第9話 旅の始まり

 昼間の極暑が嘘のように、荒野の夜はひどく冷え込んだ。

 遮るもののない冷風が、地表近く直進していく。


 石造りのバルコニーのような所に立って、ミヤギは改めて荒野を見渡した。


 骨身に染みるような寒さだ。それでも、上着の襟を合わせる必要のないことは分かっていた。


 元の世界の季節は秋だった。だから、ミヤギが今着ているのは一応長袖だ。

 しかし、これで完全に防寒できるとはいいがたい。

 暖かいコートも手袋もない。それなのに、今は手がかじかむこともない。

 体が震えないのだ。最初からこの環境に適応していたかのように、普通に立っていられる。


 食事の用意ができたという兵士の声がして、ミヤギは部屋の中へと引き入れられた。


 戦場を見渡した岩山を下りてしばらく。

 ミヤギたちは再びあの岩の城まで戻ってきた。

 しかしコウノは仕事があると言って別れ、その日はそのまま姿を現さなかった。

 メルベも、ミヤギから早く距離を置きたいとばかりにさっさとどこかへ行ってしまった。


 そしてミヤギは、塔の中にある部屋の一つに夜まで取り残された。

 近くの部屋なら見てもいいが、迷うといけないのであまり歩き回らないように言われ、なるべくじっとしているしかなかった。

 幸い、与えられた部屋には大きな窓が開いており、外を眺めて過ごすことができた。逆にいうとそれしかできなかったが。

 日差しが照りつけていた荒野にも、やがて夕暮れの薄闇が訪れ、気温が下がっていく。

 鳴り続いた砲音は、陽が陰る頃には止んでいた。


 そして荒野に夜が訪れた。

 しかし、それはミヤギが今まで見てきた夜とは違う色の夜だった。

 夕暮れがずっと続くような、赤い夜。

 どろどろとした、暗い赤だ。

 どうやらこの世界の夜空はこういうものらしい。

 天は太陽が沈んでも赤いまま。

 赤いまま暗くなった。

 元の世界の夜よりわずかに目がきくが、それでも光は星明りのみ。

 赤黒い、といえば良いだろうか。


 この世界で初めての夕食は、コウノの部下の兵士が部屋まで運んできてくれた。

 相変わらず、ここにどれくらいの人員がいるのかは分からない。ミヤギが顔を合わせるのは、今のように水や食べ物を運んで来る兵士だけだ。


 やせた豆を大量に入れたスープを、幅の広い匙ですくって食べる。

 慣れない味ではあったが、同時に薄味であったため気にせず口に運べた。


 そこからは一人用意された夕食を食べ、食べ終わる頃には寝床が用意され、一個のランプとともに小部屋へと通された。普段は物置か何かに使っているのだろう、幌のような布や材木が積み上げられたその隅に、簡易な寝床が整えられていた。


 部屋には換気のためか、天井近くに小さな格子窓が開いている。

 景色は見えないが、かろうじて朝になったかどうかは分かるだろう。


 部屋の中に通してくれた兵士に礼を言って、ミヤギは寝床へとついた。

 そこらに積んである布を何枚か重ねただけの敷布団に、同じ布を一枚掛けただけの掛布団。

 冷え込んできたが、今ならこれでも十分だろう。


 枕元にランプを置いて、しばらくぼんやりと座り込む。

 

 しかし前の日から……この世界と元の世界の時がつながっているかどうかは分からないが、前日からろくに眠っていない。一度気を失ったが、それも一瞬のことだったように思う。

 さすがに眠気が迫ってきて、ミヤギは少し横になることにした。

 

 寝転がると、厚手だが硬い布が肌に擦れる。

 体は少しべたついてはいたが、一度雨に流されたからか、そんなに不快に思わず横になることができた。

 どうやら代謝まで変わってしまったようだ。

 そんなに汗を流さなくても体温の調節ができる。

 暑さにも寒さにも、強くなったということだろう。

 そしてそれは多分自分が、『異界人』というものだからなのだ。


 寝床に入る前に脱いだ上着には、今はネズミがくるまっている。

 あの後、傷が回復するのを待って野に放しておこうかというコウノの申し出を断って、一緒に連れていくことにしたのだ。


 どうやらコウノがくれた薬はいいものだったらしい。

 ネズミの細い息は、だんだんと安らいだような寝息へと変わり、体温も上がってきていた。

 この調子なら、いずれ目を開けるかもしれない。


 すうすうと寝息を立てる小動物を眺め、ミヤギはほっと息を吐いた。

 そっと、指先で小さな背を撫でる。


 そう、まだ終わりではない。


 昼間コウノから聞いた話。

 黒煙を上げる戦場の姿。

 それを見ながら自分が口にした言葉。


 撫でるネズミの背の暖かみが、指先に伝わる。

 

 これからコウノの言う、長い旅に出なければならない。

 どこに着くかも、先がどうなるかも分からない旅に。

 もしかしたら、ゆっくりとれる休息はこれが最後かも知れない。


 異世界。それも、戦いが延々続いているという荒涼とした世界に来てしまったのだから。


 ランプをつけたまま、ミヤギは束の間、少し重くなったまぶたを閉じた。





 ――夕焼けに染まる、優しい笑顔。

 取り囲むのは、七歳から十歳くらいまでの子どもたち。

 その子どもたちの輪の中心。笑顔の青年の腕の中には、毛を水に濡らし、ぶるぶる震える一匹の子犬がいた。

 子どもたちは心配そうに、わるわるその頭を撫でていく。


 世界は赤。

 夕陽に染まる家並に、吹き抜ける辻風。

 何故だろう。それだけで心が休まるようだった。


 青年は笑顔のまま、子どもたちに何か言っている。

 多分、もう大丈夫だと、そう言っているのだと思った。 


 遠く、遠くからそれを見ていた。


 懐かしいと、そう思ったのは幻想ではない。

 今すぐ駆け出して、彼らのもとへ行きたかった。


 しかし、最後まで自分がその輪に加わることはなかった。


 不意に、足下が崩れ去っていく。

 懐かしい景色は遠ざかって、目の前は真っ暗になった。

 どこかへ落ちていく。

 まるで吸い込まれるように。


 そして最後に見えたのは、緑の水面。


 緑の水面。


 それは一瞬のうちに目前へと迫り、次の瞬間には、体はその表面へと叩きつけられた。

 その衝撃で深みへと沈んでいく。

 ぬるく滑った水に、体が絡み取られた。

 もがけばもがくほど、水面は遠くなる。

 浮かび上がれない。

 ただただ、もがくしかない。

 そうして水中を漂っているうちに、流される背中が何かに当たった。

 

 そこには何故か、垂直の壁があった。

 水底から上へ上へと向かって、無数のひびが走った白い壁が。

 見上げればその壁の先に、水面から光が注いでいる。

 あそこまで浮かび上がらなければ。


 しかし、そこで限界が来た。

 最後の泡を吐き出して、そのまま体は弛緩したように動かなくなった。

 もがくのをやめた体は、暖かい水流に乗って、上へ上へと運ばれていく。

 望んでいた水面へと浮かんでいく。

 やっと、外の光が見えた。


 しかしそうして水面に出た途端、今度は体が宙に浮き上がった。

 大きく鋭い爪に捕えられて、視界は一気に空へと舞い上がっていく。


 眼下には、緑の水をたたえた巨大な湖と、その周りに広がる黒い森。

 それは間もなく、風をきって赤茶色の荒野の景色へと変わった。


 爪は容赦なく体に食い込み、その痛みに悲鳴を上げた。

 それもむなしく、巨大な猛禽に捕えられ、小さな体は乾いた荒野へと遮るものなく連れ去られていく。

 痛みと暑さに、とうとう意識は霞むように消えていった。

 


 

 ――夢はそこまでだった。


 一睡もできないだろうと思っていたが、案外自分は図太い神経をしていたらしい。ネズミの様子を見守っているうちに、ほんの少しだが眠っていたようだ。

 

 目を覚ましたのは自分の指先で、何か温かいものが動くのを感じたからだった。

 

 夢から覚めたまぶたを開いて見てみる。

 ランプの明かりの下で、眠っていたはずのネズミが動いていた。

 小さな目を開け、首を回してしきりに周囲の様子を窺っている。

 

「今のは、君の……」


 呟くと、ネズミは肯定するように、小さな瞳でまっすぐミヤギを見据えた。

 ミヤギも、うっすら微笑んで見つめ返す。

 そのまま指をそっと、ポンとネズミの頭に乗せると、彼は小さく鼻を鳴らした。


 そうか。またあの『力』が……。


「それより、やっと目を覚ましたんだね。良かった」


 ミヤギの上着から這い出そうとはしないものの、開いた瞳は生気に満ちた光を灯している。

 この分なら、徐々に回復が見込めるかも知れない。

 

 ふっと、格子窓を見上げる。

 外は赤黒いまま。

 未だ夜は明けない。


 それでも小さな命は、やっと目を開けた。

 今はそれだけで十分だった。

 

 ネズミを見守り、浅い眠りを繰り返し、ミヤギはその日の夜を過ごした。

 




 そして、次の日の朝日が昇った。

 朝には兵士が、堅いパンと水という、簡単な朝食を運んできてくれた。


 ミヤギのポケットの中では、人間が慌ただしく動き始めたのを感じたのか、ネズミが不思議そうに首を回していた。

 試しにパンをちぎってネズミの前に差し出してみる。

 しかしまだ物を口にはできないのか、鼻先で匂いを嗅ぐだけだった。

 そしてその後は、また昨日のように眠り始めてしまった。


 改めて、この世界の水を飲む。

 そういえばコウノは昨日、ミヤギにこの世界の水を口にしたかどうか確かめた。

 あれは、何だったのだろうか。


 口の中で、あのときの雨水の味が蘇るような気がした。

 終わりではなかった。

 どうやらまだ自分は死んでいないらしい。

 目を閉じて、覚めることができた。

 これは夢ではない。

 夢だったとしても、まだ自分はその先を見なければならないようだ。


 窓の外を高く高く昇っていく太陽を見上げる。

 この荒野を抜けなければ。


 昨日コウノが言っていた流れ者の村まで、当てはないが行くだけ行ってみよう。

 何でもその村はこの世界の戦災を逃れた人々が集まる隠れ里のような場所で、同じ境遇の流れ者には当面の住居を与えてくれるらしい。

 ミヤギに同じような歓迎が待っているかどうか分からないが、この辺りで頼りになるのはそこだけだ。

 まずはここから一番近い街とやらまで行き、その街から村へ行くのだ。


 兵士に連れられ、基地の出口へと立つ。

 門はすでに開かれ、荒野へ出て行くミヤギを、コウノとメルベが見送りに来てくれていた。


 コウノは昨日と変わらぬ底知れない笑顔のまま、門の外を指し示す。 


「ここからは戦場だ。徒歩では無事に着けるか分からない。部下に街の近くまで送らせるよ」

「ありがとうございます、コウノさん」


 見れば門の向こう側に、一台の幌馬車が用意されていた。

 すでに御者が乗り込み、馬の手綱を握って待っている。

 あの馬車で、街まで連れていってもらえるらしい。


 そしてコウノはミヤギに、褪せた緑色の布カバンを持たせてくれた。

 衛生兵か伝令兵のお古だというそれは、戦場で使われていただけあって丈夫な作りで、表のほうにはミヤギにちょうどいいポケットが付いていた。

 何にちょうどいいのかと言えば、それは荒野で出会った相棒を入れ込むのに非常にいい大きさだった。

 空気が通るように隙間を開けて、そっと眠るネズミをカバンのポケットに入れる。


 カバンの本体には昨日のネズミのための塗り薬と、少しの保存食、水の入った小瓶、そしてわずかな金子きんすが入っていた。これらもまたコウノがことづけてくれたもので、金子はこの世界の通貨で馬車一乗り分の価値だという。


「この先に目指す『壁の街』がある。村はその近くだ。ひとまずそこへ行って、村の詳しい位置を聞くといい」

「壁の街?」

「ああ。この世界じゃ、街や村はみんな俗称で呼ばれる。国や、世界だってそうだ。本当の名前を知ってるのは、そこを治める者くらいだよ」

「世界も、ですか」

「そう。この世界の俗称は『ヴァイオレンシア』。力を信奉する神と人間たちの住むところ」

「ヴァイオレンシア……」


 それがこれから、ミヤギが歩こうとしている世界の呼び名。

 その名を記憶に刻むように呟いて、ミヤギは門のほうへ足を踏み出した。


「本当に行くのかい?」


 背を向けたミヤギに、出し抜けにコウノはそう言った。


「はい」


 振り向いてそう答えると、あの穏やかな笑みが返ってきた。


「そうか。名残惜しいけど、気をつけてね」

「コウノさん、メルベさんも、お世話になりました」

「ああ。短い間だったけど、会えて良かったよ」


 コウノが笑顔のまま手を上げる。

 メルベは終始黙ったまま、二人のやり取りを見ているだけだった。


 そしていよいよ青年は門の外へと歩き出す。

 昨日入ってきたのとは違う門を、ミヤギ一人でくぐっていく。

 行く手には平地ではなく、岩肌に囲まれた狭い道が開かれていた。


 用意された馬車の荷台に乗り込むと、御者は無言のまま、すぐに馬車を走らせた。

 荷台を包む幌の隙間から、小さくなっていく基地の姿を眺める。

 荒野で助けてくれた青年と女性の姿は、しばらくすると岩の影になって見えなくなった。


 そうしてミヤギは、巨大な岩の塔が立ち並ぶ基地を後にした。

 最後に見上げた一番高い塔。その先端が不思議な威圧感を放ちながら、ミヤギを見送っていた。





 ――砂を蹴立てて、幌馬車が走り出す。

 幌の中に異世界の青年を乗せて、赤い岩肌の谷へと去っていく。


 見る間に小さくなるその影を目で追ったまま、コウノは後ろに立つメルベに問うた。


「――何をそんなに険しい顔をしているんだい?」

「……あの男、なんだか読めないやつでしたね。気味が悪い」


 眉を厳しく吊り上げながら、メルベが本日初めての言葉を発する。

 コウノは苦笑混じりに後ろを振り返った。


「気味が悪い、か。君にそこまで言わせるとは、彼はやはりただ者じゃないな」

「そういう意味で言ったのではありません。彼からは何の特別な力も感じませんでした。あなたも簡単に逃がしたということは、彼は使いものにならないということでしょう?」

「そうだね……。ミヤギくんは平和主義者らしい。戦闘では役に立たないだろう」

「しかし腐っても異界人。今はただの凡人とはいえ、警戒しておくに越したことはありません」

「怒っているのか? 彼を行かせたこと」

「あの男は光領に付かなかった。後々敵となる可能性があるなら、ここで始末しておいたほうが手っ取り早かったのでは?」

「……過激な意見だね。どうする? 追いかけて手を下すかい?」


 コウノの問いに答えるメルベの瞳には、どこか猟奇的な光が宿っていた。


「いえ。その必要はないでしょう。よく考えれば、あの村をすすめて下さったのは賢明なご判断だったかと。だってあの村はもうすぐ――」

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