第2話 水底の荒野
暗い。黒い。波立つ水面が見える。
体が欄干をすべっていく感触は、今も忘れることがない。
頭を先頭に、二十メートル下の川面へと、そのまま頭から叩きつけられた。体を打ちつけた痛さよりも、水の冷たさのほうが先に全身を包んだ。
駅から十分、繁華街を抜けて五分。見慣れた一級河川に、何度も通った鉄橋の上から転落したのは、夜も十二時を回ったころ。
川に落ちるまでのことは、今ではぼんやりとしか思い出せないが、多分、いつも通りの普通の一日を過ごしたあとだった。
水中から見上げる波間には、橋の上の街路灯の光が揺らめいていた。
二十歳。痩せ型。ある部分を除けば至って普通の青年・ミヤギの生涯は、この波間の下で終わるはずだった。
冷え切った唇からもれた
何もできず、ただただ深い所へと沈んでいく。
水流に体を持っていかれるたび、視界は暗く狭まっていった。
……ああ、これが最後なんだ。
そう思ったことも、覚えている。
最後のときも意外と冷静だった頭には、たった一つ、世界への別れの言葉。
しかしそれもすぐに水圧に押し潰された。
黒く霞んでいく、すべてが。
水中に独り消えゆく、青年の命。
街路灯の光は、彼が目を閉じるのと一緒に、淡く消えていった。
――だから、次に目を開ける瞬間があることなど、冷たい水の底で想像できなかったのだ。
淡く消えたはずの光は一つに収束し、再びミヤギの姿を照らし出した。
暗闇が開けて、まぶたの外が、パッと明るくなった。
「…………こ、こは?」
かすれた己の声で目を覚ます。
眩しい日差しに思わず目を開けた。
何故だろう。背に地面を感じる。
どこかに横たわっている。
ここはどこだろう。水の中ではない。
空気の中にいる。思い切り吸える。
もう冷たくない。指が動く、体が動く。
視界が広い。どこまでも見渡せる。
眩しい。外だ。
それを確かめるように、ゆっくり、起き上がった。
起き上がることができた。
本当に空気の中だ。
そっと、体に触れてみる。
傷はない。
痛むところもない。
気付けば鉛のように重かった服も、カラカラに乾いていた。
水中にいた痕跡は何一つなかった。
さっきまで自分を包んでいた濁流はどこにも見当たらない。どころか、辺り一面、景色は干上がったようになっていた。
ビルも、街灯も、街を行く人も、その手の中の電子端末も、そこにはなかった。
――何もない、ここを荒野と人は言うのだろう。
目の前には青い空と、果て無く広がる乾いた地面。
思い切り目を開いて見渡してみる。
河川どころか、水のみの字もない。
そこには草も木も生えない赤い地面が広がるばかり。空気さえどこか埃っぽく、黄色く霞んでいる。
天には火の玉のように巨大な太陽が輝き、いつの間に集まってきたのか、奇妙な鳴き声を上げて飛び回る鷹のような鳥たちは、まるでこの世の光景とは思えなかった。
黄色い空気の向こう側に、かすかに岩山の群れが確認できるが、本当にそれだけだ。自分の前も後ろもそうだった。
人間はおろか、頭の上の奇怪な鳥以外、動く物の気配はない。
完全な無人の荒野なのだ。
青年の頭が混乱し始めたのは、そんな辺りをすべて眺め渡してしまってからだった。
「僕は一体……川に落ちて、それで……」
呆然を越えて、疑問がわき上がって、同時に頭の上から注ぐ強烈な熱気を感じ始めていた。
――暑い。さっきまで息もできない冷たさの中にいたというのに。
川に落ちるまでのことはよく覚えていないが、とにかく溺死しかけたのは夢ではない。そう、水の中にいたのだ。それが一瞬にして荒野になった。
それともからっからの荒れ地のような、ここが天国なのだろうか。
そうだとしても不思議ではないが、感覚はまるで生きているときそのままだった。
とにかく暑い。ここにきて、経ったのは――たぶん――数分もないと思うが、額に汗の玉が結び始めていた。
人生でこれまで経験したことのない、激しい暑さだった。
おそらく死後だというのに、すでにミヤギには、自分に再び生命の危機が迫っていることが感じられていた。
立ち上がって目をこらしてみる。
分かることは一つ。
荒野の真ん中に一人。たった一人だ。
それでもゆっくり足を一歩前に踏み出したのは、まだ頭が混乱していたからだろうか。混乱しすぎて、逆に頭が冴えてきていたからだろうか。
立ち上がると、さらに太陽の熱を間近に感じるようだった。
歩き出すと、風のない荒野にたまった砂が、足下でわずかに舞う。
それでも今はこれ以上出来ることもない。
そして青年は無謀にも、荒野を身一つで進み始めたのだった。
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