこ順調だし。やっぱり光領もあたしたちを深追いするほど暇じゃなかったか」


 そして、


「!」


 焚火から小さく火がはぜた途端、リツミの顔つきが変わった。

 まだ湯の入ったカップをレンに預け、静かに立ち上がる。

 談笑の時間の終わりだった。


「嫌な感じがする」

「え?」

「レン、みんなをお願い」


 そして先の焦げた棍を片手に、リツミは一目散に駆け出した。

 暗い森の中をただ一点、吊橋のある崖の方向へと。


 夜明け前の、空が白み始めた頃だった。






 疾風を超えるように走って、走ってリツミはようやくその場所へとたどり着いた。

 夜が明ければ村人達が渡るはずの吊橋。その前へと。


 しかし今そこにいたのは、


「何をしてるの!」


 今まさに吊橋の綱を切り落とそうとしていたその黒い人影に、リツミは叫んだ。


 黒い影はぎょっとしたように、素早くリツミを振り向く。

 そして彼は綱を切ろうとしていた短刀を自分の頭の後ろまで振りかぶって、


「っ!」


 あろう事か、リツミへ向けてその短刀を投げた。

 鋭い刃が風を切ってヒュッと音を立てる。


 リツミは反射的に飛んできた短刀を棍で弾いていた。

 しかしその隙をついて、黒い人影は一気に森の中へと逃げていく。


「リツミ!」


 橋の前まで追いついてきたレンが叫ぶ。

 大剣の柄に手をかけている彼女に、リツミはその人にしか託せないことを頼んだ。


「レン、多分あたし達には追っ手がかかってる。みんなを連れて先へ行って」

「ま、待って。リツミはどうするの?」

「……後で必ず追いつくから」


 そう言うとまた、リツミは一人暗い森へと駆け出していった。

 先程短刀を捨てて逃げていった、黒い人影を追って。


 後に残されたレンは一瞬その背を追おうとして、


「……っ」


 唇を噛み、自分が本当に護衛すべき者達のために来た道を戻った。






「みんな、早く向こう岸へ! ここにいたらあの子たちの足手まといになる」


 突然襲った脅威に、吊橋の入り口に立つ村長が声を張り上げる。


 すでに橋の上には村人達の列ができて、踏めば揺れる吊橋を注意しながら渡っていた。


 その先頭は、レンが襲撃者を警戒しながら先導している。

 彼女から村人達に追っ手がかかっていることを聞いたとき、一同に走った戦慄は言うまでもない。


 しかし恐れに震えている暇がないことも、村人達はすぐに理解した。

 逃げられるなら、道は前にしかないのだ。


 吊橋の向こうへ、目指していた場所へ、少し早いが出立するしかない。

 向こう岸に敵がいないことを願って、急いで荷をまとめた人々は橋を渡っていく。


 しかしその流れに逆らって、来た道を引き返そうとする者が一人。


「ジュナ! どうして戻るの!?」

「だって! 俺たちもリツミを手伝わなきゃ……!」


 他の村人の制止を振り切り仲間を助けに行こうとするジュナを、ぬっと出てきた太い腕が止める。

 鍛冶屋のアカジの娘、フロンの腕だった。

 普段から父の鍛冶仕事を手伝っている彼女は、片手でジュナの動きを封じて言った。


「あたしたちも先に進んだほうがいい。村長の言う通り、あたしたちがいても足手まといになるだけだ。それに、いざってときにレン一人でどうするの」

「……!」

「やつらは異界人なんだ。守る村人がいないほうが力を発揮できるだろう。あたしらが戻っても正直無意味だ」


 その言葉に悔しげに顔を歪めつつ、ジュナも自分の荷物を背負い直して先へ進む。


 村の子ども達も急いで自分の荷物をまとめ、大人達についていっていた。

 しかしその中で一人。立ち止まって、リツミ達の向かったという暗い森の先を見つめる少年がいた。

 吊橋を渡る他の子ども達は、その少年を呼ぶ。


「ここにいたら危ないよ、バク。早く行こう!」

「……兄ちゃん」


 振り返った少年は、一瞬仲間について行くふりをして、そして、


「……!」


 ただ一人、そっと来た道を引き返し始めたのだった。

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