整骨院

(1)

 

 商店街のゆるい坂道の斜め上にある鮮明な青色を失い掛けた空が、疲れた色の太陽を辛うじてブラ下げている。数分後には、ゴールデンアワーと呼ばれる全てが金色に輝いて見える瞬間が生まれる筈だ。

 昼間の『殺』のシグナルが発端の傷害事件で極度の緊張を強いられた反動なのか、のんびりと黄昏た街並みに同調しやようとしている私の思考も、意味のない自然現象に曖昧な幸せを無理矢理に感じ取り。弛緩し始めていた。

 だが、暫く歩いて。私の視線は、ぼんやりと眺めた細い路地に新しく出された手書きの看板に釘付けになった。



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【痛みを直ぐに消ちゅ!】


 味噌油整骨院

 右の通りに入り

 直ぐヒダリノ風間様邸から  

 右の入口を利用し来店クダサイ

 

             店主

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 大筆で達筆に書かれた味噌油整骨院なる店名の異様な存在感。整骨院? 痛みをなくす? そんな風に書かれている以上。凄腕の施術士が居るに違いないのだが……味噌油とは何か?

 味噌油などと言う姓も聞いた事が無い。整骨院業の傍ら、味噌や油の販売もしているのか?

 とにかく。私は、その不思議な名前に惹かれた。看板に書かれた通りに右に入る細い路地。既に風間と書かれた表札がある家が見えている。

 私はフラフラと、その路地を進んだ。



「すいません」

 風間さんの宅の左右の同じ扉の右側を指さし確認した後で開ける。 

「いらっちゃいまちぇ」

 同時に、受付の奥から小さな子供の声がした。が、しかし、誰かが受付に座っている様子には見えない。

「えっ?」

 再度、受付を覗き込んだ。

「ちんちゃつから、おねがいちます」

「エッ?」

 私は、声がした方を凝視する。まるで、ひと昔まえの銭湯のように人一人がやっと座れるような受付カウンター。その背面に設置されている棚には手書きで弾丸、軟膏、電池、等と書かれた箱がズラリと並んでいる。カウンターの上には申込み用紙と、これまた手書きで書かれた書類が数枚無造作に投げ置かれている。カウンターの左右にはクリーム色の扉が一つずつ。やはり、誰かが居るようには見えない。

 しかし、私の耳にはたどたどしい言葉使いの、年齢的には三-四歳程度の男の子の声が聴こえた。

「でちゅから~ちんちゃつちつに~おちょおりくだちゃい」

 訳がわからず狼狽える私の右。つまり、受付の右手にあるドア上のランプが、男の子声の後にポーンという気の抜けた電子音を発し点灯した。

 緑色のランプ。診察の文字が白抜きで浮き出ている。

「えっ? えっ?」

「シンサツシツニ、オススミクダサイ……」

 白抜きのランプを呆然と眺める私に、今度は明らかに人間ではない、電子音で合成されたアナウンスが奥から響く。

「えっ? 進むって? 中に入るの?」

 懐疑的な声を発し、誰にとも無く問う。恐る恐る足を診察室に向け。ドアの取手を握ると同時に、今度は受付左手から絶叫が聞こえた。

「グァガァ――!」

 私は、ドアから飛び退き、声がした方を改めて眺める。クリーム色の扉の隣に、どこにでも有りそうな白いドア。

 奇妙な違和感を感じる。そもそも、そのドアは先程まで存在していたか……

 受付前に立って、幼い声の主を探した時に左手にあったのはクリーム色の扉だ。抜けるような白い扉などが並んで存在していた記憶が無い。

「たまらんっな……」

 訝しむ私をよそに、その扉から中年サラリーマン風の男が首を揉みながら出てきて、何だかスッキリとした表情で呟くと私に気付いて笑顔で目礼した。

「あっ……あの……」

 混沌とした思考。上手く身体を動かす事も出来ず、右手を不格好に突き出したまま私は堪らず男に声を掛けた。

「オタクは……肩凝り?」

「えっ? イヤ……って、違わないんですけど……それより、さっきの悲鳴はアナタの……」

「また叫んでた? 叫んじゃ駄目だって言われてんだけどな……でも、気持ちが良過ぎて声が出ちまうんだよな……オタク、初めて?」

 覗き込むようにして訊ねる男の問いに、私は慌てて頷く。

「じゃ……さ行で叫びな。その方が良い」

「さ行……ですか……」

「あぁ、さ行だ。出来るだろ?」

 訳も解らず頷く。男は私の頷いた姿を見て破顔した。

「ところでアンタ。初めてらしいけど、凝凝り証明書は持ってきたかい?」

「ココ……リ?」

「やっぱりなっ……俺も初めての時に、証明書を忘れて大変だったのよ。……んで、どうするよ?」

 私は、大胆に破顔したままの男を呆然と見詰めて固まってしまった。

 目の前の男が発した言葉の意味が解らない。

 イヤ、日本語の意味くらいは理解出来る。

 しかし、男が必要だと言うココリ証明書など聞いたことがない。これでも一応、社会人で、それ相応の教養も身に付けているつもりだ。更に言えば、私は公務員で役所の住民課の職に従事している。

 そりゃ、まぁ……社会人三年生にして今だ窓口にも座れない万年雑用係ではあるが、警察が依頼してくるシグナル関係の事件資料を取り扱う事が出来るのは窓口に座るまでの事だし、それはそれで立派な役割を果たしている筈だ。上司の菱刈部長との不倫だって、私は部長を独り占めしたい等と言ったりはしない。それは私が理解ある大人だからではないのか?

 いや、それは違うかも知れない。

 でも、だが、しかし、私は肩凝りの治療にココリ証明書なんてものが必要だなんて聞いたことがない。

「だからよ~どうするよ? 今日は幾ら?」

 男は、至極当然のように私に再度聞きながら受付の前で財布を広げる。

「ちんちゃつと、ちりょうで、にちぇんちゃんびゃくえんに、なりますっ!」

「えっ?」

 男の応対をする、幼い声に何度目かの困惑の声が漏れたが、相変わらず受付に誰かがいる様子ではない。

「はい、三千円」

「ありがとうごぢゃいまちゅ! おちゅりは、いちゅもとおり『世界寄生虫繁栄基金』に、ごきふでよろちいでちゅか?」

 世界寄生虫繁栄基金のところだけが大人の声に成った幼い声と共に、男が差し出した札は受付のカウンターから、フッと姿を消した。

「オォ!」

「ぉっ!じゃないよ……行くの? 行かないの?」

 驚愕に漏れた声に男は被せるように聞いて、こちらを見詰めた。良く見れば男は端正な造りの顔をしている。顔面だけの評価なら部長の三倍以上の得点を出さねば成らないだろう。

 しかし、相変わらず私には男の話が全く理解できない。

「はぁ……?」

 曖昧なまま呻くように答えた私の手を取ると、男が自信たっぷりに言う。

「そんじゃ、出発するか? 大丈夫! きっと証明書は手に入れるさ!」

「で……何処に行きます?」

 聞きたい事は山程あったが、私は一番の疑問をぶつけた。

「大丈夫だよ! アンタの凝凝り証明も、きっと有るさ。……多分……大丈夫」

 男は、自信たっぷりに言った端から頼り無く答えると、先程診察室と表示されていたドアを指差した。

「ここは診察室でしょ?!」

 私は、男が指差したドアを右手の掌で叩いてヒステリックな声で訊いた。

 頭の中では現状把握に努めてはいるが、既に目の前の出来事は私の理解の範囲を越えている。苛立ちも当然の筈だ。

「大丈夫! アンタは日本人だろ?」

「まぁ……」

 私の苛立ちを全く無視して男が発した言葉に私は頷いた。人は答えられない難問の合間に出された至極当たり前の問いに条件反射的な安心を得る。私は正に今、その状態なのだ。

「だったら、大丈夫だよ。ほら! ドラ〇モン!なっ!? 解るだろ?」

「はぁ……ドラ〇モンなら知ってますが、それと扉にどんな繋がりが?」

 男の問いが、私を更なる未知の世界に誘う予感は有ったが聞き返さずにはいられない。

「知らないの?」

 男が、真顔で更に聞き返した。

「何を? ですか? 失礼ですが貴方が言っている事の意味が私には解りません!」

「怒ったら駄目だよ。俺は解りやすく説明してるだけだよ。つまり、アンタが解るようにもっと簡単に言うとさコイツは」

 怒鳴り声をあげた私の鋭い視線をアッサリと受け止めると、男は扉を慈しむように撫でながら答えた。

「あのアニメのおかげで、俺ら日本人は時間と空間の概念をねじ曲げる事に苦痛を感じなくて済む。本来はよ、時間と空間の移動なんて出来ないんだぜ。勿論、時間の移動は理屈では可能だよ。外国人でも出来る奴は居るよ。でも、空間の移動は駄目だ。解るだろ? 理屈では空間の移動なんてのは説明出来ない。更に時間と空間を同時に行うなんてのは日本人にしか出来ない。つまりだよ……」

「やめてください!」

 私は男が撫でる扉を再度掌で叩くと男の言葉を遮った。

「こんな……貴方は……こんな、普通の扉が空間と時間の移動装置だと言いたい訳? ふざけないで! バカにし無いで!」

 私は扉を蹴りつけた。ヒールで蹴りつけた場所がガコッと至って普通の音を発する。当然だ。扉は、木製の枠にベニヤを張り付け塗装した家具に過ぎないのだ。そんな扉が、何かとてつもない装置に変われる筈がない。

「だけどね、これは……」

「ウルサイ! ウルサイ!」

 私は男の声を完全にシャットアウトすべく同じ言葉を連呼し、男を睨みながら扉を蹴り続けた。


ガコッ!

ガコッ!


ガコッ!


ガコッ!



グヌッリ!


グヌッリ?


グヌッリ?


グヌッリ……


 違和感に、扉を蹴りつけていた足の先から電気が走ったように総毛立った。

 恐る恐る視線を男から自分の足元に移す。


 無い……


 先週買ったばかりのヒールの尖端が無い。更に、ヒールの中に収まっている筈の私の指先も、使い切れずに冷蔵庫の中に残っているソーセージの切れ端のように、垂直な断面を残して綺麗に消え去っている。

「ギッエエッ……ウギッ」

「オオォッ!」

 私の悲鳴を打ち消すように、私の足元を指差し更に大きく男が唸る。

「融合してるね! アンタの足! 融合してるね! 初めて見たよ! 凄いわ……」

 男が、更に興奮した様子で拍手しながら叫ぶ。

「何を、無責任に! 痛っ………く…ない?」

 私は男を無視して、激痛を覚悟し医療器具のスクリーンに映し出された様な指先の断面を見詰めて唸るように呟いていた。

「痛く無い……なんで…?」

 再度呟いて指先の断面を覗き込む。視線の先には消失した部分が取り付いていたと思われる骨や、筋肉、脂肪が生々しい色彩で、私に視覚的な痛みを訴えているが私の脳はその痛みを理解できない。

「なんで?」

「当たり前だよ。指先だけ先に行ってるだけなんだから」

「ど……どこに?」

「凝凝り証明書を探しにだろ? アンタ、大丈夫か?」

 男は平然と言うが、私はパニックの真っ最中で意識も遠退き掛けている。

「なんで?」

「とにかく、早く足先に追い付かないと証明書が貰えなくなる! 着いてこい!」

 言って、男が私の手を取る。

「でも足が……」

 私は消失した足元を見詰めて訴える。

「仕方無い。これでも履いてろ!」

 男は院内入口に有った青色のスリッパを私に放り投げた。青持に白抜きで味噌油整骨院の文字。私は躊躇いながら、それを突っ掛ける。

「本当、行くぞ!」

 男が言って扉の取手を握るとポーンと音が鳴り、診察と点灯していたランプの文字が市成市役場住民課と変わった。

「ここは、私の……」

 私の言葉を待たずに男が手を引く。私は殆んど何も現状を理解できずに引き摩られる様に扉の中に足を踏み入れた。

 扉に飛び込む際に閉じた目を開くと、目の前には見慣れた風景が広がっていた。

「ここは……やっぱり……」

「知ってるの?」

 呟く私に、男が訊いた。

「私……役場の職員なんで……」

「へ~そうなんだ。でも有事勤務では無いんだろ?」

「有事勤務?」

「やっぱり……な」

 男は納得したよう一人頷いて、私の数歩先を歩く。行き先は、ランプの表示に有った住民課だろう。

 見慣れた風景に平静を取り戻した私は勝手知ったる役場の通路を男に着いて歩いた。

 男が言った通り、扉は役場へと繋がっていた。どんな理屈で、あの扉が私と男をここへ移動させたのかなんて知りたくもなかった。

 ただ、分かっているのは男は非常に危険な人間かも知れないと云うことだ。訳の解らない事を言うことで私を混乱させ、どこか遠い国に売りさばくつもりなのかも知れない。とにかく、次の角を曲がれば住民課だ。住民課には菱刈部長が居る。部長に訊けば答えが解るだろう。場合によっては、男を拘束する必要が有るかも知れない。

「あの……有事勤務ってなんですか?」

「そりゃ、アンタの有事って事で俺には解らない。でも、まぁ、俺の有事は第5次丸谷ホテル浮気戦争かな? あの時は、さすがの俺も死を覚悟したよ。真紀……イヤ、元妻が手に入れた垂直弾丸の威力を過小評価し過ぎてたんだよ。きっと」

 男は感慨深そうに言った。やはり、私には男の話の意味が理解出来ない。男の話は剰りに唐突で真実味も感覚的な共通点も無い。だとすれば、つまり男は極度の虚言癖なのだ。私は、自分の問いに答える男の背中を見詰めて納得した。

「元妻って事は、貴方は今、独身なの?」

「あぁ、42歳、独身、職業は弁護士」

 私は心の中で男が呟く嘘を笑いながら住民課を目指した。

 その先の角を曲がれば……

 あれっ? 

 つい先程、同じことを考えてた気がする。デジャブ?

 声にしていないつもりだったが、男は私の言葉に頷いた。

「違うよ。俺も感じてた。俺達は、同じ場所をグルグルと廻ってる。こりゃ……アンタの有事が発令されてるっぽいな……」

「私の有事?」

「アンタが申し出て無いなら、アンタを屈伏させたい誰かが発令した有事さ。となると、厄介だな……」

 男は、急に通路の壁に背中を張り付けると、胸元に手を入れて、スーツの中から何かを取り出す。そして、それを私の掌に乗せた。

「急に何? って、これ……」

「コルト241AT。最近、日本にも普及してきた新型だよ 。自動照準に……」

 男の言葉が耳を素通りする。意識の殆んどが、掌の冷たい鉄の塊に集中する。掌の上に有るのは紛れもない殺人兵器だ。

「何? これで何をするのよ!」

 私は咄嗟に壁に背中を着けて男に訊いた。 男と同じ姿勢に成って怒鳴る私に、今、この現状が現実か空想かなんてまるで解らない。解らないが、男の言う通りに出来ない自分に訪れるのが死で有ることは間違い無さそうだ。

「アンタの有事申し立て人を、ぶっ殺す! 証明書は、その後だ!」

 丁度、男がそう言った時。

 寸前まで私が立っていた場所が陽炎の様に僅かに歪み。キユュュィィと小さく唸ったかと思うと、ボハハッと瞬間的な爆発音を残して弾けた。

「来たぞ……」

 私は、そう言って陽炎を見詰める男の横顔に信じがたい程の魅力を感じた。



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【CM】

しぐなる


 新人の蒲田守が、救急車両の回転灯のように激しくシグナル(?)を回転点灯し始めたので、私は蒲田に聞こえないように小さく舌打ちしてから自分のデスクを立った。

「どうしたのですか? 」

 言いながら蒲田のシグナル(?)を眺めて近付く。今の時代、シグナルの回転や点滅の速さに気を配らなければ部下の面倒はみきれない。案の定、蒲田が青白い顔で答えた。

「か、課長……大田建設の書類に不備が有るらしくて、役所が受け付けてくれないんです」

「どんな、不備だい? 」

「それが……分からなくて」

 蒲田の媚びた視線が私に向く。私は仕方無くデスクに広げられた書類に目を落とした。そして直ぐに、原因を発見した。

「蒲田君、道路使用許可は警察の道路使用認定証を添付しないと通る筈が無いよ」

 私の答えに蒲田の頭上に浮いていた15㎝程の赤いシグナル(?)が、青に変わる。心の落ち着き加減まで表せる最近のシグナルは優れものに違いないが、その分私たち中高年の人間には物足りなさもある。全ての感情表現をシグナルに頼ることに抵抗を感じるのだ。

「分かったら、直ぐに訂正して再提出して下さい 」

 蒲田の肩を軽く叩いて自分のデスクに戻る。積み上げられた書類の山に辟易としながらも自分の仕事を再開する。

 それにしても近頃の学卒の連中は直ぐにシグナルを出すと改めて思う。大した仕事も出来ないのにシグナルを出す技術だけには長けていると思う。私が入社した頃には考えられなかった事だ。

 例えば、小窓建設の施工ミスを押し付けられそうになった時でさえ私は決してシグナルを出さなかった。二億を越える損失が出そうな時にさえだ。シグナルに頼ることなく私は施工をやり直してくれる業者を必死に探した。それを出せば見ている人々から直ぐに察してもらえると分かっていても、いや、分かっているからこそ敢えてシグナルを出したくなかった。

 他にも、会田商会や三島組とのトラブルの時……

「課長、確認をお願いします 」

 思考を遮るように艶やかな声が目の前で響いた。経理の伊坂美幸が頼んでおいた書類を持ってきたのだ。

「直ぐに目を通すから、待って下さい」

 言いながら、伊坂が提出した書類を眺める。視線は書類に落としたが、内容など確かめずに認印を捺して、メモ帳に『今夜は?』と記した。

 伊坂は、それを覗き込むように確認し「ここが、分からなかったのですが」と言いながら確認を促す仕草を真似て、書類の上に出した手のひらに(⚪)シグナルを出した。

「問題は無さそうですね。有り難う御座います。この件は後で連絡しますから」

 私は自分の頭上にシグナル(♂)が出ないように注意しながら伊坂に微笑んだ。油断してはいけない。シグナルが日常化した近頃は、不倫も簡単には出来ないのだ。同期の佐々木などは、顧客の奥さまを見ながらショッキングピンクのシグナル(♂)を出した為に、自ら会社を去ることを余儀なくされた。欲望の類いにマークを使うのは余程の強者でなければ許されない行為なのだ。

 私は目を閉じて、今夜行うであろう甘い妄想に浸った。勿論、マークが出ないように注意しながらだ。

「課長!課長!」

又もや思考を遮る声。

 目を開けると、蒲田が先程よりも青い顔をして立っている。

「どうしたのですか?  又、役所関係ですか? 」

私の問いに、激しく首を振る蒲田。

「だから、何があったの?」

 もう一度問う私の目の前で蒲田が出す頭上のシグナル(♀∵‰♂∬)が激しく入れ替わり、何かを伝えようとしている。が、私にはその意味が読み取れない。

「ちゃんと、伝えてくれなきゃ分からないよ」

 言い終えたと同時に、聞き覚えのある苦々しい声が響き渡った。

「アナタ!!」

 受付カウンターの直ぐ前に、妻が立っている。左手に持っているのは、一週間前に紛失した筈の携帯電話。伊坂との甘い情事の画像が何枚も保存されている携帯電話。

 必死に探したが見付からなかった携帯電話。

 紛失したと思い込んでいたのは間違いで、妻がアレを握っていると云う結果を考えれば、恐らくは私がかけたセキュリティロックを解くのに一週間の時間が必要だったに違いない。しかし、あれを見られたらのなら言い訳など出来ない。出来る筈もない。

 それでも、しかし、ここは私の職場だ。突然乗り込んで来た妻に良いようにされる訳にはいかない。一応は管理職としての面子もある。

「会社まで、何の用だ?」

 言って、私はデスクから勢い良く立ち上がった。

 そして、受付カウンターに隠れていた妻の右手に握られている恐ろしい程に輝く出刃包丁を見た。

 更に、視線を上げると妻の頭上には今まで見たこともない『殺』と立体的に浮き出たシグナルが激しく真っ赤な回転点滅を繰り返している。

「ほう……文字が出せるのか」

 私は、呟きながら自分の頭上に今どんなマークが出ているのかが気になった。

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(2)


「弾丸(たま)」

 男が右手を出したので、私はその手に最新型のトランスファーマシンガン用のフルメタルジャケット弾丸を渡した。

「アンタ、手馴れて来たな」

 男は、役場跡地の崩壊した壁から敵の状況を覗きながら言って、私が渡した弾丸をマシンガンに装填する。

 その横顔を眺め、私は軍用ブーツの上から指先の部分を掻いた。最近生え始めた新しい指先に淡い痒みを覚えたのだ。思えば、指先を無くしてから既に三年が経った。無くした指先は味噌油整骨院から毎月送られてくる塗り薬を塗る事で回復に向かっている。

 だが、私の有事は泥沼の状況が続いている。当初、私と男は、私に向けられたこの有事は菱刈部長の奥様が申し立てたものと考えていたが実際には違っていた。

 緻密に計算された執拗な攻撃。一般的に、この様な攻撃に撤するのはストーカーと呼ばれる人種だ。有事を対戦相手に申し出ないのも彼等の特徴で、暴力で相手を支配したいとの欲望のみで動いている。つまり、彼等に道徳や倫理、ましてや愛など無いのだ。

「なぁ……アンタの凝凝り証明書は、まだ当分貰えそうに無いな」

 男は先程まで覗き穴として使っていた崩壊した壁を背に、腰を落として煙草をくわえて呟くように、私に訊いた。

「私は……この有事で大切なものを見付けた気がするの」

「大切なものか……良かったな」

 男は、三年も一緒にいて未だ私の気持ちに気付かないらしい。

「だから……証明書より、この有事が続いた方が良いような気さえするわ」

 言いながら、どんより濁った空の下に拡がる街を見詰めた。

 銃撃戦で完全に崩壊した街。建物らしい姿を残しているのは、この有事エリアでは殆んど無い。

アメリカ製のショート爆弾の威力を物語っている。

 遠くでは、私と時期を同じくした有事の当事者達が発する銃器の瞬きが至る所で繰り返されている。

「不謹慎かな……俺も、アンタと、もう暫くこの危険な花火を見ていたい気もする……」

 男が、私と同じ瞬きを見詰めながら呟く。

「ありがとう……」

 私は呟いて腕時計に視線を落とした。もう直ぐ19時になる。味噌油整骨院の定刻配送の時間だ。私は、先週の配送時に頼んでいた食品や味噌や醤油などの調味料。そして、迷彩色のスーツとネクタイを身に付けて戦う男の姿のを想像して小さく笑った。


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【CM】

世界寄生虫繁栄研究所



「ヒャッ」

 右肩の辺りに妙な違和感を感じて私は小さな悲鳴をあげた。直ぐに振り返り、生徒達を眺める。 

 だが、私の悲鳴に興味を示す者は居ないようでノートとホワイトボードを交互に睨み、カリカリとペンを走らせているだけだ。

 最近、疲れが溜まっていて妙な感覚に陥る事が多々ある。 仕事だけで無く、離婚の為に毎夜夫婦で話し合う事に疲れているのだ。

 まだ、小さな子供に夫婦のいがみ合う姿は見せられない。自然に話し合う時間は夜遅くになる。

理解はしているが、体力的にも精神的にも限界に達しようとしているのかも知れない。

 私は呼吸を整えると、説明を続けた。

「皆様の会社で置き換えて考えて下さい。商品が売れない理由は、探せば幾らでも有ります。お客様が求めている商品ではない。宣伝の不足。または、商品自体の能力、魅力が足りない。様々な事が考えられますが、商品化された時点で皆様は……」

 最前列の右端で手があがったのに気付いて私はそちらを向いた。

 そして、手を上げている男性の顔に驚き絶句した。確か最前列の右端は芝浦商事の新入社員、田中一郎。新人研修も兼ねて、この販売セミナーに参加している。二重瞼の童顔で、どことなく韓国の人気俳優に似ている。所謂、イケているの部類に属していた筈だ。

 だが、今、私の視線の先にいる不細工を絵に描いたような太って禿げ散らかした中年男は誰だ。


 誰なのだ?


「どうかしましたか?」

 田中一郎の席に座る中年男が不思議そうに訪ねる。

「あ……あなたは……」

「田中です……けど」

 私が訊ねると、その男は困惑の表情で答える。「田中……さん?」

「どうかしましたか」

 男の視線が訝しいものを見るように私に注がれる。いや、その男だけではない。セミナーに参加している全ての人々の目が私を不審者のように見詰めている。

「いや、何でも有りません……続けます」

 私は、その視線から逃れる為に出来るだけハッキリとした口調で答えた。きっと、疲れているのだ。

 これは、錯覚なのだ。

「少し話がズレますが、質問してもよろしいでしょうか?」

 男が丁寧に訊ねる。

「どう……ぞ……」

「先生は、密約と暗殺について何か知っていますか?」

「はぁ? 密約? 暗殺?」

 男の質問の意味が解らず私は呻くように問い返した。

「何か、おかしな質問だったでしょうか?」

 不安気に答えた男が、辺りを見渡す。

 一瞬、男に注がれた視線全てが次に私に向かう。私の答えに教室内の生徒全員が何かを期待している気配が濃厚に漂って、私は言葉に詰まった。

「答えにくい質問ですよね……」

 今度は、奥の席から声がした。確か奥の席は、全て幹部社員達だ。既に、三度目の参加になる彼等は、私の動揺を見抜いて助け船を出してくれたに違いない。

「いえ……そう言う訳では……ない………のですが……」

 言いながら奥の席に視線を移して、又もや私は言葉を失った。


 誰だ?


 奥の席に座る見た事の無い若い男達の集団は、誰だ……

 茶髪に、ロン毛に、スキンヘッド。緑の制服らしい地味な服装だけが揃っていて奇妙と言うより異様だ。その中でも、一番目立つ鼻のピアスをしたスキンヘッドの男が、ピアスが着いた鼻を擦りながらヘラヘラと愛想笑いを張り付けて私を見ている。


 いや、愛想笑いと言うより、不気味な……


 いや、違う。


 卑猥な笑いを張り付けて、私を見ている。


「あ、あなたは……だれ?」

 無意識に呟いていた。

「誰って、冗談でも失礼ですよ先生。僕は、もう何度もセミナーに参加している市成ですよ」

 スキンヘッドの男は、はつらつとした声で言うと突然机の上に登り異様な緑の制服を示して再度叫ぶように言った。

「い・ち・な・り~です」

 その姿を見て、私は完全なるパニックに陥っていた。


 何が、起こっている?


 何が、起こっている?


 これは、何?


 ここに居る人達は誰だ


 良く見るとクラス全員の顔に見覚えが無い。間違えて違うクラスに迷い込んだのか。違う。生徒は私が記憶している名前を名乗った。ならば、私が記憶している人間と目の前に居る人間は同一人物なのか。

 

 違う。


 違う、あり得ない。


 絶対に、それは無い。


 私の記憶は正しい。間違い無い。間違える筈が無い。たった今、言葉を交わした男は市成祐希ではない。そんな筈はない。目の前の男が市成なら昨日の昼下り、ベッドを共にした市成は誰なのだ。あの男が市成なら、私は何の為に離婚を欲しているのだ。混乱する記憶と、目の前に立つ見も知らない男との情事を回想して気が狂いそうになった。

 

 教壇に手を着き深呼吸を繰り返す。


「大丈夫ですか?」

 教壇の目の前に座る、少女が訊ねた。

 勿論、彼女も知らない人間だ。

「ここは……どこ?」

 私は少女に問い返す。

 少女は、歪な微笑みを私に向けると『さぁ?』と小さく呟いてノートを開き、何やら文字を書いて私に見せた。

「なに……」

 少女のノートを覗き込む。



寄生虫規制中寄生虫規制中寄生虫規制中寄生虫規制中寄生虫規制中寄生虫規制中寄生虫規制中寄生虫規制中寄生虫規制中寄生虫規制中寄生虫規制中寄生虫規制中寄生虫規制中寄生虫規制中……



 意味不明のキーワードがノートを埋め尽くしていた。 

 意味が解らない。


 何が、寄生虫なのだ。


 何を、規制中なのだ。


 少女は何を伝えたい。


 田中は何を知りたい。


 市成は何を言いたい。


 私は強烈な目眩に襲われ崩れ落ち意識を失った。





 淡い光りが、遠くで輝いていた。


 その遠い場所で、誰かが呼んでいる。


 私は徐々に覚醒する意識の端で、確かに自分を呼ぶ声を聞いていた。

「香織……香織……」

 夫が懸命に私の肩を揺らしている。私は夫の声に答えようとしたが、声は喉を駆け上がらない。

「先生……香織は、一体どうなったのですか? 目を開けて私を見ているのに……なぜ、返事をしないのですか? 検査したんでしょ? 何も、異常は無かったと言ったでしょ? なのに、なぜ香織は呼び掛けにさえ反応しないのですか?」

 夫の焦燥感に押し潰され、ひび割れた声がする。目を見開いた私が夫を見ていると叫んでいる。

 しかし、私には夫の姿は見えない。それどころか、体のどの部分も僅かばかりも動かす事すら叶わない。私は一体どうなったのか。 得体の知れない恐怖と焦燥感が不気味な毒虫のように体中を這い回る。

「今、言える事は……まだ、何も確証などないのですが」

 夫と対話相手だろうか。

 聞き覚えの無い、老いた男の声がした。

「何ですか? 何か、分かっているなら教えて下さい。お願いします。先生。お願いします」

 その声の主に、必死に懇願する夫。離婚直前の私の為に必死に先生と呼ぶ男に、すがり付いて懇願している。

「良いですか? 確証など何も無い。これは私の想像の域を出ない独り言だと思って下さい」

「先生、お願いします。妻は一体どうなったのですか?」

「先日、学会で新しい病気が発見されたと或国の学者が発表したのです」

「妻は、その病気なんですか? その病気は治るのですか? 薬は日本に有るのですか?」

「御主人、落ち着いて下さい。落ち着いて聞いて下さい」

 言うと、先生と呼ばれていた男は一呼吸置いてから続けた。

「病気と言うより……寄生虫による幻覚症状なのですが、奇妙な事に奥様の症状に酷似しているのです。勿論、現段階では奥様がその寄生虫に蝕まれているかは証明出来ないのですが……」

「何でも良いんです。証明されようが、されまいが妻が助かるなら何でも試したいのです。妻が倒れてから既に三年が経ちますが有効な処置は何一つ無かった……」

 夫の落胆した声が耳元で響いたが、私には何が現実なのか何一つ理解出来ない。アレから三年も経っている筈が無い。

「何をすれば良いのですか? 先生。教えて下さい」

 夫が懇願する。その懇願に嬉々として先生と呼ばれた男が答える。

「発表では寄生虫を摘出すれば患者は完全に回復したさうです」

「では、取り出して下さい。お願いします」

「でも、身体に強烈な電流を流すので……奥様に後遺症が残る可能性があります。それに、奥様の病気がその寄生虫によるものとは断言出来ない……」

 ひび割れた男の声が響いた。

 その声に夫が答える。

「それでも、やって下さい。もう……他に方法は無いのですから……」

「分かりました」

 男の声がして、私の意識は再度遠退いた。






「ギャャァー!」

 壮絶な電流に覚醒した私は閉じ込められた漆黒の闇で足掻いていた。手足をバタつかせて闇を切り裂いた。叫び声をあげて電流や自分を閉じ込めていた暗く湿度の高い狭い場所から抜け出した。

 

 


 先生と呼ばれた男の声がした。





「皆様が見ている生命体こそ、世界中のあらゆる組織がが求めていた生命体なのです。寄生した生物の意識を乗っ取り、意のままに操る。現段階では、この寄生虫をコントロールする事は出来ませんが近い将来それも可能になるでしょう。なぜなら、我々、世界寄生虫繁栄研究所は国の強力な後押しを約束されているのですから」

 男の声の後に、歓声があがった。その全ての視線が私に注がれる。





 私は視線の中から次に寄生すべき獲物を慎重に選んだ。

_______________________________________________

(3)


「ねぇ、どうして味噌油整骨院なの?」

 私は受付カウンターの上にクシャクシャになったココリコ証明書を広げて置いた。

「ちゃ~わからないよ~」

「わからないって、アナタここの人でしょ? 店の名前の意味くらいしっててよね」

 言って大きなため息を吐く。そして、見えない相手に微笑む。

「まぁ……良いです。それより随分遅くなったけど治療してもらえます?」

 私は肩の辺りを擦りながら訊いた。結局のところ、私の有事に三年と数ヵ月。男との婚前戦闘申請の為に半年。長い時間、私は男との愛情を育む事が出来た。

「ちょれでは~ちんちゃつちちゅに、おねがいちまちゅ」

 声と共にカウンター隣のドアのランプがちんちゃつちつゅの文字を浮かび上がらせる。

 私はゆっくりと、歩き。ドアノブを握ると深呼吸した。現在、沖縄の有事に出向いている男を思い出す。


 やっぱり、さ行で叫ぶ方が気持ちが良いのだろうか。



おわり

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