第37話 逃亡劇 5
村人達が夕闇の森に火を起こしてしばらく。
その炎は大きく立ち上り、すっかり暗くなった森を照らしていた。
日が落ちて、この辺りの気温もずいぶん下がってきていた。
村人達は何カ所かに分かれて火を起こし、暖をとっている。
ルイはその一つの前に座って、両手の火傷に巻いた包帯を外してみていた。
痕はまだ残っているが、傷はもうほとんど治りかけている。
異界人の回復力はやはり計り知れない。
そしてあの時あの狂気のような異界人に受けた腹の傷も、打撲痕は残っているがもう痛みはなかった。
あるのは、拭い去れない敗北感だけだ。
「傷は治ってるみたいだね。よかった、よかった」
気付けばとなりに、ふらっとレンの姿が現れた。
彼女は立ったまま、ルイの横で火にあたる。
唐突だが、この世界が長い彼女になら問えるような気がした。
「異界人ってのは、やっぱりみんな帰るためなら何でもするんだな。……街で会った光領の異界人が言ってた。オレたちの仕事は、この世界で破壊をはたらくことだって」
「それに逆らってこんなとこまで来た、あんたがここにいるでしょう?」
唐突なつぶやきに、彼女は焚火を見たままやはり動じず答えた。
しかし、
「情けないけど、オレはそいつに手も足も出なかった。オレの力じゃ、やつらは越えられないかも知れない」
「そりゃあそんな体じゃあね」
「体力が戻ってたってどうなってたか分からない。オレがそいつに負けてるのはどうでもいいんだ。でもこのままじゃ、あんたらの足手まといになっちまうかも知れない。オレたち、あんな化け物に追われるかも知れないんだろ?」
村人を守りたい。仲間を守りたい。バクを守りたい。
それにはあまりにも、自分は力不足に思えた。
光領を前にすれば、それは特に。
壁の街が壊れる前。この世界の何かを救えるつもりで得意げにミヤギに自分の話をした。
この世界の半分を覆う圧倒的な破壊の力を目の当たりにして、それはもろくも崩れ去った。このままでは、あの時あの光領の異界人達が口にした通り……。
ルイの言葉にレンは少し考え込んでいたが、やがて顔を上げると青年の問いに答えた。
「水場から離れた人間を、それでも光領が執拗に追ってくるかどうかは分からないけど……。でも追いかけっこは逃げ切ったやつの勝ちだ。正面からやり合う強さはなくてもいい。あたし達が光領に勝つことができるとすれば、それは村の人達を無事に目的地まで着かせること。戦いを避け、安全な道を選ぶこと」
「逃げること……」
「そう。光領には敵わなくても、みんなのために道を切り開いたり、重い荷物を持ったり、一緒に歩くちびっ子を心配したり、今あんたがしてること。それがきっと首都につながる」
炎の前に落ちる静かな言葉。
ふと、ルイはレンの姿を盗み見た。焚火の正面に立って大剣を地面につく小柄な彼女は今、その姿よりずっと大きく見えた。
「……」
「なに?」
「え、ああ。あんたってやっぱりああ言えばこう言うんだな」
「ああん。何だとー?」
「い、いや、すいませんでした……。でもそうだよな。今目の前にいない敵のこと考えたって仕方ないよな」
思わず憎まれ口を叩いてしまうのは、レンの言葉が自分の遥か先を見通しているからかも知れない。
そして彼女の言ったことは今のルイにとっての真だった。これはミヤギにも教えられたことだが、自分の力不足を嘆く前に、出来ることを考えればいいのだ。
それが今は逃げるということなのだ。
ルイは気分を切り換えようと頭を振った。
しかし燃え上がる炎に目を移した途端、
『そこで地面に頭こすりつけてよく考えろ、クズ異界人』
脳裏に蘇る、男の冷ややかな声。
どんなに遠くにあっても忘れられない。火炎を背に笑うあの獣のような目は。
自分がそれに敗北したことは。
忘れようと頭を振りながら、思わずつぶやいていた。
「なあ。ところであんた、ハクメって異界人を知って……」
しかしその聞こえるか聞こえないかの小さな問いも、優しげな老人の声に途中で遮られてしまった。
「ほいほい、暗い話はそこまで。食事の時間じゃぞ」
ふいにレンとルイ二人の顔の前に木の椀とさじが差し出された。
どうやら夕食の時間らしい。
村の老人達が、大きな鍋を焚火にかけ若者を呼ぶ。
その中では村の段々畑から採った穀物が煮えていた。粒が丸く、色が赤っぽい雑穀の粥のようだ。
そしていつの間にか、レンとルイと同じように器とさじを持った村人が鍋の回りに集まっていた。
一人ずつ順番に、鍋の中身をすくい取っていく。
この旅の旅人達の中で、最も活力にあふれているのは驚くことに老人達だった。
五十人分の食事を慣れた手つきで煮炊きし、食器を用意して子どもから順に配膳してやる。
昼間あれだけ歩いたというのに、火を囲んで昔出ていた旅の思い出を語り合う姿に疲れは見えない。どころか久しぶりの旅に、その体はどこか歓喜しているようにも思えた。
しかしそんな中で……。
「どうしたのジュナ、食べないのかい?」
ジュナをはじめ、村の若者達は粥に手をつけるのを遠慮しているようだった。
遠巻きに、老人と子ども達が食事をとる様子を見守っている。
それはこの旅が、決して豊かな物資に恵まれているわけではないからだった。
「いいよ。粥は年寄りと子どもが食べろよ。俺たちはまだ大丈夫だから。旅は始まったばかりなんだ。なるべく節約しないと……」
「今日くらいはしっかり食べなきゃ。明日には長い砂漠が待ってるんだ」
猫を抱く老女がジュナに言う。
顔に傷を刻むあの老人もその言葉にうなずいた。
「どのみち明日の砂漠でまともに動けなければ年寄りも若者も関係なく足手まといだ。補給なら砂の街でできる。ワシらに変な気を遣うな、ジュナ」
「でも……」
「案ずるな。タンスの中の金はすべて持ってきた。ワシを舐めるなよ、若人。かつては一城を預かる将軍だった身。貯金ならたんまりある。街に着けば買えんものなどないわい」
「……その話ハッタリじゃなかったの?」
「今までハッタリだと思いながら聞いとったのかお前は……」
気の抜けるような会話に、村人達が笑い、レンが笑う。
それぞれがそれぞれに出来ることをしながら、ともに歩む者の気を軽くしようと努めている。
いつの間にか、ルイの冷たい問いは完全に引っ込められていた。
さすがにどんちゃん騒ぎとはいかなかったが、交代で見張り番をしながら、村人達の会話は途切れることはなかった。
食事が終わって子ども達が眠り、リツミは火を絶やさぬよう順番に起きてくる村人達の会話に耳を澄ませていた。夜が更けて老人達も若者に見張り番を譲り、簡易なテントの中の寝袋に入っていく。
緊迫した旅だが、明るさを貫く村人達の姿が何よりの心の救いだった。
もうすぐ夜明けだ。
世界は紫の空の下静かで。夜もそのまま明けるはずだった。
異変はそんなとき起こった。
白くなっていく星の光を見上げて、リツミのとなりで焚火に薪をくべていたレンがつぶやく。
「今のとこ順調だね。やっぱり光領もあたしたちを深追いするほど暇じゃ、」
「――嫌な感じがする」
「え?」
「レン、みんなをお願い」
そう言い残すと、棍を手にリツミは吊橋の方へと走り出した。
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