第25話 破壊の足音 5

 その夜も、少年は夜中になってむずかる赤ん坊のために水を汲みに行っていた。 


 夜も壁の付近の警備は続いているが、街から出られないわけではない。

 子どもだけが知っている秘密の抜け穴。

 それを通って街の外へ出るのだ。

 

 ルイたちと別れてしばらく。

 バクは冷え込んだ夜を、体を折って耐えていた。


 家の片隅で丸くなる少年に、母はもう何も言うことはなかった。

 完全に視界から排除しているのだから、何も言う必要はないのだろう。

 ただ、赤ん坊が泣いているときだけは、少年は完全に母の敵だった。

 だから叩き出される前に、自分から家を抜けるのだ。

 ついでに水と食料を持って帰る。

 鬼のような形相をしながらも、ときどきは手をつけてくれるから。


 赤ん坊のミルクはもうない。だが、水だけでもあれば少しはましなはずだった。


 少年が家を出ていくときも、母は相変わらず、弱った赤子を自らの慰めのようにきつく抱いたまま。

 少年のことは、一つもその目に入れていなかった。


 街を出て、歩いて歩いて、砂の壁はすでに小さくなっていた。流れもわずかな川はもうすぐだ。


 街の大人の大部分は港市連合の兵に取られた。

 残った大人も軍の作業に駆り出される。

 子どもの足では、昼間の炎天下のなかこの長い距離を何度も歩くことはできない。

 だから街で水を自由にできるのは、取水権を押さえ、作業からも解放されている水商人と、彼らから水を買える余裕のある者たちだけ。


 水商人の振る舞いはこの戦が始まる前も始まった後も横暴そのものだった。

 しかし、少年たちに選択の余地はない。

 水商人の手先になって、水汲みを手伝うしかない。


 昼の大半は、この水汲みの作業に費やす。

 汲んできたほとんどは水商人にひったくられてしまうが、それでもやらないわけにはいかなかった。


 夜に一人で街を出れば、汲んできた水すべてを自分のものにできる。 

 しかし大人でさえ、夜更けに街の外へ出歩くなどあり得ないことだ。

 水商人たちは数十人で徒党を組み、銃火器で武装して街の外に出る。

 昼間でさえそうなのだ。


 近頃は人を襲う獣も減ったが、それでもまったく出ないわけではない。

 しかし、今はそれも大した問題ではない。『人間』に見つかることに比べれば。


 それでも行かなければ、母と暮らすあの家に少年の居場所はなかった。


 くたびれた足が蹴り上げた小石が、浅い水の中へ飛び込み音を立てる。

 気付けば目の前に、目指していた川の姿があった。


 黒い流れにゆっくりと目をこらす。


 川の水はここ最近一段と勢いを弱めた。

 長い時間をかけてのろのろと荒野を横切る水は、決して澄んでいるとはいえない。

 そうだ。干上がりかけているのだ、この川は。


 この川が干上がれば、街はどうなるのだろうか。おれ達はどうなるのだろうか。

 この歪んだ母と子の関係も、終わりになるのだろうか。


 袋を浸して、流れから水を集める。

 大量に水を入れた袋を抱えて、少年はゆっくり立ち上がった。

 そして気を抜くと地面に付きそうになるその麻の袋を背負って、再び夜の荒野を歩き始める。


 早く帰らなければ。

 しかし街に近付くほどに、何故か足は重くなるように感じた。


 最近はよく、こうして水を汲みに外へ出る。

 街の外が危険なことは、よく分かっているのに。


 この状況下で街の外へ出るということは尋常ではない。

 獣が出る、それ以上に、今は人間に出会うことが脅威なのだ。

 盗賊はもちろんだが、光領の偵察兵に見つかればその場で終わり。

 尋問された後、口封じのために消されてしまう。

 子どもだろうと容赦はない。

 実際、渇きに耐えかねて川辺に導かれ、そのまま帰ってこなかった者は数え切れなかった。


 それでも自分の運命を試すように、少年の足は毎晩街の外へと向いた。

 繰り返す過酷な一日を始める前に、こうして荒野を歩き通す。


 それがどうしてなのか、答えてくれる相手は誰もいない。

 

 ただ重い足だけは荒野を進み、少年を壁の街へと運んでいく。


 街の外壁が近付く。

 夜更けに思い立って、気付けばもう夜明け近くになっていた。


 幸運なことに、今夜も少年は生きて街までたどり着いた。

 ……帰ってくることができた。


 肩が痛い。

 足はもう棒のようだった。


 再びあの秘密の抜け穴を通って、あのうちまで帰らなければ。

 唯一の居場所へ、帰らなければ。


 それだけだ。


 見上げる空には、光の薄まっていく無数の星。


 夜が明けるのだ。

 いつもと変わらない夜明けが来る。


 空を見上げる顔を下げ、街を囲う防壁を見据える。

 もうすぐだ。

 もうすぐ、変わらない一日が始まる。


 ……音に気付いたのはそのときだった。


 どこかから響いた聞いたこともない音に、少年は気付いた。

 再び顔を上げる。



 そして夜空に、紅い光が走るのが見えた。






「――何だありゃ」


 その夜、その鉱山に集っていた人々は、赤く輝く奇妙な光に目を覚ました。


「光領の基地のてっぺんが光ってやがるぜ」


 くたびれた様子の禿頭の男がつぶやく通り、遥かに見える光領の基地。

 並ぶ岩の塔の群れ。その一番高い塔の先が赤く光り始めていた。


 見張りの兵士達が慌ただしく起き出してくる。

 しかし、動きといえばそれだけで、あとは皆一様にあんぐりと空を見上げるばかりだった。


 山々の向こうに黒い影のように見える光領の基地。

 もとい、テウバの人々の建てた岩の塔がここから見えるのはいつものことだ。

 しかしこんなことは初めてだった。


 赤い光は徐々に丸く、巨大な球体へと拡大していく。

 それが何かのエネルギー体だということは、だんだんと人々にも分かり始めた。

 だが一体何のためのものなのか、誰にも答えは出ない。


 一体何が起こったのか。起ころうとしているのか。

 ただ赤い光とともに大きくなっていく悪い予感だけがその場を包んでいた。


 突然のことに続々と外をのぞきに集まった者達の中から、一人の男がある人物に声をかける。

 その出来事の意味を問うように、すがるような目でその人物を見ていた。


「リツミ、あれは何なんだ? これから何が起きるってんだ? やべーんじゃねえか? やつらまさか、ここを狙って……」


 他の人々も、助けを求めるようにその人物……リツミと呼ばれたその人を取り囲む。


 皆と同じように空を見上げていたその人は、赤い光が指す方向を察して言葉を発した。

 その顔は夜明けの薄明かりに蒼白だった。


「いや――ここじゃない」





 荒野に響いた爆発音のような尋常ではない音に、夜明けで目を覚ましかけていた村人は一斉に起き出していた。


 一体何事かと、荒野をのぞむ林の先へと急ぐ。


 そして村人たちがその途中ですれ違ったのは、猛然と村の出口へ駆けてくる異界人の青年と、その後を追うもう一人の青年だった。


「ルイ、待って!」


 後を追うほうの青年が必死に叫ぶが、先を行くほうのくせ毛の青年は一向に止まる様子はない。

 そのまま村の出口へと振り返りもせずに駆けていった。


 彼らが駆けてきたのは林の向こう。

 そこで何かを見たのだということは、村人にも察っすることができた。

 先ほどの爆発音の正体を見たのだろうか。それが彼らが村の出口へ急ぐ理由なのだろうか。


「……あれは、ルイとミヤギくん?」


 外で何かが起きた気配に急いで装備を整えたレンも、村の外へと出ていく二人の姿を見た。

 何があったのか、二人の形相は必死そのものだった。


 そして彼女がことの真相を知るため林の先にたどり着く頃には、その場所にすでに何人か村人が集まっていた。

 しかし、口を開く者は誰もいなかった。


「一体何が……!」


 レンも息せき切って正面を向いて、絶句した。


 林の先に見える景色。夜明けの薄明かりに浮かぶ、見慣れたはずの荒野。

 その一点に立ちのぼる巨大な黒煙。

 そして竜巻のように舞い上がった黒煙が開けて、その中に包まれていたものが姿を現し始めていた。


 真っ赤に燃える炎の塊。

 街があったはずのその場所で上がる、巨大な一本の火柱が。


 誰かがつぶやく。

 

「一体、何が起きたんだ……?」

「うそ……隕石? 隕石でも落ちたの?」

「流れ星ではない。わしは見た。光領の基地の方から光が走ったんだ。これは、」

「光領の攻撃か? だがやつら何をしたんだ? 街が一瞬で……」


 確信は何もない。

 分かることはただ一つ。壁の街が空を焦がすような火柱を上げながら、その全体を燃え上がらせているということだけだ。


 そして己のすべきことを誰よりも先に察したのは、呆然としたように街の炎を見ていたレンだった。


「……あの二人は、街に」

「レン? どうしたんだ?」

「……っ!」

「おい待てレン! 今あそこに行くのは……!」


 その場にいたジュナが呼び止めるのも聞かず、レンもまた、青年二人が向かったのと同じ方向へ走り出した。

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