第3話 相棒
――しかし、歩き始めてそれほど経たないうちに、ミヤギの足は荒野の地面に張り付いた。
噴き出した汗が、今度は干上がるように急速に蒸発し始めていた。
限界だ。そう自分でもよく分かった。
歩いても歩いても、険しい荒野が続くばかり。
景色の向こうの岩山たちは、いまだ霞むほど遠くにあった。
歩いているうちに、何故か遥か彼方から発砲音のような、大砲でも撃ち込むような残響が響き始めたが、それが唯一の人工物と思しきものだった。
相変わらず見渡す荒野に人間は一人だけ。ミヤギだけだった。
膝から崩れるように倒れて、青年は目だけで空を仰いだ。
二度目の覚悟の時だった。
今度こそこれが最後だろう。
それとも目を閉じれば、また次の極地に行くのだろうか。
いずれにせよ、もはや目を閉じるしかない。そうするよりほかにできることもないのだから。
俊敏な猛禽たちは、すでにミヤギの頭の上に集まり始めていた。まるで彼が歩き始めたときから、結末を知っていたかのように、それは素早い動きだった。
大砲の音は、相変わらず空気を震わせている。死肉を求めて甲高く鳴き叫ぶ猛禽は、今や十数羽にまで数を増やした。太陽は真上で、終わることなく熱気を注ぐ。
青年の心は、波間にいたときのように穏やかだった。
終わることに変わりがないのなら、なんでもよかった。これでようやく目を閉じられる……。
――それまで完全な晴天だった空に、急激に雲がかかり、太陽が隠れ、やがて大粒の雨が降り注ぎ始めたときも、ミヤギは地に伏したままだった。
(……雨だ)
そう思った時には、すでに、バケツをひっくり返したような大雨になっていた。
突然の雨に、猛禽たちは困惑の叫びを上げながら散り散りに飛び去っていく。
ミヤギは呆然とそれを見ていた。
乾いた地面は、叩きつける水しぶきによってしばらく土煙を上げていたが、やがて完全に湿り、水たまりを作り始めた。
雨は倒れたミヤギの身をも包み、体全体で失った水分を吸収させるように注いでいく。
ゆっくり立ち上がって仰げば、飲もうとせずとも、雨粒は唇から喉へと届いた。
――ミヤギがこの世界で出遭った、最初の雨だった。
雨はすぐに上がり、太陽は出ないものの雲はゆっくり散り始めていた。
湿った荒野に、ミヤギは立っていた。
立っていることができた。
喉が潤って、自然に息ができる。
熱に浮かされるようだった頭が冴えていた。
どうやら通り雨に遭って、死の際を救われたらしい。
体中の感覚が回復していく。
それも不思議なくらい急速に。
しばらくじっとしていると、再び足を前に踏み出せるほど気力も戻ってきた。
だがこの先どうしたものか。
相変わらずここには何もない。
立ち尽くしていられずに、ミヤギはまた前へと進み始めた。
不思議なことに、雨に降られたあとは、さっきまでの衰弱が嘘のように体が軽かった。
足が羽のように前へと進む。先ほど倒れるまで歩いた距離を、小走りに走り抜けるようにすぐに歩けた。
景色が流れ出す。さきほどよりずっと早く。
赤い地面ばかりで同じだと思っていた荒野のわずかな変化を感じられるのだから、よほどの速度で歩けているのだろう。
荒野の奥へと、確実に進んでいくのが分かる。
このまま行けば、あの岩山の向こうへ着くことも不可能ではないかもしれない。
打って変わって湿った空気のなかを、ミヤギはまたひたすら歩いた。大砲の音はいつの間にか止んでいた。
雨は驚くほど急速に降り注ぎ、急速に上がった。あの状況では、ミヤギを生かすための、奇跡のような雨だった。
しかし、雨が降るという以上の奇跡は今のところ起きそうもない。相変わらず荒野に一人だ。歩く以外にできることはなかった。
早足に歩き続けて、一時間ほど経ったころだろうか。
空気が湿ったからかどうかは知らないが、これだけ歩いても一向に疲れはなかった。空が曇っても荒野の気温はそれなりに高いようだが、もはや命の危険を感じるほどではない。
本当に不思議な感覚だ。これはやはり夢か何かなのだろうか。
考えても答えはない。
歩いていれば、誰かに会えるだろうか。それすら分からない。
次の限界が来るまで、歩くしかない。
そして徐々に岩山が迫って、地面も砂ばかりの大地から、砂利の混ざった歩きにくいものになり始めた。
体力は戻ったものの、徐々に起伏を増していく慣れない道に足をとられる。
何もない所だ。人が歩く道でもないのだろう、整備などもされていない。
不意に踏みしめた岩が崩れて、前のめりにつまずいた。
そのまま転ぶことはなく、すぐに体勢を戻す。
自分にこんな運動神経はなかったはずだが、今はそれが救いだった。
とりあえず、どこまでも歩いていける。
そんなことを考えながら、ふと、足下に視線を落とした。
地面のくぼみに尻尾のようなものを見たのは同時だった。
動いている。
思わず、近付いて覗き込んでいた。
長い尻尾をたどっていけば、地面に開いた穴ぼこの中に、小さなネズミのような生き物が横たわっていた。
この世界で出会う、鷹以外の初めての生き物だ。
ネズミと言っても耳がウサギのように長く、ミヤギが普段目にするものより体が大きい。今まで目にしたことのない生き物だった。
しかし生き物といっても、そのネズミは地面に横たわったまま動こうとはしない。
目も閉じていた。
ミヤギが歩み寄ると、近寄った人間の気配にネズミは小さく息をついた。どうやらまだ息はあるようだ。
見れば、その腹の辺りに大きな赤い傷がある。獣の爪に深くえぐられたような傷だった。
この辺りに動物が生息している気配はない。恐らく猛禽に捕えられて巣へと持ち帰られる途中で投げ落とされたのだろう。
か細く息をついてはいるが、それは本当に弱々しく、今にも絶えてしまいそうだった。
ふっと、かがみこんで、ミヤギはそのネズミのような小動物を手の平の中にしまい込んだ。すっぽりと、両手におさまるサイズだ。
持ち上げてもその小さな体はぴくりともしなかった。そのままミヤギの手の中で細い息を繰り返すだけだ。
しかしミヤギがじっと視線を注ぐと、ネズミは、緩くではあるが小さな双眸を開いた。彼もまた、初めて出会うミヤギをじっと見つめている。
その様子を見ながら、荒野で見つけた死にかけの動物に、青年は安心させるように微笑みかけた。手の中で強ばっていたネズミの体が、少しだけ緊張を解かれて柔らかくなるのを感じる。
そのまま傷に触らないように背をなでてやると、その小動物は再び瞳を閉じた。
「……僕も一人なんだ」
手の平で眠り始めた、初遭遇の生き物を見つめながら、ミヤギはぼんやりと思考に沈んでいた。
やはりここは、自分の住んでいた場所とは全く別の、遠い遠いどこかであるらしい。
こんな小さな生き物さえも、見慣れたものとは違う。
荒野の真ん中で、一匹と一人。
これから、どうなるのだろう。
答えはなく、ただ手の平の小さな生き物が、かすかに暖かい呼吸を繰り返すだけだった。
そして、ミヤギが荒野で唯一見つけた小さな温もりを見守っている、そのときだった。
目指す岩山の向こう側。
何もないと思っていた荒野の奥から、こちらへ向かって迫りくる、馬影のようなものが見え始めていた。
影はすぐに大きくなり、馬に乗っているのがはっきり人間と認識できるまでに近付いていた。それも、かなり大柄な男の姿が見てとれた。
しかもそれは一対ではない。同じような体格の男が二人、馬に乗ってこちらへ駆けてきている。
荒野の景色ばかりで目がよくなってしまったのか、遠くからでも簡単にその容姿が判別できた。
男たちは、服を着ているというより、皮をつぎはぎしたものをそのまま体に張り付けているかのような格好をしていた。
さらに目をひくことに、二人とも抜き身にした刃物を、馬の手綱を引くのとは反対の手に持っている。鈍く錆の付いた、見た目には切れ味の悪そうな鉈のような刃物だ。
そして、先頭をきるほうの男の背には、先の長い、猟銃のようなものが負われている。
人だけではない。彼らを乗せる馬も同様に武装していた。詳しくはないが、馬専用の鎧か何かだろうか。馬の頭から背にかけて、黒塗りの装甲が取り付けられている。
乗せている人間の原始的な姿とは裏腹に、馬に施された装甲は全て金属で出来ているようだった。
そんな風にのんきに観察している間に、馬はミヤギの目の前まで迫ってきてしまった。
どのみち何もない荒野ではどこにも逃げ場がなかったが。
豪快に蹄の音を立てながら、そして豪快に砂粒をミヤギにぶっかけながら、二頭の馬は止まった。ミヤギは思わず、ネズミを守るように抱え込んでいた。
一体何事かと目をすがめながら、馬上の人物たちを見上げる。
目の前に立たれれば、男達の容姿はさらに際立っていた。
太くいかつい眉毛。針金のような無精髭。髪は逆立って伸ばし放題。方向を定めずもじゃもじゃと広がるその所々に、わざとなのか気にしていないだけか、ごみなのか飾りなのか、細かい糸くずが編みこまれていた。
顔つきもさっきから険しすぎる。……出会ったばかりだというのに、目をむいて歯をむいて、こちらを見ているのだから。
服装にしろ、馬にしろ、明らかにミヤギが元いた国の人々ではないが、その前に彼らは――。
「おう、兄ちゃん。何をそんなに大事に抱えてるんだい?」
先頭のほうの男が、馬上から話しかけてきた。
不思議なことに、何を言っているのかは理解ができた。
……しかし、口調がとても友好的なものではないということも同時に理解できた。
脅すようなだみ声だ。いや、脅したいのだろう。
そう、違う土地だって明らかにそうと分かる。彼らは。
「おい、聞いてんのか兄ちゃん。口がきけねえのか?」
答えずにいると、先頭の男が畳み掛けてきた。
背に負った長銃がガシャリと音を立てる。
相変わらず剣は抜き身のままで彼の手にぶら下がっていた。
「って、なんでえ、ただのネズミじゃねーか。気色悪い」
ミヤギの手の中のものの正体に気付いたのか、後ろのほうの男が機嫌悪げに眉をひそめる。
業を煮やしたのか、先頭の男がその背に負っていた銃を構えた。
「まあいい。兄ちゃん、持ってるもん全部出しな」
盗賊だ。
やっと人間に会えて言葉を掛けられたというのに――言われたことはろくでもないが――頭が暑さにやられたせいか、まだ半分夢の中のような感覚だった。
これは現実だろうか。
少なくとも今目の前にいる限りは現実だ。
銃口を向けられている。
盗賊。盗賊に襲われたときはどうすればよかったのだろうか。
思い出さなければ。
しかし今は、今世紀最大級に頭が混乱している。
混乱しすぎて冷静だ。
だからか、ミヤギは最も先に思ったことを口走っていた。
「その馬、少し休ませてあげたほうがいいと思います」
「はあ?」
さっきからミヤギと目が合っているのは、盗賊の彼らではない。
彼らの乗っている馬のほうだった。
馬も馬で、装甲の隙間からわずかに見える小さな瞳は、まっすぐミヤギと視線を合わせている。
近づいてみるともの凄い装甲だ。
盗賊たちの古臭い装備と比べても、馬の装甲だけは際立っていた。
曇り空の下でも、光沢があって黒光りしている。
鎧は馬の体型に合わせて曲線を描き、軽量にするためか金属のようなのに布と見まがうほど薄い。相当の技術をもって造られているようだった。
しかしこの暑さのなか、いつからあの装甲を付けているのだろう。
止まったというのに、いまだ二頭の息は荒いままだ。
蹄もぼろぼろに荒れて、よく見れば装甲の隙間から出た地肌には無数のかすり傷が付いている。
この荒野で、ずいぶん酷な扱いをされているようだった。
ミヤギがじっと見ていると、馬は呼吸を落ち着かせ、何だか安心したように、ふっと鼻を鳴らす。
反対に盗賊たちはいきり立った。
「おう、ふざけてっとその頭ぶっ飛ばすぞっ!」
「ごめんなさい。お金になるような物は、何も持ってないんです」
今度は盗賊に向けて、正直に言った。
しかしこれもうまい答えではないだろう。
どのみちこの状況では空回った答え以外返せない。
持っているもの――有り金を渡さなければならないようだが、案の定、有り金などいまのミヤギにありはしない。上着のポケットは空っぽで、財布も何も、川に流されたのか身に着けていなかった。
赤い錆の目立つ、盗賊達の曲刀を見る。
正直に話したところで、そのまま見逃されるはずもないだろう。
ミヤギも思った通り、盗賊たちはますます憤怒の表情になった。
「馬鹿言え! こんなとこを一人で歩いてんだ。何か持ってんだろ! さっさと言われた通りにしろっ! さもねえと、……おおっと、なんだ!?」
刀身を振り上げた後ろの男の馬が、突然後ろ肢を蹴立てて暴れ始める。
先頭のほうの馬も、それに倣うようにそわそわと動き出した。
後ろの男は必死で馬をなだめようとするが、一向にその動きはおさまらない。
慌て出した仲間を見やって、先頭の男は改めてミヤギに視線を戻した。
殺意に満ち満ちた、血走った目で。
「ふざけやがって……!」
そのまま、銃を構え直してミヤギに狙いをつけた。
今度こそ撃たれる。
ミヤギはネズミを抱えて身構えた。
しかし、とうとう銃弾が飛んでくることはなかった。
男が銃の引き金に指をかけようとすると、その馬は、今度は主人を振り落とさんばかりに暴れ始めたからだ。
「な、なんだ、何してやがる!?」
耳をつんざく馬の嘶きと、狼狽した男の叫び。
完全に統制を失った馬上で、男は引き金に指をかけたまま、激しく揺さぶられていた。
そして男が馬上で体勢を崩した瞬間、勢い余って、銃弾も一発放たれたのだ。
ミヤギに当たるはずだったそれは、まったく検討違いの方向に飛び、雨上がりの荒野に銃声だけが虚しく響いた。
――甲高い、鳥笛のような音が、男たちの来たずっと向こうから響き始めたのは、ほどなくしてのことだった。
「ああ、頭、やべーぜ。奴らが来た……!」
「なっ?! いけね、ずらかるぜ!」
やっと馬を抑え込んだ盗賊たちは、今度は焦ったように目を見交わした。
そして素早い動きで武器を腰元にしまうと、今度は両手で手綱をとって、やけに真剣な顔で走り去ってしまった。
砂煙を蹴立てながら、音のした反対側へと、見る間にその影は小さくなっていく。
ネズミを抱え呆然と見送るミヤギの耳に、次なる馬蹄の音が聞こえてきたのも、それからすぐのことだった。
盗賊がやって来たのとほぼ同じ方向から、しかし彼らより速く、次なる馬影は迫った。
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